恋人プロジェクト
「僕の方には入ってこないでくださいね」
八木鼎は四畳半の真ん中でそう言った。
おどけたように両手を広げ、なんだか嬉しそうだ。
四畳半一間のアパートで、大学の後輩の鼎と一緒に暮らすことになった。男同士だから一緒に暮らすのは構わない。だが鼎には男が好きだという噂がある。
ちらっと鼎を見たら、その綺麗な顔がすぐ目の前にあった。
「うわっ、なんだよ」
「だって、先輩の方を通らないと僕は部屋に出入りできないじゃないですか。だから僕はこっち側に入ってもいいんですよ」
鼎は俺のスペースに入り込んでちょこんと座り、クスクス笑ってる。笑顔さえ見せれば何でも許されると思ってるような顔だ。俺は鼎のスペースの方に逃げた。こっちの方が窓が近くて明るいし風の通りもいい。そっち側いいなら場所を交換すればいい。
「きゃーっ!!」
鼎が叫んだ。
「な、なに?」
「だって、そっちは僕の場所ですよォ。先輩が入ってくるなんてずるいです」
「は?」
「ずるいです」
「ま……まあいい。ならさ、場所を交換しよう。窓側は俺だ。そっちはお前が自由奔放に使えばいい」
「だめです! もう決まったじゃないですか。そっちは僕で、こっちが先輩です。さあ早く戻ってください」
「な……」
んという身勝手……。
天真爛漫というかおめでたいというか、やっぱりこいつはあの理事長の息子だけはある。甘やかされて育って自分のことをごく自然に殿様とでも思っているのだろう。まったく、どうして二ヶ月だけとはいえ、こいつと一緒に暮らすことになったのか……。
――恋人プロジェクト。
という大学の研究室の企画で、俺はこのホモ夫くんと一緒に暮らすことになった。期間は二ヶ月。男女が一つ屋根の下に肩を寄せ合って暮らし、相手に恋をしなければ三十万円という報酬が手に入る。そういう変な実験だ。
俺はもともと向日葵荘というアパートに住んでいた。
二階建ての築五十年という古いアパートだから家賃が安い。大家の前田さん夫妻が良い人だった。
「きょうはカレーがたくさん余ったから」
奥さんはそう言って、わざと多めに作ったカレーを俺のような貧乏学生に振る舞ってくれる。家賃の支払いが遅れても催促されたことがないし、旦那さんは大黒様のような笑顔を浮かべ、
「欲しい物は買えるのかい?」
と、小遣いさえくれそうな勢いで言ってくれる。まさに、向日葵に囲まれるように穏やさで俺は生活していた。俺は管理人の老夫妻が大好きだった。
ところが事件が発生した。
「建物を新しくしませんか?」
俺の通う大学から、そんな提案があった。
夫妻は一切の金銭を要求されない。向日葵荘に住んでいた前田夫妻には別のマンションが与えられ、向日葵荘の売却費用も手に入る。今にも壊れそうなボロアパートを破格な金額で買い取って、夫妻には他のもっと住みよいマンションの一室をプレゼントしようというのだ。まさに奇貨を拾うような幸運な話だったが、前田夫妻はこの話を断った。
向日葵荘に愛着があったのだろう。玄関には学生の残していった思い出を綴った色紙がビニールに包まれて大切そうに飾られていた。
前田夫妻がアパートを売却する気がないことを知ると、大学側の強引な地上げ工作が始まった。老夫婦は心労で倒れ、息子夫婦の住む家に引越し、俺は住むところを失った……。
「波布先輩、僕、着替えたいんですけど」
鼎が困った顔で俺を見ていた。
「う、うん。勝手にすれば?」
「いやん、先輩がいたらできない~」
鼎は人差し指を立てて左右に振った。いちいちイラつかせる。
「てめぇ……いや、ごほん。あのさあ、俺たち男同士だろ? お前の裸なんかに少しも興味ないからさ、そのへんでさっさと着替えればいい。お前のそのちゃらい服装の内側を見ても、俺の心は重さ七十トンの知恩院の釣鐘みたいに揺れないから」
「ああそうですか!」
鼎は怒ったように右頬を膨らませて風呂場に入っていった。そこで着替えるようだ。
「まったく……」
しかし、このバイトは渡りに船だった。
向日葵荘に住めなくなった俺に行く場所はない。家賃滞納の常習犯だった俺に貯えなどあるはずもなく、大学の生協で紹介されたこの住み込みのバイトに飛びついた。
――同居人に恋をしてはならない。
若い男女が一つ屋根の下に暮らし、金のために恋愛感情が抑えられるか……。というのがこの恋人プロジェクトの趣旨だ。
「恋をしてはならない同居人の女性が、一生に一度だけしか出会えない運命の人ならどうする……」
と、想像しないでもなかった。
相手の女性は俺の心を取ろうと演技をしてくるかもしれず、俺の好みの女性を演じきって、俺が三十万円を蹴ってプロジェクトを終了したら、
「実は演技だったのよ。キモイ嫌いよ馬鹿みたい」
そんな落ちだろう……。どんなに美人の器量良しでも、俺はがんばって撥ねつける。そう気構えてアパートに来たのだ。
しかし拍子抜けした。同居人は女性ではなく、鼎だった。
馬鹿な研究室の馬鹿な研究で助かった。鼎に恋をしなければ三十万円が貰える。楽勝である。たとえ天地晦冥の事態が起ころうとも、謎の組織に内臓を取り替えられようとも、俺は男に恋をしない。もう一度言う、楽勝である。俺の潜在意識の底に男色の気があったとしても、いやそれさえも絶対にないが、俺は男を好きにならない。
「先輩、夕飯どうします?」
着替えを終えた鼎が無邪気に俺に言った。
「コンビニとか」
「え~~っ……」
鼎は嫌そうに大げさに肩を落とした。知るか。食べたい物があったら勝手に食べたらいい。俺は二ヶ月間、コンビニの弁当で十分。というか俺は俺、お前はお前。
「じゃあ、きょうは僕が作りますよ。クリームシチューとか好きですか? 一緒に買い物に行きましょう」
鼎は甘えたように俺の腕を掴んで小首をひねる。だから、お前だけ自由に俺のスペースに入ってくるなよ……。
鼎とは大学以外ではいつも一緒にいなければならない。研究室から渡された携帯を常に所持していなければならず、研究室から一日に数回の電話確認があり、携帯からもGPS信号で所在を確認され続けている。
*
「先輩、気に入ってくれましたか?」
「うん、うまい……」
鼎は上機嫌で破顔った。鼎の作ったクリームシチューは絶品だった。
ドラムを軽快に叩くようにさかんに喋っていた鼎は、なぜか沈黙して静かに食べている。わけのわからない静寂に俺は戸惑った。
なにか俺が喋らないと不自然かもしれない……といってもなにを? あした晴れるかなあ、でいいか。と考えていたら、いきなり鼎は言った。
「前から先輩のことが好きでした」
「ぐまっ!?」
おもわずクリームシチューを噴出しそうになる。
「な……なに?」
「あの立て篭もり事件があってから、先輩は大学で一番の有名人ですよ。あのことがあってから、僕は先輩のことが好きになりました。僕は先輩が大好きです!」
「ああ、あれか……。武勇伝みたいに思ってるのか? あれはそんなすごい話じゃないんだよ。アパートを追い出されそうになっても行くところがなかったから、仕方なくあのアパートに居座っていただけだよ。ただそれだけ」
向日葵荘の前田夫妻が心労で倒れ、息子夫婦の家に隠遁したあとも、俺は向日葵荘に居続けた。他の住民が大学側の買収にあってことごとく退去しても、俺は一人で頑張った。金ですべてを解決しようとする大学側のやり方がどうしても許せなかったからだ。
「知ってますよ。大家さんのために先輩は頑張ったんですよね。あの話は本当ですか?」
「あの話って」
「先輩の目の前に一千万円の札束が積まれたって聞きました」
「知ってるのか……」
俺は頑としてアパートから出なかった。最後には大学の理事長自らが登場して、アパートの退去料に一千万円という法外な金を出してきた。しかし金ではない。たとえ一億円を積まれても俺の気持ちは変わらない。前田夫妻を苦しめた大学側が許せなかったし、その首魁の理事長が金を持って来たら、なおさら首を縦には振れない。
「かっこいいです! それでこそ男です!」
鼎は俺に抱きつこうとして飛びかかってきた。この鼎は、その理事長の息子なのだ。もしも俺が男好きでも、こいつだけはごめんだ。
「だめだめ、俺のスペースに入るなよ!」
「けち~っ」
「ほら、冷めるから早く食べろよ」
「そうですね。先輩ももっと食べてください」
鼎は機嫌良さそうにクリームシチューを口中に入れた。色白の手でスプーンを握り、赤い唇を控えめに動かして咀嚼する。
「…………」
「先輩、僕の顔になにかついてます?」
「い、いや……べつに」
思わず鼎に見とれてしまった。目元に匂うような色気がある。ま、まあ、きっとその道ではモテるんだろうなあ……とは思った。
夜になった。実験アパート生活、第一日目の夜。
鼎は食事の後片付けをしたあと横になって雑誌を読んでいたが、気づいたら雑誌を片手に寝息を立てていた。読んでいたのは女性向けのファッション誌のようだ。
「こいつ、本物なのかなあ……」
手を伸ばして雑誌をぺろりとめくり、鼎の顔をまじまじと見た。
性同一性障害……というのだろうか。内面の性別と外見の性別が一致しない。鼎は少しわがままなようだが受け答えは普通で、こんなに料理も上手い。家も大学を経営する大金持ちで、もしも女に生まれていたら、なに不自由なく暮らすことができただろう。
畳の上にじかに眠る鼎に、せめてもと俺の上着を掛けてやった。季節はもう十一月の半場で夜はかなり冷える。倒れたように畳の上で眠る鼎が痛々しい。
この四畳半一間の部屋には家財道具などなにもない。あるのは備え付けの冷蔵庫と狭いキッチンにあるガス台くらいで、クリームシチューを作るのに使った鍋や皿もスーパーでさっき買ってきたものだ。情けない話だが、それらはすべて鼎の金で買った。俺の持ち物はバッグひとつと、その中に入っているわずかな私物だけ。金はもうほとんど残っていない。きょう鼎がクリームシチューを作ってくれなければ、菓子パン一個ぐらいで我慢するつもりだった。
鼎は意外と満足そうな顔で眠っている。このお坊ちゃんは、こんなわけのわからない環境で眠れる図太い神経を持ち合わせているようだ。
鼎は俺の通う八木大学理事長の一人息子。自分の苗字を大学の名前に付けてしまう傲慢さをみれば、父の理事長の性格が想像できる。鼎の父、八木清四郎は、自らが創設した八木大学の学長兼、理事長。息子の鼎には関係ないが、向日葵荘の前田夫妻を苦しめた俺の憎き敵。
「どうしたんですか? 怖い顔をして」
気づくと鼎が俺を見ていた。
「起きたのか」
「なんですかあ? 気になることがあったらなんでも言ってください。これから二ヶ月間、一緒に暮らすんですから」
「うん……。なら聞くぞ。べつにお前に聞くのを禁止と言われてないしな。お前はこのバイトの意味をどこまで知っているんだ? お前は研究室とグルなのか?」
「グルって意味がわからないですけど、相手が先輩だと聞いて僕は恋人プロジェクト(これ)に参加しました。他の男だったら絶対に一緒になんか住みたくないです。先輩のこと、僕は大好きです」
鼎は真っ直ぐに俺の瞳を見据えた。
それはいつかめぐり合う永遠の女性に言われたかった……。恋の初めはおおむね誤解で始まる。鼎はあの向日葵荘のことで、俺のことを不惜身命の勇者みたいに誤解したのだろう。
鼎は実は眠っていなかったのか、切れ長の目をぱっちり開いて上体を起こした。そして俺の掛けてやった上着を大事そうに羽織直す。やめろ、その満足そうな顔は。
「よし、いいか? この際はっきり確認しよう」
「いいですけど」
鼎は両手を握り締めて口に当て、ワクワクするように俺の次の言葉を待っている。
「よ、よし、思いきって鍋を逆さまにした言い方をするけどさ、お前ってホモなの? 男しか愛せない人?」
「あはは、ズバリですね」
「大切な確認だ。斬るなら斬ってくれ」
「恥ずかしいけど言いますよ。ええそうです。僕は男の人が好きです。先輩が恋人になってくれたらいいなって思っています。そういう意味で先輩のことが好きです」
鼎はきっぱりと言った。なんだこの無垢な自信は。堂々として、部外者がこの光景を見たら爽やかにすら感じるかもしれない。
「先輩、その鍋を逆さまにした……というのはどういう意味ですか?」
「え? いや、身も蓋もないっていう意味だけど」
一瞬、不思議そうな顔をして、そして弾けるように鼎は笑った。
***
次の日の朝、俺と鼎は揃って大学に行った。大学の近くにある向日葵荘があった場所は、すでに新しいマンションの建設工事が進んでいる。俺はその脇を忌々しい気持ちで通り過ぎた。
「ここが例の場所ですね。すごーい」
鼎は嬉しそうにはしゃいだ。
向日葵荘を好条件にもかかわらず売らなかった前田夫妻が変なのだろうか? 一千万円を蹴って向日葵荘に居座った俺が変なのだろうか? 大学側は入居人を買収して退去させ、役所をも買収――これは俺の想像だが――して、建物の老朽化を理由に向日葵荘を建て直すように老夫婦に圧力を掛けた。そんな金が老夫婦にはない。毎日のように大学と役所から嫌がらせを受けた老夫婦は、ついに体調を崩した。そして、その息子が老夫婦に代わって大学と交渉するようになると話は急展開。金の力は一般的には最強だ。前田夫妻の息子がいくら貰ったのかは知らないが、簡単にアパートとその土地は大学の物になった。
しかし、俺だけは向日葵荘を出ない。
向日葵荘が大学側に売却されても俺は意地になってアパートに居座った。人が居れば工事は始められない。俺が居座るのは違法だろうが、別の法律で居座る非退去人の居るアパートを工事できない。とにかく金の問題じゃないんだ。前田夫妻の悲しみを表現するには俺が向日葵荘に居続ける必要があった。
だが俺が大学に行っている間に、あっさり向日葵荘は取り壊され、アパートはほんの数時間で地上から消滅していた。
夕方、鼎と一緒に実験アパートの一室に戻ると、部屋の中が様変わりしていた。狭い部屋に真新しいベッドが置かれている。大型のテレビもあった。
「なにこれ?」
「僕が頼んだものです。この部屋、なんにもないから買ったんですよ」
目の前で運命がくるくる変わってゆく。
向日葵荘は俺がほんの少し大学に行っている間に取り壊された。今度は物が増える現象だが、胸の奥がむかむかして気持ち悪くなった。強引な金の圧力。
鼎は嬉しそうにベッドで腰を弾ませた。薄ら寒い。物をいくら手に入れても幸福にはならない。
さらに気になるのは、四畳半は狭すぎで、ベッドが部屋の真ん中に鎮座していることだ。もう俺のスペースがどこなのかさっぱりわからない。しかもダブルベッド……。俺が鼎と一緒のベッドに寝るなんてあり得ない。
「お前の報酬ってどうなってんの?」
ちょっと気になった。このお坊ちゃんは、俺と二ヶ月暮らすのにいったいいくら貰っているのだろう。
「それは内緒です。もっとも、お金なんか関係ないですけどね」
「十分持ってるからな」
「そんなことないですよ。月のお小遣いだってほんのこれくらいです」
「指二本? 桁は聞きたくない……まさか百じゃないだろ!?」
「あはは、内緒です~」
***
そのまま、鼎との生活は大きな問題なく続いた。
この部屋に来る直前までしていたコンビニのバイト代、三万二千円が入金されてからは鼎の施しも丁重に断り、安いものだが、たまには俺が鼎に食事を奢ることもあった。
年も開け、正月も帰省しないで鼎とテレビを見てああだこうだと言いながら過ごす。これでいい。鼎との仲はべつに悪くない。もちろん良いわけでもないが、俺は心に垣根を作り、その奥に鼎を決して入れない。相変わらず鼎は俺のことを息をするたびに好きだ好きだと言ってくる感じだったが、あんまり言われ続けているので麻痺して、風がそよぐほどにしか感じなくなっていた。このままでいい。あと少しでこの実験生活は終わる。
不思議なことに俺は気づいた。この二ヶ月近く、同じ服を着ている鼎を見たことがない。
「置くところがないから捨ててます」
鼎は平然と言った。説教したくなったが、これもどうでもいい。あまりこいつとは関わらない。たとえばアラブの王族と何故か一緒に暮らしていると思えばいい。アラブの王族なんかの暮らしに興味はない。
一月十日……が、この『恋人プロジェクト』の終わる日だ。この日が終われば俺は解放される。そしてその報酬の三十万円を受け取ることができる。その金で新しいアパートを探すつもりだ。
一月七日になってとつぜん鼎が、
「初詣に行きませんか?」
と言いだした。
そうか、もう正月も終わりだ。俺は断る理由もないので一緒に行くことにした。どうせいつも鼎と一緒に居なければならない。気晴らしに外の空気を吸いに行こう。
「後ろを向いてください」
と言うのでそうしたら、鼎は袴姿に着替えた。振り返ったら、煌びやかな光芒が射すように鼎がはにかんで立っている。
「それって……」
突っ込みどころ満載だが俺はなんとか口唇を閉じた。こいつにはかかわらない。だがしかし、華やかな金色の花柄刺繍。この袴姿は、ほとんど晴れ着だ。これはお嬢さんが特別の日にする格好だろう。今までの鼎の格好はカジュアルなものが多くて、スカートを履くとか、そういう一線を越える格好を一度もしなかった。袴姿は男もするが、これは明らかに女物の袴だ。
「先輩、さあ行きましょう」
「え……?」
鼎は声音まで女の子のように高く湿っぽく変えた。こ、これはかわいい……。なんということだろう、娘の格好をした鼎は性別が逆転したようにしか見えない。肩まである長い髪を揺らし、痩せているのに肉付きのいい頬を吊り上げ、糸切り歯を見せて笑う姿に動揺した。
「お……お前って、本当に鼎?」
鼎には双子の妹がいて、俺が後ろを向いている隙に入れ替わった。……と、あり得ない空想を真剣にした。そのくらい袴姿の鼎は綺麗だった。
「なんですかあ? そんなに見ないでください。恥ずかしいですよ」
鼎は体を捻って頬を桜色に染めた。襟元から蒸れるような香気がただよっている。しばらく見つめ、そして我に帰って目を逸らした。
近くの神社に行くと人はまばらだったが、俺たちのように遅い初詣をする人もちらほらいた。賽銭を投げて手を合わせると、鼎も俺の真似をして同じ動作をする。願い事をして目を開けると、鼎はまだ手を合わせて目を閉じていた。そのまつ毛が長い。
「先輩と同じことをお願いしました」
帰り道、鼎がそんなことを言ったが、俺は興味ないようなふりをした。こういう態度をこの二ヶ月間、俺は取り続けてきた。
「聞こえました? 先輩と同じことをお願いしたんですよ、僕」
「俺の願いごとは誰にもわからないし、お前にも教えねーよ。世界平和とか単純なものかもしれないぜ」
「おなじおなじ」
「おなじじゃない。お前は俺を買いかぶりすぎてんだよ。俺なんか、知れば知るほどがっかりする性格かもしれないぜ。願い事もお前が思ってるよりずっと自己中なもんだよ」
「たとえば?」
「たとえば……いや、言わねーって」
「あははは、おしい」
屈託ない顔をして鼎は笑う。鼎のこの笑顔はもはや武器だ。それが向けられると、つい俺まで意味もなく笑ってしまう。なるべく鼎と一緒に笑うのも避けてきたが……。まあいい、こいつとの生活もあと三日で終わりだ。今までわざと冷たくしてきて、鼎に申し訳ない気持ちもある。俺は金のためだけにこんな生活をして、純粋な気持ちかもしれない鼎を無用に傷付けていたかもしれない。
「お前は……鼎くんは、その世界ではモテるんだろ? いい人がすぐに見つかるよ」
「何度も言いますけど、僕は先輩が好きなんです。ほかの人ではだめなんですよ。先輩と一緒に生活して、それが確信に変わりました。僕はいつでも先輩のことばかりを考えています」
「ストレートだな」
「はい、大好きです!」
真剣な鼎を見てため息が出た。鼎が女の子だったらよかったのに。本当に……。
「僕が女の子だったらよかったのに……。そう考えてる顔ですね」
「な……っ」
「あはは、図星でしたか。言ったじゃないですか、先輩の考えてることがわかるんです。なぜだかわかりますか? 先輩のことに関心があるから、お母さんが赤ちゃんのことがわかるみたいに読み通せるんです」
「赤ちゃんね……」
「またため息して~。本当は、僕は女の子かもしれませんよ?」
「え? そんなこと……」
ないだろう。確かに鼎の裸まで確認したわけではないが、いくらなんでもホモ夫くんと女の子の違いはわかる。鼎は残念ながら男だ。
「人には秘密があるもんですよ」
「え……?」
どきっとするような真剣な顔を鼎はした。
「そ、それはそうだ。秘密のない人間なんてつまらない」
「そうですよね!」
まったく……。でも鼎が女だったら、と思ったのは事実だ。もしもこのまま鼎と別れたら、ずっと確認しなかった後悔が残るかもしれない。もしもだ、もしも鼎が女の子だったら、俺は三十万と鼎のどちらを取るだろう。いや、そもそも俺は鼎を好きじゃない。いや! 本当にそうなのか? 俺は鼎を男だから好きにならないようにしているだけじゃないのか? 俺の本当の気持ちが俺にもわからない。鼎が女だったら俺の気持ちがはっきりするのだろうか。
その夜、鼎が風呂に入っているときに俺は脱衣所まで侵入した。
「俺も入るぞ」
とは言えない。
少しだけ遠慮した表現で俺は言った。
「あのさ、背中とか流そうか?」
曇りガラスに写る影が止まり、凍るような動揺が伝わってきた。
「……結構です。出ていってください」
鼎はそう言った。
だがしかし、そう言われたら天邪鬼に前に進んでしまうのが男というものだ。この二ヶ月間、鼎に好きだと言われ続けていたから、錯覚かもしれないが、この大切な確認も許されるような気がしていた。
極めて大切な確認を俺はしなければならない。鼎は男のふりをする女なのか。それとも俺の知らなかった秘密を持っているのか。いつの間にか女であってくれ……と俺は祈っていた。身体が揺れるくらいに心臓が激しく鼓動している。
俺が沈黙すると、扉の向こうの鼎もなにも言わなくなった。それを了解の合図と受け取り、俺はその扉を開けた。禁断の扉か未来への扉か。鼎は実は俺に自分の本当の姿を見せたかったのか、意を決した悲痛な表情で生まれたままの姿で立ち尽くしていた。
その可憐な姿は、男の子のそれだった――。
***
一月十日、恋人プロジェクト最終日。
あの風呂場に侵入した七日の夜以来、鼎は一言も口を聞いてくれない。明るかった鼎の声が響いていた空間は、ただ同じ時間を共有しながら別の場所にいるのと同然の二人になっていた。
「前は、ごめんな……」
と、就寝のために電気を消した部屋で鼎に言うと、暗闇から嗚咽が響いてきた。
「泣いてるのか?」
「……先輩はずるいですよ」
「なにが」
「僕が女の子だったら先輩は僕を受け入れたんでしょ? だから、もしかしたらと思って僕の裸を見たんでしょ? そういうのってずるいですよ。好きっていうのは心を好きになるんですよ。体なんて関係ないです」
「関係ないことないだろ……」
言葉に詰まった。
たしかに、鼎が女の子だったらよかったのに……そう強く願った。俺は卑怯でずるい男だ。
「僕が女の子だったら好きになってくれましたか?」
鼎はいつの間にかベッドを降りて、その脇の狭い空間で休む俺の隣にきていた。
「そんなこと……俺だってわからない」
「僕の心は女の子なんです。先輩が大好きです! 先輩は僕のことが好きですか? 嫌いなんですか!?」
「それは……」
「じゃあ、僕が女の子だったら好きになってくれましたか? それだけ聞かせてください。僕はそれだけで満足できます。僕は先輩が大好きです!」
腕に冷たいものがポロポロと落ちてきた。
追い込まれたわけではない。俺は自然と言った。
「好きだ」
鼎の影が俺の顔を見ているのがわかると、もっとはっきりと伝わるように大げさに何度も頷いて、そして好きだ、とまた言ってやった。
「――かった」
と、鼎がかすかな声で言った。
なに……? と聞き返したが、次の瞬間、部屋の明かりがぱちぱち点き、鼎の潤んだ瞳が目に飛び込んできた。鼎が愛おしくてたまらず抱きしめそうになり、その湿った唇に吸い寄せられそうになった。
が、すぐに部屋の隅にガタイのいい親爺が立っていることに気づいた。
「な……っ、なんだよあんた!!」
そのふてぶてしい顔はまぎれもなくあいつだ。俺の通う大学の学長兼理事長、鼎の父、八木清四郎。頭がぼんやりして全く事情が理解できない。ついに金儲け主義の悪事が神の逆鱗に触れ、天に召されて奴の魂がさまよっているのかとさえ思った。しかし、肉体を持った本人のようだ。
「まあまあ、波布くん、君はワシを嫌っているようじゃが、いろいろ誤解もあるようじゃ。今度、一緒に食事でもして仲直りしようと思っていたんじゃよ」
「な、なにが誤解ですか。あんたのせいで向日葵荘の前田夫妻は倒れたんですよ!」
「まあまあ、それが誤解だよ。現に今はあの夫婦は元気じゃ」
「てめぇ!」
思わず飛び掛りそうになった。
嘘だと思うなら電話してみろと理事長が言うので、夜分遅くながら前田夫妻に電話を掛けてみた。すると、理事長とはとっくに和解したと旦那さんが大声で笑った。
「耳いたい……。どうしてあんなに大声で笑うかなあ。俺、意味がわからないんですけど」
「新しい学生マンションの管理人には前田夫妻になってもらうことにしたんじゃよ。学生の面倒も見てもらう。あの二人はああいう仕事が好きなようだしね」
「ふーん」
俺は興味なく返事をした。なんだよ、なら俺のあのアパート立て篭りの日々はどうなる。一千万にも心が揺れなかった伝説を。
「理事長は、わざわざそれを俺に言いにきたんですか」
鼎とは最後の夜だ。それをじゃまされて俺は不機嫌になっていた。
鼎は父の清四郎の顔を見て意味ありげに笑っている。それを見てピンときた。同じ顔で親子が笑っているのだ。
「あの……俺をネタに、二人で賭けとかしました?」
「さすが勘がいいねえ、君は!」
理事長はほくほく分厚い肩を揺すって笑い、あげく、わしの負けだ負けだ! と騒いで部屋から出ていった。
鼎は高揚したような表情で明るく俺に話しかける。
「波布先輩、ごめんなさい。先輩がいくらお金を積んでも心を動かさない頑固者で、絶対に先輩の心は変わらないと父が言うので、なら僕が変えてみせると、父と賭けをしたんです」
「まじ……?」
「ノーマルの先輩に、僕を好きにさせることができたら僕の勝ちです。父は絶対に先輩の心は変わらないと言っていたんですよ。あれこそ真の男だ! と言っていたんです。でも、結果は僕の勝ちです」
「勝ちって……」
「さっき、僕のこと好きって言ってくれたじゃないですか。最終日にそう言わせるように工夫に工夫をしたんです。父にこっそりここに入ってもらって大正解でした。ありがとうございます、先輩!」
体から大切な部品が抜かれたような気がした。
恋人プロジェクト――。とは金持ちの遊びで、でっち上げたニセの企画だったのだ。三十万円だって鼎を好きだと言った以上、絶対に貰えないだろう。俺の所持金、二百十一円。
***
春になって、俺は三年生となった。
新築の学生マンションが完成して、前田夫妻も管理人としてその一室に入居した。そして、幸い俺もそのマンションに入居することができた。家賃は大学側の好意で、俺だけ特別に向日葵荘のときと一緒の金額だ。何のためにあの向日葵荘の騒動があったのか……とも思うが、俺があれだけ抵抗したから理事長が折れて、前田夫妻を管理人として使ってくれたのかもしれない。そう思えば、俺の抵抗にも意味があったと胸を張れる。
鼎はというと、今も俺の隣を歩いている。だいたいいつもこんな感じだ。べたべたして街中でも腕を組んで歩きたがるが仕方ない。今なら俺もはっきりと言える。鼎が好きだ。
「本当に僕でいいんですか?」
鼎は俺の顔をのぞき込むようにして言った。
「うん。お前じゃなきゃだめみたいだ」
「あ、それ、もう一度お願いします! さあどうぞ!」
「なんだよ携帯プレーヤーなんか出して。録音するつもりか」
「ばれたか」
「ふざけんな。もう二度と言わねえ」
「けち~っ!」
正直、あの生活が終わってから、俺のことを本当に好きだったと鼎から聞いたときは脳内に花が乱れ飛んだ。父親とは賭けをしたが、あの生活で鼎が見せたのは演技ではなかったのだ。
ただ、これだけは何度でも言っておく、俺の心は金では買えない。駄洒落ではないが、金では変えないのだ。




