19 : 誓約の儀。1
怖いものなんてなにもなかった。震え上がるほど恐ろしいものも、大切なものを失ってからは、恐ろしいと思うこともなくなっていた。恐怖という感情そのものが、どこかに吹き飛ばされてしまったのだろう。
その日を境に、ヴァルライガには怖いものなどなくなっていた。
はず、だった。
*
揃いの茶器が欲しい、と言うアサリに、さすがに夕暮れどきからの買いものでは選び切る時間が足りず、翌日も午前中から街に繰り出していたイチカは、午後のお茶を出先でまったりとアサリと堪能していた。
アサリは漸く好みの茶器を手に入れられて満足そうで、イチカとしてもアサリを満足させられたことに満足していたのだが、そこに急な呼び出しがかかったので、初めは不愉快に思った。
「なんて見つけにくいところに! なんで今日に限って出かけてるかな、お父さん」
「なんですか、シュエ。アサリさんとの逢瀬を邪魔しないでください」
「今すぐ王城に戻って!」
「なぜですか」
「ライガが暴走しちゃったんだよ!」
「……、はい?」
よくもこの幸せな一時を、と恨みがましく思ったのは一瞬で、すぐに耳を疑った。
「ライガを引き取って未だ一月にも満たないのですが……なぜそのようなことに?」
「冷静な分析はいいから、とにかく王城に戻って」
「そもそも今日は、楽土さまに教えを乞うたあとは、シュエとなにか約束をしていたはずですよね?」
「いいから」
「なにをしたのですか、シュエ」
「……とっとと戻ってくんないかな」
ライガが暴走したというのは、聞き違いではないらしい。とにかく王城に戻れとしか言わないシュエオンに、イチカは深々とため息をついた。
「なにがあったのか、まず先に教えて欲しいのですが」
「それはローザさまと楽土さまから聞いて。今ふたりがかりでライガの暴走をねじ伏せているから」
「それはひどい暴走ですね」
「……。お父さん、なんでそんなに冷静なの」
これは冷静というのだろうか、と思いながら、イチカは喫茶店の勘定を済ませて道に出る。買いものの荷物をシュエに預けると、アサリを送っていくよう言いつけて、足元に力を集中させた。
「アサリさん、こんなことになってしまって申し訳ありません。このお詫びは、今夜にでも」
「わたしのことはいいから、早く行ってあげて」
「本当に、すみません」
「無事に帰って来て」
暴走、という言葉は、イチカよりもアサリのほうが過敏だ。その理由が、もう十年も前のできごとのせいであることは、記憶に久しい。蒼褪めるアサリがいるから、イチカは冷静でいられるのかもしれない。
「だいじょうぶですよ、アサリさん」
「イチカ……」
「ここにあなたがいる限り」
魔導師の力が強くなったわけではなく、自分の心が強くなったのだとイチカは思う。十年と少し前のできごとは、人間として生きていく強さを与えられることになったものだ。
だから不安はない。
「シュエ、アサリさんを頼みます」
魔導師として駆け出しのシュエオンには、イチカが持つ冷静さの意味がわからないだろう。それは十年と少し前の自分と同じだ。
イチカは足元に集中させた力を解放し、建物の屋根に跳ね上がると、障害物のない道を王城に向かって走る。
イチカには他の魔導師が持つ力を探知するような真似はできないので、なにかしらの気配も危険もまったく感じられないのだが、さすがに王城の下段、魔導師団棟の敷地内に降り立ってすぐ、その喧噪は耳に届いた。
「……そのように焦らずとも、心配するようなことはありませんが」
イチカは、自分が師に向いていないと、重々理解している。それは自身の未熟さを考えてのことであるが、そもそもアサリとの時間を削られることがいやで、ほかに目が向かない自分がいるというそれが最大の理由だ。
ゆえに、あと十年は師に向かないと思う。いや、あと十年、二十年経っても、もしかしたら師に向かない。
それくらい、アサリと離れ離れでいた時間が、イチカの心を小さくしていた。
ふっと息をつき、喧噪の中心であろう魔導師団棟へ赴くと、珍しく数人の魔導師がそれを見守っていた。イチカを見つけるなり、それぞれ心配そうな顔をする。
「だいじょうぶか、瞬花。あれ、かなりやばいぞ」
「ご迷惑をおかけしております」
「迷惑なものか。早くどうにかしてやれ」
イチカの弟子が起こしているものだから、などという理由で見物を決め込むような魔導師たちではない。心配してくれているのだが、すでにアノイとロザヴィンが対処に出ているがゆえに、手を出せず途方にくれているのだ。
つくづく自分たち魔導師は同胞に甘い、と思う。
「どうにかできるものなら、どうにかしますがね」
「は? おい、瞬花?」
魔導力の暴走を前に「どうにかできる」などと、イチカは初めから思っていなかった。人間として強くなったとはえ、魔導力は十年と少し前から変わらないのだ。弟子が暴走した際はどうするか、考えていなかったわけではないが、自身の師のような真似はできないとわかっていたので、実のところまだ考えている途中だった。
「さて、どうしましょうね」
「暢気だな、おい!」
「……雷雲さま」
さて、と考え始めたところでロザヴィンがイチカに気づき、どかどかと歩み寄ってくる。アノイとロザヴィンでライガの暴走をねじ伏せているとシュエオンから聞いたが、どうやら交代でその役目を担っているらしい。
「堅氷の結界が壊れたぞ。どうすんだ」
「師の結界が? なんと……すごいですね」
「感心してる場合か、あほ」
「……ライガが暴走した際のことは、考案中でしたので」
「今は楽土が抑え込んでる。錬成陣を媒体にしてっから、楽土が干渉し易いんだ」
「錬成陣に干渉、ですか……」
そこで漸くイチカは、喧噪の中心人物となっているわが弟子、ライガの姿を確認する。錬成陣の中心に立ったライガは、力を暴走させているわりには不遜な顔つきで、悪天候が集中したような錬成陣の中にいながらも、両腕を組んで考えごとをしている。どうやったら力を抑え込めるか、考える余裕があるのだろう。
「……だいじょうぶそうですね」
「どこをどう見てその判断をしてんだ」
「ライガに考える余裕があります」
「あ? ああ、そういやあいつ、矛盾した負荷をかけられてるくせに、平然としてんだよな」
「台風の目の中にいるようなものなのかもしれませんね」
「台風の目?」
「ひどい状態なのはライガの周りだけ、という意味です。ライガ自身にはなんの影響もないのでしょう」
「……怪我してねぇもんな」
今さら気がついた、という顔をするロザヴィンだが、そこまで気が回らなかっただけだろう。イチカが気づいたのも、第三者として客観的にライガの様子を見ることができているからだ。
「アリヤ殿下のときのような、そんな暴走ではないようで、とりあえず安心できます」
「ああ、十年前のあれか……確かにな」
「しかし、師の結界が壊れたのなら……これは早々に対処しなければなりませんね」
「……。おれはさっきからそう言ってんだけどな?」
「どなたかが怪我をする、ということはありましたか?」
「ねぇよ。暴走直後、楽土が咄嗟に錬成陣に干渉して、封印式を展開させたからな」
「封印式……王族用の、異能制御のためのあれですか?」
「水萍が昔それの世話になってたらしくてな。王族の異能のための封印式だからどうかとも思ったが、今のところは効力がある。だが、魔導力は異能じゃねえ。異能から派生した力ではあるが、方向が違うもんだ。暴走を止められるもんじゃねえ」
「そうですね……干渉以外の方法で暴走は止められないでしょうか?」
「やっていいのか?」
なにか方法は、と助言を求めれば、ロザヴィンの表情に剣呑さが混じり、任せていいのかと暗に訴えてくる。イチカとしては全面的に任せたいところだが、ロザヴィンは任されたくないのだろう。ロザヴィンのなかでは暴走を止める方法があるようだ。
「……どのようなものか、お訊ねしても?」
「簡単だ。今すぐここで、誓約の儀を執り行えばいい」
「誓約……戒めの鎖をライガに打ち込め、と?」
「手荒い手段だが、確実だ」
なるほど、と思う。
魔導師は、その力を悪しきことに使用することがないよう、国に誓約することが唯一義務づけられている。ロザヴィンも、アノイも、魔導師である者は全員、誓約の儀を通過していた。もちろんイチカも、イチカの場合は二重にその儀礼を通過しているので、ほかの魔導師よりも重い戒めの鎖が打ち込まれている。
いずれライガも通過するその儀礼は、魔導師と名乗れるようになる直前に執り行われるのが通例ではあるが、暴走した際に手が負えない場合には、師の判断で執行されることもあった。
「そういえば、そんな方法もあるのでしたね……過去、そのようにして誓約の儀が執り行われた事例は、数少ないものですが」
「おれはそうだったぞ」
「それは雷雲さまですから……と、失礼いたしました」
過去に事例は少ないが、ロザヴィンも暴走中に誓約した魔導師だ。詳しく聞いたことはないが、ロザヴィンの暴走もひどいものだったらしい。その当時、魔導師が総動員して抑えつけたというのだから、そこまでになってないライガはまだいいほうだろう。魔導力を暴走させることなく一生を終える魔導師もいるので、よい経験ではあるだろうが、経験者であるロザヴィンが「手荒い」と言うくらいには、かなり大変なことだ。
「ひとのこと言えんのか。おまえだって、過去に事例のねえことやってんだろうが」
「僕の場合は戒めの鎖が二重に打ち込まれているというだけですよ」
「充分だ。まあ、要領はそれと似たようなもんだ。難しいことはねぇが、少々体力を削ぐな」
「それくらいで済むのなら、と考えてよいのでしょうか」
「暴走そのものが誓約に反したものだ。むしろ当然だと受け入れるべきだろうな」
「ライガはべつに罪を犯したわけではありませんのに……」
「だが無差別に力が働いている」
本来向けられるべき場所へ力が解放されていない、それは誓約に反したことであり、また戒めの鎖を発動させる条件だ。暴走を止める方法としては適している。
「……その方法をお願いします」
「いいのか?」
「僕にはライガの暴走を止める手段が、それを置いてありません。ほかの魔導師に協力を仰ぐには……師の結界まで破壊しているライガでは、迷惑ばかりをかけることになります」
「べつにおれたちは、おまえさえよけりゃ、全力でライガを抑え続けてやるが」
「一晩中あれを続けると? そこまでしてもらうわけにはいきません」
魔導師は同胞に甘い。今ここで観客となっている魔導師たちは、みんながライガを心配してくれている。協力してくれと言ったら、全員が代わる代わる協力してくれるだろう。だがそれは、ライガの体力が尽きるまで続けられ、必要のない疲労を魔導師たちに押しつけることだ。そんな迷惑はかけられない。
「僕を師として義理立ててくださった同胞に感謝します。ですから、僕はライガの師として、今この場で、誓約の儀を執り行いたいと思います」
イチカの判断を待って控えてくれている観客の魔導師たちにも聞こえるように、イチカは深々と礼をした。