16 : 今では考えられない。
感覚って難しいかも、と言ったライガに、そう思うのも自分には難しいことなのだが、とイチカは言った。
「あんた、やっぱバケモンだわ」
「はあ……」
「これ見てわかれって、なにそれなんの難題? ったく……わっかんねぇよ、あんたの説明」
不貞腐れたライガは、だからといって魔導師になることを放棄しようとはせず、文句を言いながらも机にしがみついている。
ライガが読んでいる書物は、アノイが見つけてきたもので、今のライガになら理解できるだろうと言っていた。しかし、残念なことにライガはさっぱり理解できないらしい。文字は読めるのだが、どう解釈したらいいのかわからないそうだ。
「魔導師って感覚の生きものなのか?」
「……おそらく」
「この本が子ども向けなのはわかるんだけどさぁ……」
理解しているではないか、とイチカは思ったのだが、どうやらライガは内容を疑っているようだ。子どもらしい素直な面があるというのに、これに関しては素直でいられない様子である。
「水が少ない土地に、水を呼ぶ。風がない街に、風を呼ぶ。火の届かない村に、火を呼ぶ。土の力が伝わらない砂地に、土を呼ぶ。万緑を呼ぶ力が魔導師にあるから、万緑は魔導師に協力し、また万緑の求めに魔導師は応え、魔導は成立する……それはわかるけどさぁ」
うーん、と唸るライガに、まったくそのとおりである解釈であるのに、なぜ疑うのかとイチカは首を傾げる。
「なにが納得できないのですか?」
「納得ってか……なんかこう、これだけじゃねぇだろ? みたいな感じがある」
「これだけではない、ですか」
「方法はいくらでもあるだろ、みたいな?」
「ああ……そういうことですか」
どうやらライガは、呼ぶ、という言い方に納得がいかなかったらしい。
「文章ではそのように表現するしかありません。実践が重要であることは、言わずともわかりますね?」
「あんたやってみせてくれねぇじゃん」
「僕は王都からあまり動かない魔導師ですから、王都で異変がない限り、力は使いません。そもそも僕は、それほど力ある魔導師ではないのです」
「ふぅん?」
「地方任務が多い魔導師に同行できるよう、頼みましょう」
「おれの師はあんただろ」
「こればかりは。僕は殿下の侍従でもあるので、地方任務はほとんど受けないのです」
「ここにいるのも、その殿下のため?」
ぐるりと、ライガは部屋を見渡した。アリヤの執務室から少し離れた場所にあるイチカの控室だ。このところは呼ばれない限りイチカはこの部屋で、魔導師団棟の居室でそうしていたように、魔導力についての研究をしている。研究とはいっても、過去に魔導師たちが発現させた力の解明であったり、天候の荒れ方の法則思案であったり、それは一つに留まらず多岐に渡る。研究している、わけではないのかもしれない。師の集めた書物だけでなく、さまざまな魔導師たちが持ち寄った書物も保管しているので、隙間なく並べられているその数は多く、魔導師たちの図書室となることもある場所だ。
「初めは殿下のためでしたが……ここがこういう場所なのは、歴代の魔導師たちが使っているからです」
「ここにいるだけなのにいろんな魔導師に逢えるのは、いろんな魔導師が集めた書物が資料になるからか」
「師団棟にも書庫はあるのですが、同じくらいのものがここにもありますからね」
そもそもイチカだけのために用意された部屋ではなく、王族づきになった魔導師たちが使っている部屋だ。書棚を隔てた向こう側にも空間はあって、アノイがそちら側にいる。書物の数が数なので狭く感じられる部屋だが、実はけっこう広くて、それくらい魔導師たちが残した書物が多いことを示していた。
「あんたが書物を預けられただけで魔導師になれたってのは、ほんとみたいだな」
これだけ勉強になるものが揃っていれば、書物が先生となり、師が放置しても弟子は育つのだろう。と、ライガは顔を引き攣らせていた。
「辞書もありますからね」
「あんた、こんなところにいたのに、なんで字ぃ書けなかったわけ?」
「必要性が感じられませんでしたので」
「字ぃ書いて覚えることだってあったんじゃねぇの?」
「とくには……文字を追っていると、すらりと頭に入ってきたもので」
「あんた、やっぱりバケモンだ」
おれはいくら読んでもさっぱり頭に入ってこない、とライガは項垂れる。
「ライガは実践向きなのでしょう」
「実践向き?」
「雷雲さまがそうであったと師団長から聞きました。ですが、シュエはそうではなかったようです。シュエは実践と机上のどちらも、器用に使い分けていたそうですから」
「実践で覚えることもあれば、机に向かって覚えることもあった?」
「僕の教え方次第というところもあるでしょうが、きみも、どうすればいいかを考える必要があるでしょう」
模索することは大事だと思う。考えることは大切だと思う。だからイチカはどうすればいいかを常に考える。師になると決めたのだから、師としてライガになにを教えることができるか、考えない日はなくなった。
「僕はきみに多くのことを教えることができないでしょう。ですがきみは、僕を利用することができます。僕は初めに言いましたよ」
「利用するって……あんた、そんなこと弟子に言っていいのかよ」
「これが僕の教え方、とでも言いましょうか」
「はあ……」
「力の使い方はそれぞれです。ゆえに、覚え方もそれぞれでしょう。ですから、きみは如何に魔導師になれるか、考えればいいだけですよ」
イチカのそばにいて覚えられることを覚え、そのイチカのそばにいることで得られるものを経験し、少しずつ自分のものにしていくのだ。きっと気づけば魔導師になっている。
「……質問」
「はい、なんでしょう」
「楽土のばあちゃんが言ってた、媒体、ってなに?」
「媒体ですか。力を使い易くするための方法、ですね」
「使い易く……あんたの媒体は?」
「とくにはありませんが……しいて言うなら、錬成陣でしょうか」
それまで読んでいた書物を閉じたヴァルライガが、イチカの言葉を信じることにしたらしく、まずは疑問に思うことから解決させていく方法を取った。
いくつか疑問を受けて、いくつかの答えを提示し、また疑問を受け、答えを述べる。それを繰り返し、太陽が傾き始めた頃、ライガは漸く読んでいた書物の内容を咀嚼できたようだった。
「呼ぶって、創るってことでもあるのか……おれが道端に大穴を開けたのは、あれ、風を呼んだか創るかしたってことかな」
「そのときなにを思っていたか、憶えていますか?」
「邪魔だ、って思ったな。さっさと帰りたいのに、帰らせてくんねぇ奴らが道を塞いでたから」
「では、呼んだのでしょう」
「呼んだ?」
「地に、きみの道を塞いだ者たちを、きみがそうされているようにするよう、呼びかけたのだと思います」
「……まあ、おれの気持ちにもなれ、とは思ったからな」
なるほど、とライガは頷く。同じように畑の一部を枯れさせたときも、これらが無くなれば、と思ったらしいので、やはりライガは無意識に万緑へ呼びかけたことになる。枯れろ、とライガに思われたから、作物は枯れたのである。
「なんか……そういうの聞くと、魔導師って恐ろしい生きものだな。万緑を味方にしてんだから、どんなこともできちまう」
「ですから、魔導師、という言葉で、魔導師は護られるのです」
「護られる?」
「きみも思うでしょう。なにもしないのに、と」
「まあ……」
「僕ら魔導師は、万緑に力を乞うことができます。万緑の声が聞こえるからです。万緑の声がわかる魔導師は、人間のそれは、どうでもよいことなのですよ」
「……確かに、どうでもいいな」
「ですが、魔導師ではない人々は、そうは思わないようです。いえ、そう思わないから、きみはノルダンの町で、忌避されたのです」
「ああ……そうか、そういうことか。だから、護られる、のか。魔導師って、言葉で」
魔導師の力は、魔導師のそれだと言われなければ、わかるものではない。力のない者たちには恐怖を思わせるもの、それが魔導師の力であるせいだ。
「僕たちはただ、万緑の言葉に、耳を傾けることができるだけなのですが……ね」
「わかんねぇ奴には、わかんねぇってことか」
「人間とはそういう生きもののようです」
魔導師が、力のない人たちの恐怖がわからないように、人々が持つ感情はさまざまだ。
「だからこそ、僕は人間を、いとしく思います」
「人を?」
「アサリさんと出逢えたから、そう思うようになったのです。アサリさんと出逢えていなかったら……今頃僕は、どうなっていたのでしょうね」
今では考えられない。自分があのとき、アサリと出逢うことなく、過ごしていたら。
想像もつかない。
アサリがいない世界なんて、世界ではなかった。
人を、世界を、美しいと思うこともなかった。
「……おれも、出逢えるのかな」
ふとライガが、窓からこぼれる日差しに目を細めながら、羨ましそうに言った。
「あんたがアサリに出逢えたみたいに……おれも誰かに、出逢えるかな」
自分を愛してくれる、理解してくれる、求めてくれる、唯一の自由。
無意識にそれを口にしたライガは、立派に魔導師だ。
「出逢えますよ。いつか、必ず」
不意に、この子の成長を護らなくては、と思った。アサリを手に入れることができたあの事故のとき、もはや命を投げ捨てていたイチカをとかく世話してくれたロザヴィンの気持ちが、今ならとてもよく理解できる。
魔導師を護れるのは、同じ魔導師だ。この力に縛られた自分たちだから、痛いほど、同胞の気持ちがわかる。どうにかしたいと、思ってしまう。
「……本当に、魔導師は同胞に甘い」
自分自身は甘えたくないと思うのに、自分以外の魔導師は気になって仕方ない。それはイチカだけが持つ心ではないから、こんなにも魔導師は同胞に甘いのだろう。
「あ? なんか言ったか?」
「いいえ。さあライガ、きみが実践向きなのだとわかったことですし、時間を見て外で力を使ってみましょう。そうですね……楽土さまにご指南をいただきましょう」
「おれの師はあんただろ」
「僕は実践で力の使い方を覚えたわけではありませんので」
書棚の向こう側で休んでいるアノイに声をかけると、やはり快い返事をもらえたので、イチカはホッと肩の力を抜いた。