結末
作家デビューすることになったおっさんの御噺。
「というわけで紺田さん、よろしくお願いしますね」
受話器を通して、私があなたの担当です、と自己紹介をした井川さんは、翁談社で働いている編集者だそうだ。
どうやら僕は作家としてデビューできるらしい。何となく応募した推理小説が木戸川乱走賞を受賞したのだ。木戸川乱走賞といえばあの木戸川乱走賞である。推理作家への登竜門と言われ、受賞した作家は翁談社の強いバックアップにより、のちのち活躍できる作家も多いあの賞だ。とても現実だとは思えない。
「紺田さん、聞こえてますか?」
そういえば通話中だった。
「あ、はい、大丈夫です。まさか自分が受賞できるなんて考えてもみなかったので驚いてしまって」
僕がそう言うと、井川さんはうんうんと頷いたようだ。
「わかりますわかります。受賞された方は皆さん口を揃えてそう言います。自分が絶対受賞すると思っていた、なんて言ってる方のほうが珍しいですよ」
それもそうか。そこまで自信を持っていたところで受賞できるというわけでもないだろう。むしろ僕みたいになんとなく……というほうが多いのではないだろうか。
「あ、それと、受賞された紺田さんの作品『偶然の殺意』の刊行時期ですが、年明けくらいになるかと思います。それまでに誤字脱字などの訂正お願いしますね」
なるほど、確かに気合いを入れて書いたわけではないからそういうのは多いかもしれない。一応、応募前に推敲はしたのだが、いくらかは残ってしまったのだろう。
「わかりました」
井川さんはそれで今言わなければならないことは全て言ってしまったようで、失礼しますと言うと電話を切った。そのあとしばらく、僕は受話器を握ったまま放心してしまっていた。
「へぇ、あなたが木戸川乱走賞にねぇ」
木製のダイニングテーブルを挟んで、僕の向かいに頬杖をつきながら座っている妻の章子がつまらなさそうに言った。亭主が全国的に有名な賞を受賞したというのにこのババアはなんて薄情なんだ、というのを口に出せるような立場ではないので、僕は大人しく頷いた。僕の方が二つほど年上なはずなのだが。
「木戸川乱走賞ってあれでしょ? 西野圭介とか東村本太郎とかが受賞したことのあるっていう」
「あ……ああ」
なんだ、意外に詳しいんじゃないか。まあ僕が好きな作家だというのもあるのだろう。僕が感心していると、章子はまたしてもつまらなさそうに呟いた。
「ああ面倒」
どうして面倒なんだ。
「亭主が作家なんて、自慢できるじゃないか」
勇気を出してそう聞くと、章子は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「そうじゃなくて、近所の人から嫌味みたいなこと言われるんだもの。『印税とかすごいんでしょう?』みたいに」
「そうか……」
何を言っているんだこのババアは。亭主が作家デビューするんだぞ、それを喜ばずに近所付き合いのことばかり気にしやがって、人間性が疑われる。口には出さなくとも、僕は心の中で激しく罵倒した。口に出すと即離婚、たんまりと慰謝料を請求されるに違いない。ああ、なんで僕はこんなババアと結婚したのだろうか。
そんなことを考えている僕を差し置いて章子は、
「まあいいわ。取り敢えずお金さえ稼いでくれたら高級マンションでも買って、そこに引っ越すわ」
一言くらい「すごい」だの「よかった」だのといった言葉を口に出そうとは思わないのだろうか。そうだ、僕は作家になるのだ。たんまりと印税が入れば、このババアに払う慰謝料なんて痛くも痒くもない。
「いい加減にしろ、このクソババア!」
魔が差すとはこのことだろうか。気がついたら僕は章子に対して怒鳴り声をあげていた。
離婚届に署名してやった。後悔なんてするはずもない。むしろ溜まりに溜まった鬱憤を晴らせて清々しいくらいだ。慰謝料などについては近いうちに話し合おう、とのことだ。しかし不思議なことに、僕がローンを組んで僕の名義で買ったはずの家を追い出されてしまった。仕方がないので今晩はビジネスホテルに泊まることにした。
ベッドに入ると、昼間に井川さんが言っていたことを思い出した。絶対に受賞すると思っている人が落選して、僕みたいな人間が受賞してしまった。僕は別に作家にならなくても食ってはいけたが、もしかしたら今回の木戸川乱走賞に人生を賭けていた人もいたかもしれない。そう考えると、僕が受賞したのはおかしな話ではないだろうか。
不意に『偶然の殺意』を思い出した。この話の犯人は計画的犯行を行ったわけではなく、急に湧き上がった殺意により殺人を犯した。まるで僕みたいだ。犯そうと思って殺人を犯したわけではない犯人と、受賞されようとして受賞されたわけではない僕。犯人はうまく警察の捜査の手を掻い潜っていくが、最後には追い詰められてしまう。僕も成功するのは最初だけではないだろうか。いや、それどころか少しもうまくいかないかもしれない。そうなると家のローンや章子から請求される慰謝料は払えない。そうなれば僕はどうすればいいのだ。
そこまで考えて思い出した。そういえば『偶然の殺意』の最後には――
***
数日後、新聞の一面に小さくこのような見出しの記事が載せられた。
『木戸川乱走賞受賞作家自殺』