第二十二話 『主人公が思い返す話。』
朝設定した時計のアラームより先に目覚めた利一は立ち上がり、いつも通り洗面台へと歩いてゆく。
朝に弱い利一は起きてまず顔を洗わないと頭が働かないのだ。
水道代の節約のため余分に水を出さず、手に水を溜めては顔を流し、また溜める。
そうして冷たい水によって覚まされた頭は、利一のふわふわした感覚を研ぎ澄まし、緩んだ表情を引き締めた。
何度か顔を流した後で、利一は夜の内に用意しておくタオルを置いている場所に手を伸ばしたが、そこにはタオルが無かった。
前日に置き忘れたまま寝てしまったのだ。
目に水が入るのを嫌う利一は、目を閉じたまま手探りでタオルを探す。
(もう習慣になって、忘れることなんてなかったのにな。昨日は本当に疲れてたんだろう。でもなんで疲れてたんだっけな?)
昨日起こった出来事を一つ一つ思い出そうとした利一は隣から差し出されたタオルを受け取り、それで顔を拭きつつ記憶の断片を引き寄せる。
(茶髪、ロング、失語症の少女。駄目だ何も思い出せない。)
思い出した記憶はどれもこれも夢の内容で、何一つとして昨日の記憶はないと利一は必死に現実から目を背けた。
少女が存在しているという現実を否定しながらも、タオルを用意してくれた少女に対して礼を言ったのは利一が心の純粋な少年だからだろう。
利一は若干起きる予定より早いではあるが二度寝する気にもなれず、仕方なしに朝食の準備に取り掛かろうとダイニングキッチンへ入った。
部屋を見渡せばテーブルには利一では再現不可能であろう朝食らしく簡素であるが見た目の美しい料理が並んでいて、その時の利一は激しい敗北感にかられたのである。
後ろを付いてきた少女は視線で褒めてほしいと訴えかけてきて、利一は渋々ありがとうと感謝を述べることになった。
それから朝食を食べ、食後一時間は二人とも見合ったまま無言だった。
その日利一は何も用事がなく、外出することもない。
一昨日までは一日ゲームでもして遊ぼうと考えていた。
だが今家にはこの名前もわからない少女が居る。
ゲームをしようという気にもなれず、むしろ少女から目を離した隙に何をされるか分からないので、絶対に少女の傍から離れないようにと考えていた。
「朝食は旨かった。ああ、旨かったさ。感謝もするよ。だけど、出て行って頂けるとこちらとしては助かりますね! 」
少女は昨日は泣きそうな振りをして利一の良心を揺さぶることで、家に留まった。
でも今の少女は完全な無視。
利一の言葉に聞く耳持たず、と手元の利一の母親が買っていた女性向け雑誌を読んでいる。
「あのな、今日になって落ち着いて考えてみたらな。警察に連絡すれば親が来て、お前の家出だってばれることに気付いたんだよ。まあその親が俺を誘拐犯だと思えば話は別だけど、まずないだろう。そっちが話せないことで警察に誤解を生むっていうなら、こっちは懇切丁寧に説明して、ご理解いただけばいい話だからな。」
少女が話せないことは初めから別に利一にとって不利な話ではなかったのだ。
言葉で説明できる利一は少しばかり少女の妨害にあっても、警察並びに少女の保護者の説得も可能だろう。
何よりも少女が家出したという方が、中学生が誘拐をしたというよりも自然な話である。
少女は利一が冷静になって考察を始めたので、少しだけ焦りを見せた。
あくまで一瞬だけだ。
利一が少女が諦めてくれたか、と思った時には元のリラックスした表情に戻っていた。
実はこの時、利一は少女を追い出そうか迷っていた。
自分を頼っている少女を追い出すことはなんだか気がひけたのだ。
どうせ自分が追い出したところで保護者の元へ帰る保証もないし、他の家を頼って事件にでもなれば後味が悪い。
警察に突き出すのも同様の理由でためらわれた。
だからと言って『かくまう』と明言してしまうといつまでも居座られてしまうだろう。
それはそれで困る。
迷った末に出した利一の答えは、酷く中途半端なものだった。
「夏休みが終わるころには出張先から両親が帰ってくる。それまでには家から出て行ってくれ。それと、住まわせる代わりに家事をしてほしい。もとから家事が苦手な俺が、二倍の家事をこなすのは厳しいからな。周りの住人さんに誤解されないよう、あまり家からも出ないでくれ。以上。この条件を飲めるなら仕方なく泊めてやろう。」
事なかれ主義から一歩踏み出した程度の妥協点だ。
少女は不満そうにしながらも、首を縦に振り了解を示す。
二人の共同生活はそんな風に始まった。
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「今日の夕飯何ー? おおハンバーグじゃないか!最高だね!」
利一がは少女と過ごす日常に、始まってから三日で慣れた。
堕落した、と言ってもいいだろう。
少女があまりにも家事ができるため、利一は一日中遊んでいられる。
外出は控えるよう決めたのは利一だというのに、買い物にも行かせる始末である。
利一は買い物に行かせた後になって危険だと気付き、町中探し回ったのは笑い話だ。
そんな微笑ましい二人の生活は、実に充実していた。
お互いに足りない部分を補っているという連帯感と、今まで一人きりであったのが二人になった充足感が、二人にとって新鮮だった。
嫌々始まった生活は、気付いた頃にはかけがえのない日常へとなっていたのである。
こんな生活も悪くない。
利一はそんな思いを胸に抱き始めていた。
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少女を泊めてから四日目。
流石にずっと家に籠っているのもどうかと考えた利一は、とりあえず近くの市民プールへ行くことにした。
学校の仲間に見つかることは避けたかったが、その市民プールの近くには大型レジャープールがあって、市民プールへ来る人間は少数だ。
持ち合わせのない少女に主に趣味に割いていた生活費を使って水着を買わせ、二人でプールへと向かう。
市民プールはバスで二十分ほどの位置にあり、利一の予想通り客はまばらだった。
「じゃあ着替えたらプールの方で合流な。」
少女は頷き、更衣室へ入っていった。
利一も直ぐに着替え、シャワーで体を流し、プールへ移動する。
少女の姿はまだ無く、利一は五分ほど待つことになった。
五分後に来た少女の美しさは、利一が直視できなかったのか曖昧な記憶しか残っていない。
ただその時利一が目を釘付けにされたのだけはしっかりと覚えていた。
泳いだり、ビーチボールで遊んだりを一日して、その日は帰宅した。
来る時と違う路線のバスに乗ったために通った病院で少女が緊張していたのを、疲れていた利一は気付かなかった。




