第5話
お偉い貴族のお屋敷での舞踏会へと招待された私たちは、夫婦そろって出かけていくことになった。
久しぶりに着飾って出かけるのは気分転換には持ってこいだと思ったが、一つだけ気がかりなことがあった。
それはもちろんリーゼロッテ嬢のことである。アルベルトは失恋の痛みからだいぶ回復していたようで、憂鬱な表情もこのところめったに見ていない。
だが、もし初恋の人と舞踏会で再会した時、どういった反応をするか。燃え尽きていた恋心が再び激しく燃え上がるのではないか。
仮にアルベルトが耐えたとしても、リーゼロッテ嬢の方はどうだろうか。そもそも結婚させられたのも、彼女の意志ではない。元恋人が同じ空間にいるとして、彼女は自分を押し留めておけるだろうか。
(たとえ二人がまだ互いを忘れられないとしても……)
どうか面倒な事は起こさないで欲しい、と私は切に願った。
そんな私の憂鬱な気持ちを知ってか知らずか、アルベルトはちらちらと私の方を見ていた。呑気なものである。
目も眩むほどのシャンデリア。この日のために新調したドレスを見事に着こなす淑女たち。そんな彼女たちに称賛と甘い声を囁く紳士のみなさん。飲み物はいかがですかと忙しくなくホールを歩き回る屋敷の使用人たち。
「アルベルト」
たくさんの人々に紛れながらも、はっきりとその声は耳に届いた。
ピンクブロンドの髪を丁寧な編み込みで後ろにまとめ、大きな目をぱっちりと見開いた美少女。私には絶対に似合わないだろうパステルカラーのドレスを身に纏った、元恋人のリーゼロッテ嬢の登場である。
(さっそく来たわね……)
彼女とこうして実際に会うのは初めてだ。本物はやはりオーラが違う。妖精のようで、守ってあげたくなる可憐さが彼女にはあった。
「リーゼロッテ……」
アルベルトがなぜここに、という驚愕した表情を見せているが、別に驚くことではないだろう。
貴族社会は思ったより狭いのだ。彼女が嫁いだという家はけっこうな金持ちだと聞いたので、この場に招待されるのも道理だ。呼ばれない方がおかしい。
しかし、と私は先ほどから石のように固まった二人を見てどうしたものかと内心こっそりとため息をつく。もしかして目だけで語り合っているのだろうか。だとしたらさすがである。
(いったい何を話しているのかしらね……)
二人の別れ方を考えると、それはもう言いたいことがたくさんあるだろう。むしろありすぎて何から話せばいいのかわからない。なるほど。だから固まっているのか。
まあ、別に愛を語り合ってもいいが、周囲に迷惑をかけることだけは、やめて欲しい。アルベルトの様子を見る限り、おそらく大丈夫だと思うが……。たぶん。
「リーゼロッテ!」
おや、また新たな人間の登場である。お顔を拝見すると、その顔立ちはどことなく目の前の少女に似ている気がした。
「あれほど勝手にいなくなるなと言っただろう!」
「ごめんなさい、お兄様」
どうやらリーゼロッテ嬢の兄上らしい。そう言えば私がまだ結婚する前、ご令嬢方の間で噂になっていたなと妹によく似た繊細な顔立ちを眺める。
名前は確か──ルッツという名前だった気がする。顔も家柄もいいが、シスコンなところがただ一つの欠点だと。こうしてわざわざ妹を追いかけてきた所をみると、あながち間違いではなさそうだ。
でも彼がそうなるのも、リーゼロッテ嬢があまりにふわふわと頼りないせいもあるからだと思う。
「お前は人妻なんだから、他の男のもとへそう簡単に行っては誤解を招くだろう」
どうやら夫を放置してこの場までやってきたらしい。
それはたしかに危ない。普通の貞淑な妻ならそこまで問題はないかもしれないが、リーゼロッテ嬢は少し前まで、今もかもしれないが、時の人であったのだ。
しかもそのお相手、アルベルトと一緒にいるとなれば、嫌でもいろいろ勘ぐってしまうだろう。
酷かもしれないけれど、彼女は愛する人と再会するべきではなかったのだ。
「でも、どうしてもアルベルトに会いたかったんです」
「それはそうだが……」
「お兄様もお母様たちもみんな私を監禁するように屋敷に閉じ込めて……強引に結婚の話も決めてしまわれて、あんまりですわ」
やはり結婚は無理矢理だったのだ。若い娘さんにその仕打ちをしたら、きっと本人はますます嫌がって反抗するだけだろう。
「それは俺も悪かったと思っている。だがお前のためであってな」
「そんなのちっとも私のためではありません」
雲行きが怪しくなってきた。しかし、兄妹喧嘩するのは構わないが、私を巻き込むことだけはやめて欲しい。
周囲も好奇と迷惑の入り混じった視線で眺めており、非常に居心地が悪い。きっと彼らの目にはこの状況が修羅場として映っているのだろう。ああ、今すぐにでも逃げ出したい。
「とにかく、お兄様は少し黙っていて下さい」
リーゼロッテ嬢は兄の言葉を一蹴すると、愛する人と向き直った。
「アルベルト様。私、あなたと話をしたいのです」
「だが……」
アルベルトはちらりと私の方を見た。だが私は思いっきり目を逸らしてしまう。だって仕方がない。これはアルベルトの問題だ。彼がはっきりと自分で決めて返事をするべきだ。
だから助けを求めるような目で私を見ないで欲しい。
アルベルトがこちらを見るものだから、リーゼロッテ嬢まで私の方を見ているではないか。
可愛い表情をしてはいるが、その目には嫉妬と嫌悪が渦巻いている。きっと彼女にとって私は、愛する恋人を奪った憎き恋敵なのだろう。悪女や魔女の類かもしれない。おお、怖い。
「……アルベルト、リーゼロッテ様と一緒に踊って来たらどうでしょうか」
そうすれば踊りながら話もできるし、人の目がある中で変なこともしないだろう。私が助け舟のつもりでそう提案しても、アルベルトの顔はまだ迷っていた。
「だが、そうすればあなたが」
「アルベルト様、行きましょう」
痺れを切らしたリーゼロッテ嬢が、許可を得たとばかりにアルベルトの腕に自分の胸を押し当てた。
私は彼女の勢いにすごいなあと感心しながら元恋人たちを送りだした。アルベルトが何か言いたげな目をしていたが、きっと嬉しいのだろうな。
私のことは気にせず、彼女との踊りを思う存分楽しんでくるといい。
「ったく、あいつは……」
ルッツはまだぶつぶつと文句を言っていたが、私がいることに気づいて慌てて謝った。
「申し訳ありません。妹がとんだ失礼を」
「いいえ、構いませんわ」
むしろお兄様も大変ですね、と言ってあげたい。
夫の元恋人の兄上。なんとも気まずい関係に、ルッツは居たたまれない表情をしていた。立ち去りたいけれど、妹のことを考えて何か話をするべきか。彼の心中が痛いほど伝わってくる。
(この人も大変ね……)
私はそこまで気にせず、アルベルトとリーゼロッテ嬢の踊りを眺めていた。
華麗なステップを踏むかつての恋人たちの姿に、私は若いなあと思った。
好きな人は命をかけて愛する、というロマンス小説のような熱意が彼らにはみちあふれているのだ。身分とか立場を気にせず、自由な恋が許された世界だったら──おそらく、いやきっと彼らは似合いの夫婦になっていただろう。
(考えてみると、不幸なことよね……)
結婚当初は腹が立っていたこともあり、非難することしか頭になかったが、もう少し二人の立場も考えてあげるべきだったかなと後悔の気持ちが生まれてくる。
「……リーゼロッテ様は旦那様とあまり上手くいっていないのでしょうか」
「ええ、まあ。無理矢理結婚させたことを根に持っているようでして、それにむこうの家もかなり厳しいことも相まって順調とは言えないようです」
初対面の私にここまで話してくれるあたり、そうとう苦労しているのだろうなと私は少し可哀想に思った。
「あの、すみません。私はむこうの両親に挨拶してくるのでこれで、」
「あ、はい」
挨拶という名の言い訳だろうな。私は疲れ切った表情で別れたルッツの後ろ姿を、今度こそはっきりと同情の眼差しで見送ったのだった。
妹のリーゼロッテ嬢は、兄の苦労を少しでも理解しているのだろうか。
再び彼らに視線を戻すと、アルベルトが完璧な身のこなしでリーゼロッテ嬢をエスコートしているところだった。
こうして眺めていると、本当にお似合いの恋人だなと思った。リーゼロッテ嬢の頬が上気しており、白い肌が薔薇色に彩られる。恋する乙女の顔とは彼女のようなことを言うのだろう。
先ほどまで可哀想だって気持ちがあったけれど彼女の表情を見ると、やっぱりもう少し自分の立場を考えて欲しいと思ってしまうから、人間って難しい生き物だ。
「なあに自分の夫に見惚れているんだい?」
「あら、フランツ。珍しいですね。あなたが出席するなんて」
現れたのは高級そうな礼服を見事に着こなしたフランツであった。彼がこんな場所にいるなんて珍しい。面倒だからといつも何かと理由をつけて断っているのに。
「きみが出席すると聞いてね。一人で気まずいんじゃないかと思って顔を出してあげたのさ」
「それは、ありがとう。正直助かりました」
好奇の目に晒されて、さすがの私でもそろそろ息が詰まりそうだったのだ。だから見知った顔を見てひどく安心した。
フランツはにこにこ笑いながら、私の近況を聞きたがった。
「どうだい、一途な旦那様とはうまくやっているかい?」
「そうですね。まあ、最初よりはずいぶんと会話はできるようになった気がします」
「ははっ、それは大した進歩だ。お姫様とはえらい違いだな」
彼の視線はホールで踊り続けるリーゼロッテ嬢に注がれていた。彼女は久しぶりの恋人と出会えて嬉しいのか、口元に笑みを浮かべながらあれこれと話しかけていた。
対するアルベルトの表情はどこか固く、会話もぎこちない様子だ。
(せっかく好きな人と踊れているのだから、もっと嬉しそうな顔をなさればいいのに)
「あの様子じゃあ、彼女の旦那さんは辛いだろうねえ」
「……あまり上手くいっていないそうですね」
先ほどの兄であるルッツの疲れた顔を思い出す。
「らしいね。きみの旦那と同じように、心を開こうとしないらしいよ」
「……アルベルトは少しずつ変わってきていますよ」
「あれでかい?」
フランツの辛辣な指摘に、私は苦笑いする。それを言われると痛い。
「でも、リーゼロッテ様はアルベルトに手紙でお別れしましょうと仰いましたのよ?」
これで二人の関係は終わりにしましょうということではないのか。それとも実際に会って抑えきれなくなったのだろうか。疑問符を浮かべる私に、フランツは甘いなあと呆れた表情をした。
「そんなの本心であるわけないに決まっているじゃないか」
「……では、本当のところは?」
「このままだと今度こそ本当に私が手に入らなくなるので、その前に私を攫いに来て下さいっていう、乙女の決死の告白だよ」
そうだったのか。正直、まったくわからない。愛の駆け引きとは、こんなにも本音と建て前を巧みに使い分ける必要があるのか。
(というか、アルベルトにも伝わっていなかったような……)
目を真っ赤にして、この世の終わりのように落ち込んでいた気がする。
「まあ、その中でもリーゼロッテ嬢はさらに難易度が跳ね上がるけどね」
「私には、一生わかりませんわね」
「そうかもしれないね。それよりせっかくパーティーに来たんだから一曲踊って頂けませんか奥様?」
お道化て手を差し出すフランツに、私はくすりと笑った。
「ええ、喜んでお受けしますわ」
社交界の場では、いつも彼に相手をお願いしていた。そのため私たちは息ぴったりの華麗なダンスを観客に見せることができた。
「そう言えば、このところまったく遊びに来てくれませんね」
「まあね。きみたち新婚夫婦の邪魔をしてはいけないと思ったんだ」
そうは言うが、フランツのことだから他の遊びで忙しいのだろうなと私は思った。金色の髪に青い目と、それなりに整った容姿を世の女性は放っておかないだろうから。
「言っておくけど、女遊びはしていないよ。僕はクラウディア一筋だからね」
「はいはい」
彼のいつもの態度にそう言って返せば、本当だってば、とまるで子どもが拗ねたように頬を膨らませた。それが可笑しくて、思わず笑ってしまう。フランツも面白かった? と目を細めた。
私の親友は不安や疲れを吹き飛ばす天才だ。
「でもそんなに気にしないで、前みたいに遊びにいらっしゃいな」
もしかしたら真面目なアルベルトも、楽観的なフランツと話せば、もう少し気が楽になるかもしれない。
「それはどうかな」
「アルベルトとは合わないのでしょうか」
フランツはううんと曖昧な表情をしたが、すぐにわかったと笑った。
「きみが誘ってくれるなら、また遊びに行かせてもらおうかな」
「ええ、待っていますわ」
私とフランツがそんなことを話していると、ふと踊っているアルベルトと目が合った気がした。