夏祭りの日の幽霊
俺の住んでいる村では毎年同じ日に、近所の千草神社という小さな神社で夏祭りが行われていた。秋の豊作を願うためのものだと、ばあちゃんから聞いたことがある。鎌倉時代よりも前から続いているのだそうだ。
小さい頃は親や近所の子と一緒に来ていた。でも、幼稚園児のときにある体験をしてから、ずっと一人で来ている。別に一緒に来る人がいない訳ではない。ただ、その体験は他の人に教えてはいけない気がしたのだ。
個人的にかき氷はみぞれが一番好きだ。ただ甘いだけだが、ただの氷を食べるのだからそれで充分だ。なので、カップから溢れそうなかき氷(みぞれ味)を両手に持って社の裏に回る。そこが、あいつとの待ち合わせ場所だ。そこにはほとんど、というか全く人がこない。祭りをしているので神社に出入りする人は多い筈だが、これまでここで人を見かけたことが全くない。まあその方があいつと会うのには都合がいいのだが。
今年も誰もいなかった。あいつは毎年遅れてやってくる。
「やあ、久し振り」
後ろから声を掛けられた。一年振りに聞く、懐かしいあいつの声だ。俺はゆっくりと振り向いた。
当たり前だが、そこに立っていたのはいつも通りの千草だった。昔の百姓が着ていそうな質素な着物を身にまとって、百三十センチほどの身長から地面につきそうなほど長い黒髪をなびかせていた。
「久し振りだな。ほら、かき氷だ」
そう言って、左手に持っていたカップを前に突き出した。わーい、と子供らしい声をあげて千草が走り寄ってきて、そのカップを両手で掴んだ。
「ちぇっ、今年もみぞれ味か。たまには他のものも食べたいのに」
「せっかく買ってきてやったのに覗き込むなりその言い草はなんだ。知ってるか? 俺はかき氷が大好物なんだぞ」
夏には一日五杯はかき氷を食べている俺だ。カップ二杯くらいなんてことない。千草は慌てて、
「わー! ダメだダメだ!! これは私のかき氷だ!!」
そう言って俺の手からカップをもぎ取った。
「冗談だ。やっぱり千草は弄り甲斐があるな」
「むむ……罰当たりな奴め……」
そう言いつつ座り込んでしゃくしゃくとかき氷を食べ始める辺り、食い意地が張っている。俺も自分のが溶けてしまってはいけないので、座り込んでスプーン型のストローに手をやった。これは本当に素晴らしい発明だと思う。溶けて最後に残った氷や蜜を吸うこともできるのだから画期的だ。考えついた人にお礼を言いたい。
「なあ千草」
「なんだ、良太」
「お前、俺と同い年くらいの見た目になれないか?」
急に千草がかき氷を噴き出した。氷だから土に還るとはいえ、一度口に含んだものを出すのは汚いだろう。
「とっ……突然なにを!?」
あまりの狼狽えっぷりについつい笑ってしまう。笑うなと千草が言う。
「まあ、俺ももう十八だし、幼女趣味があるわけでもないからな」
「ふうん……最近はよくわからんなぁ」
そう言って、千草はスプーンを口に運ぶ。
「まあ、無理だな。そもそも私はお前よりずっとずーっと歳上なのだぞ」
「いやまあそれは分かってんだけどさ。やっぱり、こんなとこ誰かに見られて俺にそういう趣味があると思われても嫌だし」
馬鹿か、と千草が呆れたようにため息をついた。誰が馬鹿だこの野郎。
「私は良太以外の誰にも見ることはできないと、何度も言っているだろう」
「ですよね」
***
カップの中に残った透明な甘い液体をストローで吸いながら、同じくストローを咥えている千草の横顔を見た。こいつは、こんなに子供っぽいのに人間ではない。そう本人からは聞いている。俺と出会ってからこいつは全く歳をとっていない。そう考えれば当然と言えば当然だ。それどころか神様なんじゃないだろうか、とも思ってしまう。千草神社だし。
そうはいうが、俺は別にオカルトを信じているわけではない。ただ、千草だけは特別なのだ。
「なあ千草」
声を掛けると少女はストローから口を離して顔をこちらに向けた。
「なんだ、良太」
邪魔をするなとでも言いたげな顔だ。思わずくすっと笑ってしまった。
「俺と初めて会ったときのことを覚えているか?」
「随分昔のことを聞くなぁ。覚えているが、どうしたのだ、急に」
「千年くらい生きてるってのになんだその時間感覚は。俺と会ったのなんてほんの十二年前じゃないか」
今度は千草がくすっと笑った。笑わせるつもりなんてなかったのに、不思議なやつだ。
「そもそも私は生きてなどおらんよ。なんといったって、良太たち人間とは違って私は『おかると』だからな!」
使い慣れていない言葉を使い、ほとんど自己主張のない胸を張る。いや、俺は一体どこを見ているんだ。ロリコンなんかじゃないぞ、決して。
「それもそうだな」
千草がストローに口をつけ、少し吸ってから離す。
「初めて会ったときのことは私も話したいな。たまにはそういうのもいい」
「俺が六歳……いや、五歳のときだったっけ」
「そんな小さな子供だったやつが、もうこんなに大きくなったのか。ああ……あの頃はあんなに可愛かったのになぁ」
千草は両腕を組んでうんうんと頷いた。ずっと小さいままのこいつには言われたくない。
「お前は俺の保護者か?」
「まあ、そのようなものだ」
「お前に成長を実感されてもなぁ……」
はぁ、とため息をついてから、ぽつぽつと思い出話を始めた。
***
幼稚園にかくれんぼに誘われたのがきっかけだった。十二年前の夏祭りの日のことだった。
遊び盛りだった当時の俺がやらないわけがない。俺はかくれんぼが得意だった。一度隠れれば十分二十分見つからないことがざらにあった。
もちろんその日も全力で隠れた。俺は社の裏の床下に隠れた。じめじめしていて気持ちが悪かったが、当時の俺にはそんなことより簡単に見つかってしまうことが嫌だった。変なプライドを持っていたものだと今になって思う。
一時間ほど隠れていたのだが、見つかる気配すらなかった。もうみんな帰ってしまったのかもしれない。そう思うと涙が滲んできた。いつもは見つかるのが遅くても三十分くらい経ってから、しかも見つかりそうになるというスリリングさを孕んでいたので、その倍の時間一人ぼっちというのは幼心にこたえた。
「ぐすっ……ぐすっ……」
俺はもう隠れることはやめていた。床下から出てきて、しゃがみ込んだまま泣いていた。
「どうしたのだ?」
突然頭上――といってもそこまで高いわけではないが――から声をかけられた。見上げるとそこに立っていたのは俺よりも幾らか年上の少女だった。
それが千草との出会いだった。
***
「そういえばそんな感じだったなぁ」
腕を組んでうんうんと千草が頷く。
「だったなぁじゃねえよ。覚えてないのかよ」
「冗談だ。ちゃんと覚えているに決まっているだろう」
幼い顔で悪戯っぽく笑う。俺は少し恥ずかしくなって目を逸らした。
「良太?」
千草が俺の顔を覗き込む。無邪気なその行動が、成長しているのが俺だけだということを痛感させる。
「なんでもない」
「そうか」
少しの沈黙。いつもならこんなことはない。楽しくかき氷を食べて、楽しく話して、楽しく「また来年」と言う。でも、それが今の俺には出来ない。今年はもう、そんな余裕はない。
盆踊りの太鼓の音、遠くに聞こえる人の声。聞きなれているはずなのに今年はどうしてかそれが鬱陶しい。
思いっきり息を吸って思いっきり息を吐く。伝えなければならない。覚悟は決めた。
「なあ千草」
「なんだ、良太」
さっきと同じ言葉を交わす。でも、俺は真剣だった。千草もそれを察してか笑わなかった。
「何か言うことがあるのだろう?」
ああそうだ、ちゃんと伝えなきゃ。
「俺、実は、東京の大学を受験しようと思ってる。だから、もし合格したら、しばらく千草と会えなくなるかもしれない」
千草はこの日だけの幽霊だから。ここだけの幽霊だから。
「そうか」
千草は、それ以上は言わなかった。言えなかったのかもしれない。だが、俺にはもう一つ伝えなければならないことがある。
もう一度深呼吸。もう周りの雑音は聞こえない。ここは俺と千草の世界だ。気持ちを落ち着かせて、千草の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「千草、俺は、お前が好きだ」
「私は人間ではないのだぞ?」
「それでも俺は千草が好きだ」
千草が微かに笑った。俺もつられて笑ってしまう。こんなに真面目で大事な話をしているのにどうしてなのだろう。
「お前はずっとそのまんまだけど、俺は成長する」
お前と俺とは決定的に違う存在だから。
「いつこの気持ちがなくなってしまうかもわからない。だから今言った。今しか言えないから」
そうか、といつもの調子で千草は言った。
「私も好きだよ、良太。ずっと一緒にいたかった」
顔が赤くなっていくのを感じた。
「今年はもう終わりだ、良太」
その言葉で現実に引き戻された気がした。太鼓の音が消えている。人の声もさっきより少なくなっていた。終わりなのか。
「もう、会えねえのかな」
ぽつりと呟いて立ち上がる。
「さあ」
千草も呟いて立ち上がる。だんだん彼女の身体が薄れてゆく。
「じゃあな」
「ああ、さよならだ」
そう言って千草は虚空に消えた。あとには何も残らなかった。
もうここにいる意味もないので、俺は社の裏を立ち去った。
***
「だあー、暑い」
あまりの暑さに座っていることすら出来ず、オンボロアパートの畳の上で大の字になって寝転んでいた。クーラーがないので窓は全開。扇風機を置くスペースを確保出来そうにないので、この夏はうちわでぱたぱた扇いで耐えるしかない。
ふと、去年のことを思い出した。千草と別れたあの夏のことを。
「あれからちょうど一年か……」
もともと一年おきにしか会えなかった奴なので、もちろん千草のことを忘れるわけもない。ただ、今でも俺はあいつを好きなのかどうかは分からない。千草には会いたいが、東京から九州まで帰るのはただの大学生にとって、なかなか大変なことだ。実家からの仕送りが少ないので、生活費を稼ぐので精いっぱいだし、俺には他にやるべきことがたくさんある。田舎の夏祭りに行く余裕なんてない。
立ち上がって冷凍庫の扉を開けた。そこにはコンビニで買ってきた二つのかき氷が入れてあった。もちろん好物のみぞれ味だ。夏はこいつに限る。スプーン型のストローは大量に買い込んであるのでなくなる心配はしなくていい。
一つを取り出して畳に座り込む。
「いただきます」
しゃり、とスプーンを氷の山に突き刺したその時だった。
「なあ良太、私のぶんはないのか?」
懐かしい声が背後から聞こえてきた。今のは絶対に幻聴ではない。
無意識のうちに振り向いてしまっていた。こんなところにいる筈がない。だってあいつは夏祭りの幽霊だ。
そこにはいた。質素な着物を着たちっこい奴が。長い黒髪を扇風機の風になびかせて立っていた。そこにいたのは確かに千草だった。
「千草、お前……」
千草は笑った。
「私は良太の幽霊だ。良太だけの幽霊だよ」
これこそが、私が文芸部でロリコン呼ばわり(一時的)されることとなった小説だ!




