襲来する怨敵
「ただいまー」
「……ただいま」
開け放たれた自宅の扉の先から全く正反対の感情を込めた同じ言葉を口にしながら、壊滅と孝が中に踏み入った。2人の様子はそれぞれ上げた声の通り、壊滅は血色良く明るい顔で足取り軽く、孝は酷く気落ちしているのが体にも現れ随分な猫背で溜め息をついている。
靴を脱いでソファーに座る2人を見て、向かいのアスモデウスが短くなった煙草を灰皿に押し付けながら頬を弛ませた。
「おかえり。学校は楽しかったみたいだな」
「母さんあんた俺の事見えてる?」
「当たり前だろう。そのなんかクラスに馴染めず友達もできないのに妙な奴にばかり付きまとわれてもう死にたいとでも言いたそうな憔悴しきった顔を見た上で言っているんだ」
「子供の心をしっかり解ってくれるなんて凄いや母さん。嬉しすぎて家庭内暴力に走りそう。ちょっとそこの灰皿取ってくんない?」
「駄目だ。高校生が煙草なんて10年早い」
「大丈夫だ本来の用途じゃなくてちょっとこう反抗期の衝動に従って思いっきり振り下ろすだけだから」
「随分とストレスが溜まっているようだな。スポーツでもしたらどうだ」
「生憎とそんな体力残ってねぇよ」
「みたいだな。知ってて言った。悪い」
テーブルの上の硝子の灰皿に孝が手を伸ばすが、その指が灰皿の縁に引っかかる寸前にアスモデウスが組んだ足の先でそれを引っ張り孝の指は空を掻く。恨めしげに向けられる孝の視線に、新しく火をつけた煙草の紫煙を吐きかけた。
「疲れている所悪いんだが」
「うわぁ?!」
隣から上がった渋い声に思わず飛びあがる。ばくばくと激しく拍動する胸に手を当てながらそこを見下ろすと、いつの間にか孝の隣に座っていた壊滅はキッチンで天落黒羽尊と一緒に、学校の話でもしているのかなにやら楽しそうに談笑していて、それまで壊滅がいた場所には修一が座って新聞を広げていた。
「アス……父さん、あんまり驚かさないでくれよ」
「すまん」
短く謝罪を漏らしコーヒーを啜る。
孝は深く息を吐きつつソファーに座りなおす。そして落ち着くと同時に疑問が沸いた。
「なぁ、何で今日はこんな早く帰ってきてるんだ? いつも帰りは9時過ぎだろ?」
現在の時刻はまだ午後4時過ぎ。会社勤めの人間が家に帰ってこれる時間ではないはずだ。それを問われるのが解っていたのか、修一は依然と落ち着いたままこくりと小さく頷きながら手にしていた新聞を畳んでその視線を孝に向ける。
「実は少し困った事になってな。無理を言って抜けさせて貰ったんだ」
「困った事?」
「ほら」
「あ、ありがとう」
湯気の立ち昇るカップをアスモデウスから受け取り、コーヒーを喉に流し込む。苦味やら風味やら香りやらという細かい要素を全て踏みつけるほどに砂糖の甘みを効かせた大雑把なそれは、コーヒーと呼称していいかは判断に困るものの疲れた心身に深く染み入る。深い息を吐いてもう一度口に含むと同時に修一が声を上げる。
「うむ、天界側に情報が漏れてな。今夜にでも天界から尖兵が攻めてくるらしい」
「ぶふぉっ?!」
「うわっ汚っ!」
そしてその内容を聞くと同時にコーヒーを噴出し、向かいにいるアスモデウスの顔面にぶっ掛けた。
「ごほっげっほ! わ、悪……じゃなくて、今何て言った?!」
「天界側に情報が漏れてな。今夜にでも天界から尖兵が攻めてくるらしい」
「一字一句はもとより声色一つ変えない返答ありがとう! でもそうじゃないんだよ! 少し困るどころか一大事じゃねーか!」
「私の顔も一大事なんだが」
「悪かったよ! 風呂入って来い!」
顔と上着の胸元からコーヒーの臭いを立ち昇らせていたアスモデウスにそう言うと、不満そうな顔で風呂場に向かっていった。それに続いて壊滅と、さも当然とばかりに天落黒羽尊が後に続いていき、10秒ほどしてから天落黒羽尊が廊下に叩き出された。手足の先をぴくぴくと痙攣させるその姿から視線を切り、隣の修一に目を向ける。
「それで、俺はどうしたらいい? ただ慌てさせるために会社早抜けしてきたんじゃないんだろ」
「お前は話が早くて助かる」
「他の奴等が会話成り立たなすぎるだけだろ」
「そうとも言えるな」
冗談なのか本音なのか、そんな事を言いながら修一は鞄から一枚の紙を取り出し、テーブルの上に広げた。一枚でテーブルの半分ほどを覆うそれの表面に書いてあるのは、何処かで地図帳から拡大コピーしてきたのであろう今いるこの家を中心にした町の地図だった。
「奴は恐らくこの辺りに現れるはずだ。お前には兄さんと母さんの2人を連れてここを張ってもらいたい」
修一は続いて取り出した赤いペンで、やや北東にズレた工業団地一円を丸く囲いながらそう告げる。
「張って、どうする?」
「お前に任せる」
問いに対して返答になっているのか疑わしい言葉を投げかけると、修一は地図の下から新聞を取り出して再びそれを読み始めた。投げやりな、と、孝はその態度を見てそう思い不満を口にしようとしてから気付き、口を噤む。
投げやりだったり、無責任などでは決してない。修一はこの『家族』では中核役を担っているものの、それを含む一連の任務の責任者は孝だ。当然、作戦を立てるのも方針を決めるのも孝がやるべき事であり、それをするよう促す修一の行為は妥当と言えよう。むしろ非があるとすれば、弛みきった日常生活でそれを忘れた孝の方にこそある。
「……わかったよ父さん。任せてくれ」
今一歩のところで踏みとどまり、肩を竦めてそう言うと修一は何時も通り新聞を読みながら小さく頷いた。後は自室で休みながら考えようとテーブルの上に広げられた地図を折り畳んで立ち上がる。
そして自室に向かう階段の中程、ふと修一の言葉の中に二点腑に落ちないものを感じ、手すりに寄りかかり身を乗り出しながら階下の修一に声を掛けた。
「そういえば二つだけ質問があるんだけど、まず兄さんと母さんの2人を連れてけ……ってのは、そこで転がってる奴は夜までに復帰できないと考えてなのか?」
上下逆さで腕が妙な方向に曲がっている天落黒羽尊を顎で指す。修一はそれに眼も向けないまま首を横に振った。
「いや、復活できないのはもう片方だ」
「もう片方って、黄金の金侍? 何で?」
「夕方、目を覚ました後母さんに頼まれて回覧板を届けに行ってから意識が戻らないらしい」
「結局他人使ったのかよ……」
道理で帰ってきた時に機嫌と元気が良かったわけだと、難を逃れたアスモデウスと被害を負ったサタンに対して呆れと憐れみに吐息が漏れる。
「じゃあ、情報が漏れたってのは一体どうして解った? それに天界の奴等が出てくる場所はどうやって割り出したんだ?」
もう一つの疑問にして本題であるそれを切り出しながら、手元の地図を半分ほど開き、手すりを背にして見下ろす。天界の使者が現れるという予測範囲は、この拠点に相当近い。……ように見えて、実際は予測範囲内で最も接近する地点に現れたとしても目視圏から十分離れている。事態を楽観しているにしては近すぎ、悲観しているには遠すぎる絶妙な位置をマークしているのだ。一体いつ頃にそれに気付いたのかは知らないが、これを予想した思考の経路は指揮官として、ついでに純粋な好奇心としても聞いておきたい事だった。
修一はコーヒーをずずっと啜り溜め息をついて、それからさらっと、当たり前でごく日常的な軽い出来事のようにそれを告げた。
「昼に偶然毘沙門天君と会って一緒に食事をしている間にこの近辺に悪魔が来ているとポロっと漏らしてしまったんだ。その後電話で天界から刺客が差し向けられるから離れてるようにと言われたんで、ついでに少し詳しく教えて貰った」
つまる所は機密情報の漏洩を意味するその言葉に、思わず脱力し足を滑らせた孝は重力に従い全身を打ち付けながら階段を転げ落ちた。