勇者の魔王討伐編1 ここはゲームで見た世界と同じ、異世界である
眼をあけて見ると、薄暗いじめじめした所にいた。ここは不可思議の太平か、極楽浄土か天国か。死んだのか助かったのかとんと見当がつかぬ。試みにニャーニャーやってみたが誰も来ない。
はてどうしたものかと考えたが考えても仕方がない。仕方がないから何処にいるのか調べようと明るい処を目指して這って行った。薄暗いじめじめした所と思っていた所は西洋式の竈の裏であった。吾輩は台所から開いていた窓へ跳び上がり、石畳の庭を通り石垣の上に出て辺りを見廻した。
突き抜ける青空、爽やかな海風。日本ではない。吾輩は町の小高い処にいた。見渡す限り白い壁、橙色の屋根瓦、まるで地中海にある町である。往来は活気があり多くの人間が歩いている。髪色は茶色や金色が多い。物騒なことに街中で剣やら槍やらを剥き出しで持ち歩いている輩がいる。西洋式の鎧を見に付けている者もいる。
吾輩は自分の主人を思い出した。
吾輩の主人は名を珍野苦沙弥と云った。文明中学校の英語教師だそうだ。大学を卒業して九年目、妻と三人の娘がいた。あばた面で、口髭を蓄えている。タバコを吸うが酒はあまりやらない。
主人は学校から帰ると終日書斎に這入ったきりほとんど出て来る事がない。家のものは大変な勉強家だと思っている。当人も勉強家であるかのごとく見せている。しかし実際はうちのものがいうような勤勉家ではない。吾輩は時々忍び足に彼の書斎を覗いて見るが、彼はよくネットゲームをしている事がある。時々畳ほどの大きさの机の上のキーボードに涎をたらしている。
彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色を帯びて弾力のない不活溌な徴候をあらわしている。その癖に大飯を食う。大飯を食った後でタカジヤスターゼを飲む。飲んだ後で書物をひろげる。二三ページ読むと飽きる。パソコンを点けてゲームを始める。疲れたら寝る。これが彼の毎夜繰り返す日課である。
吾輩は猫ながら時々考える事がある。教師というものは実に楽なものだ。人間と生れたら教師となるに限る。こんなに遊んで寝ていて勤まるものなら猫にでも出来ぬ事はないと。それでも主人に云わせると教師ほどつらいものはないそうで彼は友達が来る度に何とかかんとか不平を鳴らしている。
主人が毎日していたゲームはRPGであった。勇者として魔王を倒すのが目的らしい。思えば勇者というのは人間中で一番獰悪な種族であろう。町に居れば他の家に許可なく立入る、宝箱や壺の中を漁る、見つけた物を勝手に使う、売り払う、所有権という事をまるで解していない。我々猫族も三馬や目刺を偸む事はあるが限度というものを心得ている。また勇者は強くなるために経験値を稼いだり、より強い武器やアイテムを買うために何をするのか。追い剥ぎをするのである。山や森に入り魔物と呼ばれる生き物を斃し金品を強奪する。甚だ質が悪い。不埒と云わんよりむしろ無埒といった所業である。遺跡や他人の墓にも無断で侵入する、見つけた物は全て持ち帰る。警察に届け出ることなど全くない。勇者とは熊坂長範やジョン・デリンジャー、バラバの類か。
ネットゲームでは、主人は女性として登録していることがあった。大の男が性別を偽ってゲームで遊んでいるとは如何なものか。教師として恥ずべからざる愚劣の極である。
ある時、主人は魔物討伐のパーティーに入れて貰っていた。主人だけ低レベルで他のプレイヤーは高レベルであった。主人以外のメンバーは主人に参加だけさせて経験値を獲得させレベルアップを支援したいと考えていたようだ。主人を後方に配置させ防御に徹せしめようと試みたが、主人は気に食わない。何もしないで経験値だけ貰うことが我慢ならないらしく、魔物に特攻を仕掛ける。無論一撃で死んでしまう。経験値は手に入らない。レベルも上がらない。何度も繰り返す内に他のプレイヤーに見捨てられてしまった。
仲間がいないので一人で行動する。しかし仲間がいないとクリアできない魔物討伐クエストもある。主人は仲間を募集したが、噂は見えない所で広がるようで、誰も主人とパーティーを作ろうとしない。その内寂しくなったのか主人はもう一つアカウントと取って一人二役でプレイし始めた。一応形式を考慮したのだろう、六畳の書斎で、一人でキーボードを敲いて会話している。「良かったら私のパーティーに入りませんか?」「いいですよ(^o^)」「一緒にがんばりましょう」「ええ喜んで(^o^)」「分からない事があったら何でも聞いてください」「ありがとうございます(^o^)」といった調子だ。
これで教師である。吾輩も日本の猫だから多少の愛国心はある。こんな教師を見るたびに撲ってやりたくなる。こんなものが一人でも殖えれば国家はそれだけ衰える訳である。こんな教師のいる学校は、学校の恥辱であって、こんな人民のいる国家は国家の恥辱である。恥辱であるにも関らず、ごろごろ世間にごろついているのは心得がたいと思う。日本の人間は猫ほどの気概もないと見える。情ない事だ。
吾輩は自分の主人に尊敬の念を抱いたことはなかった。皆無である。そんな気持ちが変化していくのは、まだまだ先の話である。
このように、吾輩は主人がプレイしていたゲームを見知っていたので、自分が何処に来たのか、町と人々の風俗を見た刹那理解することができた。此処はゲームで見た世界と同じである。異世界である。所謂転生もの、召喚ものの類である。何処であるかは分かったが何故であるかは智慮深き吾輩でもとんと分らぬ。はてどうしたものかと思案していると、背後から吾輩を捕まえようとする手が伸びて来た。