17 : 離れてなんかやらない。
ライガが目に見えて成長し始めたのは、アノイにたまに実践で力を見てもらい始めてからだ。アノイの教え方が上手いことと、いやでも机に向かってイチカの講義を受けたことで、イチカが言うところの「感覚」というものを掴んできたのだろう。
「できのよい弟子を持つと……師は暇ですね」
「そう思うなら忙しくしてやらんでもねぇけど」
目を据わらせているライガに、「それはけっこうです」と断りを入れた。
「アサリさんといちゃいちゃできなくなります。それは由々しき事態ですので」
誰よりもなによりもいとしいアサリとの時間のため、イチカはライガへの講義を一日一時間だけに決めた。文字の練習があるため、ライガにとっては机に向かう時間は二時間だ。
「一日、たった一時間で、おれはあんたが喋ったことを全部、憶えなくちゃなんねぇんだぞ」
「充分でしょう」
「鬼!」
「失礼な」
イチカが言う「感覚」をライガが掴んだのは必然かもしれない。なにせ、イチカがまともに魔導師の力について講義するのは、本当に一日のうちに一時間だけ、それを過ぎればライガがいくら質問しようと答えない。しかも同じことは二度と教えないときている。
ライガは毎日、復習に追われていた。
これはよい教え方だ、とイチカは思う。ライガは素材がよく、覚えもよく、なにより意外と真面目な性格をしているので、厳し過ぎるくらいのほうが身につくのだ。
『あれは素直に覚えがいいな』
と、アノイがしみじみ言っていたので、試しに実践してみたらその通りだったので、そのときからイチカはこの教え方を一貫している。
つまるところ、ライガは自分で今の状況を招いてしまったわけだ。イチカは悪くない。
「……これは責任転嫁ですかね」
「あ?」
「いえなにも。ところで、読み書きはどれほど進みましたか?」
「あんたより教え方上手いからな、アサリは」
「でしょうね」
「あっさり認めんなよ」
「事実です」
「……このひと師匠にして、おれだいじょうぶだったのか?」
このところのライガは、イチカを師にしてだいじょうぶだろうかと、自身を疑うことが多い。
「この本、あんたが読んでおくといいって言ったやつ、ほとんど理解できるくらいに読み書きは上達した」
「それは素晴らしい。では、次はこの本です」
「鬼!」
「失礼な」
最近のライガはよく涙目になる。
けれども、意地が強く負けず嫌いな性格は、イチカの横暴とも適当とも言える教育法を、挑戦と受け止めている。
「できのよい弟子を持つと、師は楽ですね」
しみじみ思う。
「おれ今すっげぇあんたのこと殴りてえっ」
睨んでくるライガなど、イチカは怖くない。まあ当然だ。喧嘩の腕ならともかく、魔導力の扱い方はイチカのほうが上手である。ライガに殴りかかられようが、魔導師随一の俊足があれば避けるのは容易い。
「殴れますか?」
「むかつくぅ!」
よく吼えるライガには慣れた。
「もうイチカったら……ライガをからかって遊ばないの」
「アサリさん」
「ちょっと面白いけど……あんまりからかっちゃ、ライガが可哀想よ」
「僕は至極真面目に考えていますが」
「……。ごめん、ライガ、このひと冗談通じなかったんだったわ」
お茶を淹れてきてくれたアサリが、不憫そうにライガを見やって、なぜかライガを机に撃沈させていた。
アサリの魅力は今日も破壊力を伴っているらしい。
イチカはにっこり微笑んだ。
「今日も一段と愛らしいですね、アサリさん」
この世界で誰よりもなによりも、いとしいひと。
あなたに敵うひとなどどこにもいません。
「なあアサリ、このひと育ち方間違ったと思うんだけど」
「あ、うん、それお師さまに言ってちょうだい」
たまにアサリとライガの息がぴったり合うことは、羨ましいと思わないことにしている。
「ねえ、明日はどうするの? イチカ、お休みでしょ? ライガもお休みにする? シュエが来るみたいだけど」
ハッと、これからの予定を思い出した。そう、明日は久しぶりの休日、しかも連休をもらっているので、とても大事だ。
「そうでした。のんびりしている暇はありません」
「ん?」
「さあアサリさん、部屋で」
「そういうことはふたりっきりのときに言ってね!」
顔を真っ赤にしたアサリに、呼吸を止められる勢いで口を両手で塞がれた。
「師匠よ、アサリが可哀想だからさ、ちっとは周囲を気にしようぜ」
ライガに諭されたが、なんのことかさっぱりである。
「僕はアサリさんを愛でつつ」
「きゃーっ!」
今度は口ばかりでなく鼻まで手のひらで覆われたので、地味に息苦しくなった。さすがに呼吸ができないのはつらいので、離してもらおうと手のひらを舐めてやったら、さらに大きな悲鳴を上げたアサリに逃げられた。
「……。次は女の子が欲しいです」
「いや、今それ言うことじゃねぇし」
「シュエはまるで僕と同じ顔なので可愛くありませんが、女の子であればアサリさんに似て、とても愛らしいでしょう。楽しみです」
「シュエがあんたのことまるで父親扱いしない理由が今漸く理解できたわ」
はぁぁ、と大げさなほどため息をついたライガに、いったいなにがライガをそうさせているのかわからず、イチカは小首を傾げる。
なにかおかしなことを言っただろうか。
「おれのことはいいから、アサリを追いかけろよ。シュエが来るんだろ? シュエに相手してもらうから、あんたはアサリに相手してもらえ。そんで、可愛い娘でも作るといいよ」
なにかを悟ったようなライガを不思議に思いつつ、逃げたアサリを追わなくてはならなかったので、イチカはさっさとそこを離れてアサリを捜した。
アサリは、祖父母がいる畑に逃げ込んでいた。
「アサリさん」
「おお、イチ坊、やっぱり帰っとったか」
「はい、ラッカさん。アサリさんをお借りしても?」
「かまわん。ほれ、アサリ、イチ坊が呼んどるぞ」
本気でイチカから逃げたわけではない様子のアサリは、顔を真っ赤にしながらもおずおずとイチカのほうに戻ってくる。イチカはその手を取り、家の中へと促した。
「ラッカさん、アンリさん、母屋にライガがいます。シュエも来るそうです。ふたりをお願いできますか」
「おお、任せとけ」
ライガのことをラッカたちに頼み、それからイチカ自身も家の中に戻る。恥ずかしがってアサリは自分から歩き出そうとしないので、手を引いた。
「少し、出かけましょうか」
「……え?」
イチカからのその提案は、アサリには意外なものだったらしい。
これでも、であるが、イチカとて常識というものはある。半分、いや半分以上はどこででもアサリを愛でたいという気持ちはあるが、それが大半の人にはとても羞恥を煽る言動であることくらい、理解しているのだ。
「半ば冗談だったのですがね」
いちゃつきたいのは本能みたいなものだから仕方ない。
「半分は本気だったんじゃないの!」
「帰ったらアサリさんがいる。目が覚めても、ふと振り返っても、どこにいてもアサリさんがいる……今だけです、許してください。とても、嬉しいことなのです」
「え……」
アサリと繋いだ手のひらに、力が籠もる。今さら、かっこよく見せたいわけではないけれども、男としての矜持がそれを許さない。
自分も健全な男だったのだなぁと、つくづく思う。
「イチカ……まさか本当に、わたしと一緒にいたいから、弟子を取りたくなかったとか、言うの?」
「僕自身が未熟であると思うから、という理由もありますが……漸くアサリさんとの時間を有意義に過ごせると思った矢先のことですからね。預かった以上、師としてできる限りのことはしようと思っていますが、それでも残念ですよ」
べつに、この本心は隠していたわけではないのだが、アサリは冗談だとでも思っていたのかもしれない。意外そうな顔をしていた。
「わたし、もうずっと、イチカと一緒にいるわよ?」
離れてなんかやらない、とアサリが言うので、イチカはふと微笑んだ。
「よいことを聞きました。ええ、もちろん、僕もアサリさんとずっと一緒にいますよ」
繋いだ手の甲に、口づけする。人目のないところでなら、アサリは寛容的だ。くすぐったそうに笑いながら、お返しとばかりにイチカの手の甲に口づけしてくれる。
「ねえ、わたし、欲しいものがあるの。買ってくれる?」
「珍しいですね、なにか欲しいなど」
「ずっと前から欲しかったの。でも、レウィンの村じゃ手に入れるのが難しかったから」
「……では、もう少しで陽が暮れてしまいますが、出かけましょうか」
「ええ」
にこ、と嬉しそうに笑うアサリを眩しく思いながら、イチカも目を細めて笑った。
この魔導師シリーズの【夢を見てもいいですか。】にレビューをいただきました。
ありがたいことでございます。幸せなことでございます。
ありがとうございました。
拙作を読んでくださっている皆さまに感謝を込めて、楽しんでいただける物語を今後もお届けしたいと思います。
津森太壱。




