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赤い切符  作者: 渡辺正巳
23/27

6-1

 母の作ったクックドゥの麻婆豆腐と、できあいのギョーザは、相変わらず味も素っ気もなくて、私はただただ黙ってそれを胃に流し込んでいた。


 父と大谷資料館に行った日の翌日の昼だった。私はもそもそ料理を食べながら、食卓の向かいに座った母にしつこく怒られていた。


「なんであなたはそうなの? ただでさえお父さんの遺品、少ないのに。失くすなんて本当ありえない」


 父の遺品の小銭入れが無いことがばれたのはついさっき、母と二人でスーパーに買い物に行った時だった。菓子を買おうとした私に、母が「それは自分のお小遣いで買いなさい」と言ったので、私は父の小銭入れの代わりに使っていた財布をなにげなく出すと、母がめざとくそれに気づいて「あなた、お父さんの小銭入れは」と言った。後は母に鋭く追及され、駄菓子屋のおばあさんにあげたということも言えず、失くしてしまったと嘘をついたのだった。


「だいたい髪も勝手に切って。そんなおかっぱ、いまどき流行らないよ。なんなの? お母さんに対する当てつけ?」


 母は餃子をポン酢につけて口に運びながら言った。


「あーあ、正直、あなたなんて産まなきゃ良かった。悩んだのよ、あなたができたとき、仕事もしてたし、まだお父さんと結婚してたわけじゃなかったから。産まずに仕事を続けたい、産むとキャリアアップに響くからってお父さんに言ったら、お父さんが産んでくれって頼んできたから、そうしただけ。だからあなたが生きてるのはお父さんのおかげなの。それなのにお父さんの小銭入れ失くすとか、本当……ちょっと、もうごちそうさま? せっかく作ったのに」


 私は我慢できずに席を立った。「産まなきゃ良かった」などと、母の本心から出た言葉では全く無く、一時的に感情の平衡を失って口から出ただけだと、今では分かるけど、当時の私にはこたえた。


 私は家を飛び出した。消えてしまいたくなるくらい嫌な気分だった。誰でもいい、誰かに私の存在を肯定して欲しかった。そんな私が向かったのはもちろん――小学校前の駄菓子屋だった。父に会いたい。父なら私に優しくしてくれる。もう来ちゃだめだとか言いながら、結局どこかへ連れていってくれるだろう。


 とぼとぼ歩くと涙がこぼれそうだったので、駄菓子屋まで走った。たどり着くと店はシャッターが閉まっていた。つい忘れていたが、その日は日曜日だった。


 私はがっかりしたが、諦めなかった。この駄菓子屋は一階の表の部分が店になっているが、一階の奥と二階は住居になっている。その住居につながっているであろう玄関口が、建物の南面にあった。私はそこに立ち、インターホンを鳴らした。


「はあい」


 出てきたのはおばあさんではなく、ダウン症のお姉さんだった。この前会った時は頭がまだらはげだったのが、どういうわけかこの日はふさふさとした黒髪が肩の辺りまで伸びていた。髪は若干ウェーブして――まるで私の髪みたいだな、と私は思った。


「なんですかあ?」


 お姉さんは屈託の無い声をあげた。私が、おばあさんに取り次いで欲しいと頼むと、はあいと答えて中に引っ込んだ。


 しばらく間があって、おばあさんが玄関口に出てきた。彼女は玄関口に立って私の顔を見るなり、


「今日は休みなんだけども」


いかにも意地悪な、嫌な感じで言った。いつも駄菓子を売ってくれる時とはまるで違うその態度に、私は気後れした。


「またあの切符かい? 悪いけど、お代が無いとあげられないよ」


「分かってます。なんでもします。お父さんに会いたいんです。今すぐ」


 私が必死になってそうすがりつくように言うと、おばあさんは斜視の眼の目尻をいやらしく下げて、


「なんでもするって言ったけ? 本当に?」


「本当です」


「じゃあ……」


なぜかひそひそ声になって、


「寿命くれっけ」


言って、ふへへへへ、と気味の悪い笑い声をあげた。


「寿命?」

「そうさね。五年、いや、三年だけでいい。あんたが死ぬのが、三年だけ早くなるんさ」


「……」


 私はちょっと考えた。自分が元の寿命より三年早く死ぬ、それはずいぶん怖いことのように思えた。しかし、自分はまだ十歳だ。おばあちゃんになるまで生きられるとして、あと六十年、七十年は生きられるのではないか。だったら三年くらい、いいんじゃないだろうか。いや、そもそもこんな人生、何十年生きたって……それにしても、このおばあさんが寿命を私から奪って長生きしようとしているのが意外だ。おばあさんはきっと八十歳は超えているだろう。そんな齢になっても、人間長生きしたいと思うものなのかな――いやむしろ、もうすぐ死んでしまうのが分かっているからこそ、もっと生きたいと思うのかも知れない。


「嫌かい? 嫌ならいいかんね。別に無理してもらおうとは思わん。……じゃあ悪いけんど、切符はまた今度ってことで」


 私が黙り込んでいると、おばあさんは一転して素っ気なくそう言って、玄関戸を閉めようとした。それを見て私は慌てて逡巡をやめ、やぶれかぶれになって、


「分かりました! あげます、寿命」


と言ってしまった。


 おばあさんの口が開き、ぼろぼろの歯がのぞいた。


「そうけそうけ。ふっふふふ! 二言はねえべな。んん? いい子だ、こっちおいで」


手招きに誘われ、私はおばあさんのそばに寄った。おばあさんは私の頭に右手を置いた。よほどうれしいのか、満面の笑みを浮かべて興奮していた。


「本当にいいんだべな? いいんだべ? じゃあ、痛くねえからな」


 おばあさんは眼をつむり、「んっ……」と言って力んだ顔をした。すると数秒間、(イメージとしては)私の体中の血が、びゅるびゅるびゅるっと頭にのぼり、頭頂部に置かれたおばあさんの手に吸い込まれていく感じがした。


「はい、確かに三年分もらったかんな! えがった、これでユウミも少しは長生きできんべ……」


 おばあさんは手を離した。体の中にあったエネルギーが抜けてしまったようで、私はめまいがし、足元がふらっとした。


「ありゃ、だいじけ」


おばあさんが私の両肩に手をやり、支えてくれた。おばあさんはまだ興奮していて、


「ありがとな、ありがとう」


と言っている。


「それより、切符……」


 私は何とか倒れずに踏みとどまり、言った。


「おお、やるやる。ここで待っとれ」


 おばあさんは家の中に戻り、やがて二枚の切符を持ってきた。

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