現出する隣人
『デビルズ』要素は大体描写したんで『カオスシティ』要素の描写に移ります
10月末。
秋も半ばを過ぎ季節が冬に移り変わり始める時機、近年の温暖化の影響で気温の上下が不安定になっている。日によって暖房なしでは布団から出れない日もあれば薄着でなければ汗を掻くような日もある。
が、夕焼けも落ち切り空に星が見え始めるこの時間帯にもなれば、それは例外なく肌寒さを感じさせる。例に漏れず、少年もまた肌を刺す寒風に自身の腕を胸元で抱きながら白い息を吐きつつそこに立っていた。
何故彼がそんな場所に立っているのか、話は3分前に遡る。
「孝、お隣に引越しの挨拶に行くぞ」
部屋でくたびれた心を休ませていた少年……もとい、孝(確定)は、唐突にやってきたアスモデウスにそう言われ、そして現在に至る。返事も着替えも聞かずに無理矢理連れ出すとは相も変らぬ強引さである。
「なぁ、何で今更挨拶なんだよ」
隣宅の扉の前に立ちチャイムを鳴らす何故か片手にカケソバの椀を持ったアスモデウス……自身はちゃっかり厚手のセーターの上からカーディガンを羽織り、くるぶしまで届く長いスカートの裾からはハイソックスだかストッキングだかに包まれた黒い踵が覗いている……にそう問いかけると、アスモデウスは首を回して肩越しに口を開いた。
「物を知らない奴だな孝。日本では住居を移したら蕎麦持ってご近所に挨拶周りするのが慣習なんだよ」
「それは知ってるよ。でも俺達は実際引っ越してきたわけじゃないだろ。表向きにだってアスラさんは既に住んでた事になってるわけだし、いちいち挨拶する必要あるのか?」
アスモデウスは溜め息を吐きながらやれやれとでも言いたそうに首を振り、孝に笑みを向けた。
「その方が楽しいだろ」
「あぁ、うん解ってたよその答えが返ってくるのは」
孝は対照的に表情暗く溜め息をつく。
「大体なんで他の奴等じゃなくて俺なんだよ」
「馬鹿言うなよ。お前はあいつら連れてきて収拾がつくと思うのか?」
「うん、凄く同意できるけどあんたが言うな」
と、そこで扉の向こうから木々の軋む足音が響く。足音が止まり、扉の向こうでなにやら機械を弄る音が鳴ってしばらくするとがちゃりと音を立てて鍵が開いた。扉脇のスピーカーが動作し一瞬ノイズを慣らす。
『お待たせして申し訳ありません。どうぞ、中へ』
「お邪魔しまーす♪」
「気持ち悪、っ痛!」
スピーカーから響いた若い男の声に従って発したアスモデウスのやけに甲高い余所行きの声に、思わず正直な感想を漏らしてしまい、爪先をしたたかに踏み抜かれるのに小さく苦悶を漏らしながらその扉が開くのを見届ける。
中から現れたのは1人の若い男だ。年は13,4くらいに見えるが背は高く孝よりやや低い程度。普遍的な日本人らしい黒い目と黒い短髪、その髪の上にはやけにゴテゴテした装飾の金色の兜が乗り、西洋風の旅人然とした衣服と腰に挿したゴテゴテした剣を包むように青いマントを羽織っている。
「……あ、間違えましたー♪」
数秒の沈黙の後、アスモデウスは扉を閉めた。そしてにこやかな笑みを保持したまま、ぎぎぎと軋むような幻聴の聞こえる所作で振り向き、表情を困惑の色の染め上げる。
「……今の何?」
この数ヶ月で初めて聞くその弱々しい声色に……いや、それもあるが、どちらかと言うと彼女と同じく、先程見たものに戸惑いながらおずおずと答える。
「たぶん……勇者、なんじゃない……か?」
「日本には……勇者がいるのか?」
「いない……よな。日本じゃなくても普通」
しばしの沈黙が辺りを包む。肌を撫でていく冷たい風も、今はむしろ混乱に沸く頭を冷やしてくれて有り難い。
「と、とりあえずもう一度開けてみよう。ひょっとしたら幻覚だったのかもしれない」
「あ、あぁ。勇者なんかいるわけないもんな、うんきっとそうだ」
やや現実逃避気味に出されたその回答に同意すると、アスモデウスは胸に手をあて一度深呼吸をし、ごくりと生唾を飲みながら震える指でチャイムを鳴らす。
『はい、どうぞ中へ』
まだ扉の向こうへ待機していた男の声がスピーカーから響いた。
「お、お邪魔しまーす?」
どうしてか疑問系になりながら恐る恐ると扉を開ける。その先にいたのは金の兜を被り青のマントを羽織った西洋風旅人の格好をした日本人の少年だ。
「間違えましたー」
手早く扉を閉め、急いで振り向き、腕を孝の首に回して顔を近づけ小声で叫んだ。
「おい! やっぱり勇者じゃないか! どういうことだ!」
「俺に聞くなよ! わかるわけないだろ!」
「どうするんだ、隣人が勇者だった時の事なんて全然考えてなかったぞ」
「考えてたら怖ぇよんな事」
まるで予想だにしなかった隣人の姿の特異さにアスモデウスは軽い恐慌状態に陥っていた。自分から掻き乱すのはともかく、意図せず他人に掻き乱されるのには慣れていないのだろう。その瞳には微かに怯えの色すら浮かんでいる。
そんな様子を見ているからか、孝の方は少しばかり冷静さを取り戻していた。アスモデウスでは持ち得ない、普段から他者にペースを乱されている者の哀しい強みだ。
「なぁ、もう慣習とか礼儀とかいいから帰ろうぜ」
「そ、そうだな。帰って少し対策を」
「あのー」
安堵しかけたアスモデウスの言葉尻を遮った声に続いて、がちゃりと音を響かせて扉が開く。
「ひっ」
引き攣った小さく高い悲鳴を上げてアスモデウスが孝の腕に抱きついた。震えるアスモデウスと身を硬直させる孝両名はその扉から現れた勇者に視線を釘付けにする。
「僕に何かご用でしょうか?」
そう言った勇者の顔は、一見してとても和やかな笑みを浮かべているが、その表情はどうにも笑っているというよりは顔の筋肉が硬直しているだけなのではないかというような印象を受ける。目元が完全に無表情で口だけで笑っているからだろうか、とても不気味だ。
「あ、あのわたしたち、今度となりに越してきたものですが」
震え、所々声を詰まらせながらぷるぷると震える腕でカケソバの器を持った腕を突き出す。
「おちかづきに、これどうぞ」
「これはご丁寧に、ありがとうございます」
その勇者然とした少年は笑みをぴくりとも動かさずにその蕎麦に手を伸ばす。それとは対照的に今にも丼を落とすのではないかと思うほどガチガチと震える腕は、それが受け取られる瞬間に一際大きくびくりと跳ね上がり、相手が受け取ると瞬時にそれを引き戻してもう一方の腕と同じく隆の腕を抱きしめる。
蕎麦を受け取った勇者は、手を背中に回すとマントの裏側辺りからくたびれた布袋を取り出した。片手でそれの口を器用に開くと、カケソバをざばぁとその中に流し込む。布地の下部からぬるいかけつゆをびちゃびちゃと垂らすその袋をそのまま背中に戻すのを見て、孝の腕に回されたアスモデウスの腕に更に力が込められた。
意味がわからない。
何かどうしようもなく怖い。
今すぐ逃げ出して帰りたい。
珍しく一致した2人の意見は、言葉を交わすどころか一切のボディ・ランゲージ。アイコンタクトすら必要とせずにお互いの心に通じ合う。
「そうだ、少し上がっていってください。こちらだけお世話になるのも悪いですから」
しかし、その2人の奇跡的に一体した心を打ち砕く言葉がその勇者少年の口から発せられた。
首の裏から背中にかけて嫌な汗が溢れるのを感じながら、孝はちらりと横のアスモデウスを見た。最早恐怖心を隠す余裕も無くなったのか、瞳に薄らと涙すら滲ませて弱々しい表情で懇願するように孝の顔を見上げている。その表情の醸しだす色気や腕に強く押し付けられる柔らかい弾力、普段の飄々とした態度とのギャップは通常時であれば赤面ものではあるものの、その怯えている相手が自分よりも遥かに格上の「人類滅亡とか楽勝」クラスの実力を持っている事が念頭にあるせいで、どうにも寒気しか感じる事ができない。
声が裏返らぬよう、喉を鳴らしてから口を開く。
「いえ、お世話だなんてそんなお気になさらずに」
「そんな事言わずに、さぁどうぞ」
なるべく当たり障りのないよう遠回しに拒否した孝のその言葉に、勇者少年はほとんど被せるようにそう返しながら玄関の扉を目一杯開いて中に入るよう視線で促してくる。
「で、でもその……家で他の兄弟も待っているんで」
「そんな事言わずに、さぁどうぞ」
「え、えぇと、ですけど……」
「そんな事言わずに、さぁどうぞ」
「そ」
「そんな事言わずに、さぁどうぞ」
問答無用とでも言わんばかりのゴリ押し。怯え竦みながら視線を泳がせるうち、孝はその勇者然とした少年と正面から視線を合わせてしまう。その時気付いたが、真っ黒だと思っていたその瞳はよくよく見てみると茶色であった。それは当たり前だ。普通の人間なら瞳が黒一色なのはありえない。
黒く見えていたのは、ただ単にその瞳が凄まじく澱み濁り光を失っているからだったのだ。まるで脳の無い昆虫のような、まるで心のない機械のような、まるで生きながら死んでいるゾンビのような印象が、そのぱっちりと瞳孔まで開かれた瞳を真っ黒に見せていた、ただそれだけの事だった。
そしてそれに気付いたと同時に、孝の意志は折れた。
「さぁ」
「……はい」
孝は、その真正面から向けられる恐ろしい漆黒の眼差しと、脇から見上げてくる非難するような悲壮な視線眼差しから顔を逸らして知らぬ振りをする。孝にできる事などそれしかなかった。
わたしこそ しんの ゆうしゃだ