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更新される真名

区切るところ間違って凄い長くなった

 遠くから微かに聞こえる小鳥の囀り、窓から差し込む日の光。

 自分のベッドの上……ではなく、部屋全体が見渡せる隅っこで体育座りをしていた孝は、血走った目で朝日を確認すると体に巻いていた毛布を取り去った。


「……朝か」


 喉からくたびれた声を漏らし、下に隈の残る目を擦ってよろつきながら立ち上がり、一晩中部屋を照らしていた電灯のスイッチを切り、その足で階下へ向かう。

 あの後、孝は気を失ったアスモデウスを偶然帰宅していたゴルゴンに押し付けるとすぐに自室に戻りベッドに潜り込んだ。すぐに寝てしまおうと布団を被ったが、目を閉じると真っ暗な事に恐怖しすぐベッドから逃げ去り電気を着けて部屋の隅で縮こまり毛布で身を隠した。気を抜くとどこかからあいつが現れるのではないかと怯えているせいで寝そうになる度微かな物音で悲鳴と共に飛び起きる羽目にもなり、そのおかげか夜7時から自室に入り、朝7時手前までの約半日も眠っていたにも関わらず、正味の睡眠時間はせいぜいが4、50分といった所だろう。睡眠不足も当たり前だ。

 洗面所で顔を洗う。凍えるような冷たい水は眠気を奪っていくものの、頭の中に秘められた嫌な思いは僅かばかりも晴れはしない。溜め息を吐きながら顔を上げると、洗面台の鏡に疲れた表情をしている孝の背後に黒い人影が移っているのが目に入り、鳥肌を立てながら振り返る。


「?」


 その慌て様を見て、孝の後ろにいた寝巻きが着崩れ右肩を露出させて眠そうに目を擦っていたベルゼバブが首を傾げた。緊張が解けほっと息を吐く。ずりおちた肩布を元に戻してやり頭をぐりぐりと撫でてその場を後にした。


「お早う弟よ。清々しい良い朝だな」

「……そういうのは清々しい顔してる奴に言ってくれ」


 リビングに入るや否や金ピカお気楽ニート兄貴が声を上げたのに対してそう答えながら、孝はやや恨めしい視線を返す。

 そこでふと、違和感に駆られた。もう1人の兄役の声が上がらない。改めてそちらに視線を向けると、確かにそこにいるものの、いつも通りのサタンの横で何やら俯き思案に暮れていた。


「……そっちの兄貴はどうしたんだ」


 随分と珍しいその姿に問いかけるとルシフェルはようやく孝に気付き、顔を上げしばし逡巡してから意を決したように口を開いた。


「聞いてくれ弟よ。実はニート設定にしたのはいいものの、『さっさと小遣いよこせ糞ババァ!』以外に何を言ったらいいのかわからんのだ」


 その表情に悲壮感すら滲ませて、ルシフェルが俯く。


「私はこれからどうすればいい」

「知るか」


 ぞんざいにそう吐き捨て孝が去るその後ろで、サタンが慰めるようにぽんと優しく肩を叩いた。


「おぉ、今日は早いな孝」


 金銀頭のいるソファーを避けて食卓の椅子に座ると、キッチンからハート柄のエプロンをつけたアスモデウスが声を上げた。いっそ意識を失うまで落ちきったのが良かったのか、未だ憔悴の色濃い孝とは違いすっかりいつもの調子に戻っている。


「おはようアスモデウス。元気そうな所でコーヒーでも入れてくれると助かるんだが」

「こら孝、母さんに向かってその口の聞き方は何だ。名前じゃなくてちゃんと『お母さん』と呼べ」


 アスモデウスはそう言いながら胸を逸らし両手を腰に当て、頬を膨らませていかにもというような解りやすい『怒っています』のポーズを取る。


「他に誰もいないんだからいいだろその設定は……」

「うむ、まぁ確かに設定はどうでもいいが」

「うおぁ?!」


 溜め息を吐こうとした瞬間に自分のすぐ脇から上がったその声に驚き、孝は素っ頓狂な声を上げて立ち上がる。1歩下がってそちらに目を向けると、黒縁の眼鏡を掛けた40過ぎの会社員というような風体の影の薄い中年が新聞を読んでいた。拍動の乱れる心臓を押さえるように胸に手を当てながら孝は口を開く。


「い、いたのかアスラさん。そうか、出社時間はまだだったな」

「うむ」


 中年悪魔はそう言って茶を啜り、湯のみを置くと再び新聞に目を通しながら声を上げた。


「戸籍は全員分、昨日の内に取っておいた。お前は法的には正式に『孝』だという事になるから他所で地を出さんように気をつけるんだぞ」

「あ、はい」


 孝が椅子に座りなおしながら頭を下げると、アスラ……いや、彼の忠告通りその戸籍上の名で呼ぶなら孝の父、中山修一は新聞から目を話さないまま、長く付き合いのある物でなければわからない程度に小さく頷いた。

 と、その間を割るようにコーヒーの注がれたティーカップがだんっと音を立てて勢い良くテーブルに叩きつけられた。驚きそちらを見上げると、鋭い怒りを視線に込めてアスモデウスが修一を見下ろしていた。


「偉そうに。今更そんな父親ぶって、それであなたの裏切りが許されると思ってるのかしら?」

「母さん、あんた設定重視しすぎて口調まで変わってるぞ」


 そう指摘する孝の声に耳も貸さず、アスモデウスは彼を睨み続ける。

 しかし当の修一は湯飲みの茶を一度啜って新聞をぺらりと捲り。


「あぁ、すまん」


 と、勝手に決められた謂れのない無駄な設定に対して、短く簡潔に謝罪をした。

 本当に動じない人だ、と孝は感心しながら見ていると、テーブルの上に何枚かの書類が置いてある事に気が付いた。手にとって目を通すと、正しくそれが作られた戸籍であり、そこにきちんと孝の文字が書かれている。そして当然、他の面々の名前も。


「…………」


 意図せずに眉がひくつくのと頭の奥の方が痛みが滲むのを感じ重力に負けて落ちそうになる頭を、テーブルに片肘ついた手で支え、キッチンの方を睨む。


「なぁ母さん」

「ん?」


 鼻歌交じりにフライパンから煙と異臭を発生させていたアスモデウスが怪訝な顔で振り向いた。


「これ、どういう事だ」


 それに向かって手に持った書類を突き出し、ぺらぺらと前後に揺らす。それを見て質問の意図を読み取ってくれたようで、あぁ、と声を漏らして得意気に笑みを浮かべ、その口を開く。


「やっぱり、長年付き合ってきた『アスモデウス』こそが私に相応しい名だと思ってな!」

「ふざけるなァ!」


 喉を震わせて叫びつつ手に持っていたその書類をアスモデウスに向かって投げつけた。空気抵抗で彼女の元まで届くことなくひらりひらりと床に落ちたその書類には、夫・中山修一の下に妻・中山アスモデウスと書かれている。


「俺言ったよな普通の名前付けろって! ただでさえあんたが悪目立ちする設定つけたんだからせめて名前くらいはって!」

「でも今時は没個性的な名前をつけても誰も喜ばないし、独特で一目で見た人の目を引くようなものがなくちゃやっていけないだろ」

「マンガの編集者か何かかお前は!」

「まぁまぁ落ち着け弟よ」


 騒ぎを聞きつけて現れたサタンが息を荒げる孝の肩を後ろから掴んだ。孝は振り向くと、宥めるように微笑みながらサタンは言う。


「確かに奴はお前の諫言を蔑ろにしたかもしれんが、今更だ。もう指摘は済んでいる。それ以上は言葉を重ねた所で何の意味も持たんぞ」

「うるせー! 何他人事みたいに言ってんだ! あんたもだよあんたも!」


 叫びつつ肩に置かれた手を振り払う。サタンは払われた手を不満げに見つめる。


「何だ。俺はきちんと至極真面目に名付けたぞ。命名の資料を読み漁り俺に相応しい名を選んだのだ」

「ほう、それじゃ何を参考にしてこの名前をつけたのか教えて貰おうか、中山『黄金の金侍』兄さん」


 襟元を掴み上げながらそう尋ねる孝に対し、サタン……もとい、黄金の金侍はにやりと笑い、親指を立てて見事なサムズアップで自信満々に答えた。


「ネットだ」

「解ってたよ畜生! この馬鹿! しかもそれ「絶対付けちゃいけない」括りの資料だろ!」


 孝の右拳が白い歯を出して笑う黄金の金侍の頬を抉りソファーまで吹き飛ばす。黄金の金侍は頭からソファーの座る部分の裂け目に突き刺さりぐったりと動かなくなった。それを見て、俯いていたルシファーがふっと涼しげに笑った。


「やれやれだな義弟よ。そうやって新しい物にすぐ振り回されるからボロが出るのだ。その点私の名前は少し古いが歴史を感じさせる。趣のある純和風な名前で非の打ち所がない」

「あんたはあんたで古すぎんだよ! 何だ『天落(あまおちし)黒羽尊(くろばねのみこと)』って何時代の日本人だお前の正体は古墳から発掘された豪族のミイラか何かか!」

「またの名を『BF(ブラックフェザー)‐堕天のルシファー』」

「うっせー黙れこのボケ2号ー!」


 叫びつつ孝は天落黒羽尊の後頭部目掛けて花瓶を投げつけるが、復活した黄金の金侍によって受け止められ、挿してある花は勿論水滴ひとつ零さずにリビングのテーブルの上に置きなおされた。身を起こした黄金の金侍はややアンニュイな面持ちで溜め息をつく。


「しかし冷静になって見るとこの名前はイマイチな気がするな」

「頼むからもっと速く冷静になってくれ」

「だからネットの情報などに拘りきらず少し捻って『黄金騎士刃狼(BARO)』にしろと言ったであろう」

「それはそれでどうなんだよ」

「そんな見た目は子供頭脳は大人みたいな名前は嫌だ」

「そんな理由かよ、頼むから人の話少しは聞いてくれよ」

「確かにそちらと被るか。ならまだ王愚葬(きんぐふぉうむ)のほうがいくらかマシだろうな」


 一言ごとに間に入る孝を完全に無視してやりとりをしていた2人だが、天落黒羽尊の最後の言葉を聞いた瞬間黄金の金侍の眉がぴくりと震えた。その口からそれまでと違う硬質な空気を纏った言葉が発せられる。


「聞き捨てならんな義弟よ。マシとはどういう事だ。貴様『覆面バイカーエッジ』の最終形態を軽く見ているのか?」

「ふん、軽く見るも何もあんなものは玩具展開に失敗した駄作。滑舌の悪さで失笑を漏らすくらいしか見るべき所がないではないか」

「何が玩具展開だ薄汚い売上至上主義者め。世界も友も護る為に自分を犠牲にした刃崎(ジンジャギ)の決断の尊さの解らぬ愚か者ならば貴様などもう義弟ではない」


 だんっと、同時に床を踏み鳴らし互いに間一髪ほどの間で睨みあう。


「上等だ他人よ」

「屋上に行くぞ他人よ」

「屋上なんかねーよ」


 そう至極真っ当な指摘をするも当然の如く聞き届けられず、2人は顔を突き合わせながら2階への階段を上っていった。

 それと入れ違いに、いつの間にか洗面所から自室に戻っていたらしい着替えを済ませたベルゼブブがやや怯えた表情を浮かべながら降りてくる。孝は2人の去った方向を見ているベルゼブブに歩み寄り、その肩を掴んで努めて穏やかに問い質す。


「……なぁベル。お前は自分の名前どうやって決めたんだ?」

「ん?」


 言葉尻に疑問符の付くような声をあげ、しばし思案してようやく発言の意図が伝わったらしく少女はとつとつと語り始める。


「えっとね、わたし1人で考えてたんだけど、やっぱり名前ってどうやって着けたらいいのかわかんなくてちょうど帰って来てたゴル……じゃなくて、お姉ちゃんに聞いたの」

「そうか。とりあえず良かった、他の奴等じゃなくて比較的マシな奴に聞いてくれて」

「たっくんに聞こうと思ったんだけど、たっくん鍵閉めてるしノックしたら大声で叫び出したから」

「あ、あぁうん。悪い。それで?」


 ほとんど記憶にない昨晩の事を思い出そうとして結局思い出せず、とりあえず謝って不満げに頬を膨らませるベルゼブブに続きを促した。


「そしたらお姉ちゃんコンビニ回って姓名判断の本たくさん買ってきてくれて」

「えらい親切だなあいつ……」

「どれも難しくてほとんど何書いてあるのかわかんなかったけど」

「空回りしてんなあいつ……」


 脳裏に浮かぶガラの悪い顔をした女の不憫さに思わず目頭が熱くなる。


「でもせっかく貰ったからがんばって読んで、それで人の名前はその人がどういう風に育つか、将来どんな事をして欲しいかって願いを込めてつけるんだってわかったの」

「ほぅ、それは凄いな上出来だ」


 そう言うと、少女は少し頬を赤く染め得意げにその豊かな胸を張った。


「それで着けた名前が?」

「『日ノ本壊滅(ほろび)』」

「そこからどうしてそうなった!」


 叫びながら軽く、ほんの軽ーく頭を引っぱたいた。蚊の鳴くような小さい悲鳴を漏らし、両手で頭を押さえながら壊滅は微かに瞳を潤ませて孝を見上げる。


「でも、苗字はもう決まってるから駄目だって言われたからちゃんと変えたよ?」

「そりゃそうだ! 当たり前だよ! そうじゃなくてなんで壊滅とか名前付けちゃうかなって言ってるんだよ!」

「だ、だって……」


 壊滅は涙で滲んだその瞳を伏せ嗚咽を漏らしながら肩を震わせる。孝はその肩を両手で掴みながら構わず溜まった不満のまままくしたてる。


「だってじゃなくてだなもっと常識というか普遍的というかあぁもうどうして皆もうちょっとまともに」

「うぼろろぇぇぇぇぇ」

「うぅおわぁぁぁぁぁ!」


 突如として壊滅の口から多量の吐瀉物が湧き出て、孝と壊滅の胸元、そしてフローリングの床を汚して辺りに酸っぱい臭いが立ち込める。


「こら孝、壊滅は緊張すると胃が痙攣して所構わず吐く癖があるってのはお前が一番知ってるだろ」

「あぁもうその通りだよ! 俺が悪かった! 言い過ぎたから落ち着けって、な!」

「わ、わたし一生懸命、ひっく、考えぶうぇぇぇぇぇぇ」


 泣きながら第二射を放つ壊滅の肩を突き放して直撃を避ける。床に落ちたそれの飛沫が足に掛かるのを感じながら、涙の滲む目元と出し終えた口元を袖で拭ってやり、汚れた服を替えて来るように促した。壊滅は啜り泣きながらこくりと頷くとのろのろと2階の自室へと向かっていった。


「母さんバケツか洗面器とタオル取ってくれ」


 苛々してるとはいえ随分と軽率な事をした、と自責しながら孝はキッチンから投げ渡されたそれらと手に取り、ブツの前にしゃがみこむ。


「待て!」


 と、そこにいつの間に戻ってきたのか、2階から黄金の金侍が舞い降りた。孝のすぐ横に降りた黄金の金侍はきっと視線を孝に向けて言い放つ。


「美少女のゲロなら俺に片付けさせろ!」

「死ね変態野郎」


 反射的に手近な壷をその顔面に叩き付けた。ごづんと鈍い音がして黄金の金侍が床を転がりぴくりとも動かなくなる。壊れなかった壷に案外丈夫だと感心しながら上を向き口を開く。


「あんたら屋上に行ったんじゃなかったのか」

「屋上はなかった。今度屋上のあるアパートを借りてこよう」

「これ以上寝言ほざくなら今後は顔あわせたら口を開けられる前に顔面に一発入れるようにするぞ」


 大人しく階段を一段ずつ降りてくる天落黒羽尊はそう言われても不敵な笑みを湛え、孝のすぐ傍のソファーでくつろぎ始める。黄金の金侍と違いそういう性癖はないのか、それともただ気分じゃないだけなのかは知らないが、これ幸いと孝はてきぱきと作業を進め数分の内に終える。伊達に長く付き合ってないだけの素早い手際だ。

 回収し終えた吐瀉物を生ゴミの袋に突っ込み洗面器とタオルを濯いで手を洗ってリビングに戻ると、丁度着替え終わった壊滅が戻ってきた所だった。孝は彼女に歩み寄り声を掛けようとする。


「ベル、さっきは悪――」 


 と、歩み寄り、改めてその格好を見た所で思考が止まる。何か少しいつもと違う気がする。

 立ち止まり、頭のてっぺんから爪先までよく見直す。

 手入れなどした事がないくせに長く綺麗な髪はいつも通り寝癖でよれながら腰元まで届き、端整だが化粧気のまったくない顔もまたいつもと変わらずきょとんと小首を傾げて孝を見上げている。

 服装は……ある程度の幅はあるもののいつも同じ服というわけでもなく、それで違和感を持つはずはないだろう。

 あと目に付く所と言えば、幼い見た目に反して異様に成長している胸部くらいだが普段から気恥ずかしくて直視していないそこが変わっても見分けは……。

 壊滅がそうなって以来、意識して見る事を避けていたその部分を孝は冷めた目でじーっと見つめる。


「……なぁ、その服なんか変じゃないか」

「フッ、お前も気付いたか孝よ」


 と、そこで全くの部外者であるはずの天落黒羽尊が立ち上がり、2人の間に割って入った。冷淡な目の孝と困惑したような目の壊滅に挟まれ、尚陶酔したように笑い続ける天落黒羽尊は、かっと目を見開くとその手を壊滅に……もっと正しく詳しく言うならば壊滅の胸部、胸を強調したと表現するのも生温い、まるで先に胸の型を取って回りの布をそこに合わせました。とでも言うような乳房の盛り上がった制服の胸部に向けて、言葉を発する。


「そう! これが私の発案し私がデザインし私がこっそり部屋に忍び込んで私がこっそり一晩で改造した、『近所の高校の制服乳袋エディション』だ!」

「死ね変態野郎」


 黄金の金侍の顔面を破壊した壷が天落黒羽尊の顔面をも破壊した。更に倒れる天落黒羽尊の体を邪魔にならない場所まで蹴飛ばす。


「乳袋だとかアホ臭い事はあえて触れないで置くとしてまず根本的な事から尋ねさせて貰うけど、なんで制服?」

「そりゃ、学校に通うからに決まってるだろ」


 ティッシュで壷に付いた血を拭き取りながらキッチンでその茶番を見ていたアスモデウスに顔を向けると、煙草をふかしながら事も無げにそう答えた。半ば予想していたその答えに孝は深い溜め息をつく。


「そんな嫌そうな顔するなよ。だってそのくらいの年頃の奴が学校通ってないってのはそりゃ目立つぞ。お前だって目立つなって言ってただろう。だからお前らは大人しく学校通ってくれないと」

「そりゃわかるけどさ……ん?」


 発せられた言葉の中に何やら聞き捨ててはいけないものが混じっているような気がして、孝は目を閉じアスモデウスの言葉を反芻する。


「……『ら』って言ったか今」

「お前の制服もあるぞほら」


 そして見つけ出したその言葉をぶつけると、アスモデウスはさも当然というように頷いてそれを差し出した。孝はそれをはたき落とす。


「ふざけんな聞いてねーぞ」

「残念ながら私の裁縫の腕じゃ玉袋は作れなかった」

「つ、作られてたまるか」


 じっと下腹部に向けられる視線から隠すように落ちた制服を拾い上げて股に押し付けると、アスモデウスが舌打ちと共に視線を外した。それでも気を抜かず、後ろを向いたままソファまで移動してから手を外して座り込む。


「もうそろそろ家出ないと学校間に合わないぞ」

「しかも今日からかよ。早すぎるだろ」

「善は急げって言うし」

「急がば回れとも言うだろ」

「つべこべ言わず着替えて行け」

「毎度毎度振り回されてたまるか」


 孝とアスモデウスはキッチンとリビングで睨み合いを始める。壊滅は孝の背後でおろおろとするばかり、黄金の金侍と天落黒羽尊は昏倒。ゴルゴンは早朝から既に家におらず、2人を止められる者はこの場にいなかった。


「……おぉ、そうだ」


 そこで、ずっと黙していた修一が立ち上がった。もう出社時間なのだろう、読んでいた新聞を閉じてテーブルに置き、それに加えて鞄からごそごそと何かを取り出した。修一はそれを新聞の上に置く。


「今朝回覧板が回ってきていたんだ。2人とも、暇なら隣の家に回しておいてくれ。お前らはもう彼とは顔見知りなんだろう」

「えっ」

「えっ」


 頓狂な声を上げる2人に構わず、修一はそれを言ったきり黙って玄関から外に出て会社に向かった。

 扉の閉まる音を最後に静寂が場を支配する。呆気に取られた2人は、まるで示し合わせたかのように同時にテーブルの上に乗ったそれに視線を向けた。それは修一の言う通り回覧板で、表紙には『珍走団の動きが活発になっています。ご注意を』と大きく描かれている。が、問題はそんな所ではない。

 『隣の家に回しておいてくれ』。修一はそう言った。この家の近くには『隣の家』ですぐ通じるほど近い家屋は一つ。『彼とはもう顔見知り』とも言っていた以上、それが指し示すのは先日蕎麦を届けに行ったあの家しかない。

 果てなく暗く、底抜けに黒い瞳。それを向けられる暗澹とした気分を思い出し、2人はごくりと喉を鳴らして震え上がった。


「な、なぁ孝。お母さん少し無理言ってたよな。学校は明日からでも」

「母さん、僕学校に行ってきます。制服はトイレにでも入って着替えるから大丈夫です。ほら行くぞ壊滅」

「あ、うん」


 先に言葉を発したのはアスモデウスだったが、孝は言うや否やと壊滅の手を引いてすぐさま玄関に向かう。ほとんど走っているような速度で、急いで靴を履き止める間もなく外に出た。


「ま、待て! 待って! たの……お願いだから待ってぇぇぇぇぇ! 嫌ぁぁぁぁぁぁ!」


 孝の背後から恐怖に染まりきった悲痛な叫び声が響いてくる。それでも孝は一切足を止めず、逆に心配して家に戻ろうとする壊滅の手を力強く握って先へ先へと歩んでいった。

この話のメイン軸になる学園編、ようやく始まるよっ

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