04 : 多くを語らない。
続いていたイチカの微熱が引いたのは、漸く、とため息が出る頃だった。しかし、ふつうなら動くのもだるくていやだろうに、いつだって平然としているからこちらも忘れがちになって、アサリは毎日のようにため息をついていた。
「アサリぃ、今日はもう上がっていいぞ」
「はぁい。これ片づけたら上がらせてもらうわぁ」
「あとこれ、魔導師の小僧にやってくれ。つっても、おまえと爺さんと婆さんの分もあるけどよ」
いつものように食堂の仕事を終わらせると、店主はまたも手土産を持たせてくれた。といっても、アサリへ、ではなく、イチカへ、である。
「イチカ、大活躍ね」
「小僧のくせに、魔導師は魔導師だな。湧き出る知識の泉だ」
イチカは、本当に魔導師だった。それもかなり優秀な部類に入る魔導師だろう。
礼と言って留まってくれたその日から、イチカは微熱を出しているということも感じさせず、アサリの祖父ラッカと畑のことでいろいろと助言をくれている。それが近所にも広がり、さらには中央にも広まり、今やレウィンの村全体にその助言が広がっていた。
レウィンの村は、この一年ほど天災の被害をあまり受けていない。だから農作物については豊作の傾向があった。しかし、魔導師が来るほどの被害がなかったというだけで、実は小さな被害は出ており、その影響が及んでいたらしい。豊作だろうということは変わりないが、土地が少し痩せていることや水不足になるだろう兆候に、イチカは気づいたのだ。そのことをラッカに話し、話し合い、改善する策を講じてくれたのである。
「その子、字は書けないのよねえ?」
訊いてきたのは、一緒に働いている三つ歳上の同僚、既に結婚して一児の母となっているハイネ・ロウエンだった。
今日はハイネと遅番、昼から夜遅くまでの時間帯で給仕の仕事に入っている。ただ客入りが少ないときは常にいるふたりのうちどちらかが早く帰されるので、今日のところはアサリが早く切り上げとなった。
「一からわたしが教えているところよ」
「今までどうやって勉強してたのよ?」
「それがね……」
イチカは文字が書けない。だから、魔導師の知識については口伝なのだろうと、アサリは勝手に思っていた。だが、ラッカと畑の話をし始めたときの知識は、口伝だけではどうしたって知り得ないような知識のような気がして、アサリは訊ねた。
『どうやってその知識を身につけたの?』
『書物ですが』
『え? 字は書けないよね?』
『文字は書けません』
『……読めたの?』
『読めなければ学ぶことはできません』
さすがにムカっときた。早くそれを言え、と思った。読めるくせに書けないとはどういうことだ、と思った。
それを言ったら、
『だから困っていないと言いましたでしょう』
と返された。言い返せなかった。
「魔導師ってのは、字を書かなくてもやっていけるわけ?」
「そうじゃないらしいんだけど……必要ないって思ったらしいわ」
「必要ないぃ? あるでしょうが」
「わたしもそう言ったのよ。書類とか、そういう書く作業もあるでしょって。そしたら……」
イチカは「なにがおかしいのか」と言わんばかりに首を傾げてくれた。
『判子があります』
意味がわからなかった。
「判子で済むの?」
「書類なんかの作成は、イチカのやることじゃないらしいの」
「へえ……魔導師ってそんなもん?」
「知らないわよ。わたし、イチカ以外の魔導師と話したことないもの」
「まあねえ。村長とか、役所の奴らでもない限り、魔導師と話す機会なんてないもんねえ」
魔導師は、貴族階級出の者が多い。だからふつうなら文字は書けるし、読めるし、そういった作業には困らないものだ。平民出の魔導師でも、幼いうちから召し上げられて教育されるはずであるから、識字の能力はある。そうでなくても学校があるので、誰でもその能力はつけられる。この国は学識を身につけることに関して、先王の時代から奨学金や特待生というものを儲けるほど重要視してくれているので、心配はない。
しかしそんな豊かな国でも、先王の治世で立て直された国でも、それまでの悪習は完全に消えていない。
イチカが、名無しで、ひどい扱いを受けて育ったように。
こうして考えてみると、イチカが魔導師となったのは、実は先進的なものではないのかと思えてくる。それに、魔導師と呼ばれるようになるのも、とても大変だったのではないのかと。
イチカは多くを語らない。魔導師となった経緯も、魔導師団に入るまでの経緯も、名無しだったということを教えてくれた以外では口にしない。アサリが訊けないだけでもあるが、訊いてはいけないような気がしてそのままになっている。
魔導師は身近にいるようで遠い場所にいるものだ。魔導師が死んだときは、家族のもとには帰さず魔導師たちで送るように、線というか壁がある。人数が少ないからだろうか。
イチカは、その魔導師だけれども、魔導師団にいるような魔導師には見えない。
そう感じるのは、アサリも名無しで、イチカも名無しだからだろうか。
「ま、残念に思っても仕方ないね。どうせ王都に帰るんだし。ここにはもう二度と来ないかもしれないんだから、思うだけ無駄よね。魔導師っていうのはそんなものだし」
「そんなことないわよ。ここが天災の被害に遭ったとき、イチカが来てくれるかもしれないじゃない」
「わかんないわよ。けどま、あたしたちが今感謝してるってことは確かね。来てくれて助かってるわ。うちの旦那も畑が元気になったって、大喜びだもの」
今年の豊作は確実ね、とハイネは嬉しそうだ。
ハイネの夫は役所の人間だが、農業関係の一切を任された部署にいるので、イチカの助言をラッカの次に体感している。村中にイチカの助言を広げたのは、ハイネの夫だった。
「いつまで喋ってんだ。客が来ねえっても、まだ店は開いてんだぞ」
それまでアサリとハイネの会話をうんうんと頷きながら聞いていたくせに、いきなり店主がぶっきら棒に言った。「ほら、さっさと帰って小僧に食わせてやれ」とアサリを促し、店の奥に戻っていく。
「この時間で来ないなら、閉店まで来ないと思うんだけど」
「大抵はそうだけど……あら」
ハイネが「ふふ」と笑い、「原因はあれね」と、小窓から見える僅かな明りを指差した。ゆらゆらとした動きは、一瞬だが不気味に見えるも、揺れている位置と大きさから照明灯の明りだとわかる。
「お迎えよ、アサリ。さっさと帰ったら?」
まさかと思ったが、アサリはそれを確かめるためにも、店主がくれた手土産を籠に入れると、慌てて支度を整えた。
「ハイネ、じゃあまた明日っ」
「あら、明日はあたしもあんたも休みよ。明後日、また逢いましょ?」
「あ、うん。じゃあね!」
ばいばい、と手を振るハイネに手を振り返して、アサリは店の外に出る。照明灯はすぐ近くまで来ていた。
そうして。
「……仕事はもう終わりなのですか?」
イチカだった。
照明灯、ではなく、どうやら魔導師の力を使っているようで、手のひらにふわふわと橙色の炎を浮かせている。
「む、迎えに来てくれたの?」
「見ればわかると思いますが」
迎えに来てくれた、と解釈していいらしい。
「場所、よくわかったわね」
「水源を調べたときに見えました。もう帰られますか?」
「ええ。来てくれてありがとう」
嬉しい。
遅番のときは、帰りが遅くなることもあって、なにかと物騒な気配のある夜道を歩くのはなんとなく怖いのだ。いくら平和な村だといっても、いつなにが起こるかわからない。店主が送ってくれるときもあるが、それは本当に夜遅くなったときだけなので、いつも怖々しながらひとりで帰っていたのだ。
「礼を言われるようなことはしていません。夜道を歩きたい気分だったので、そのついでに寄っただけです」
だとしても、イチカはわざわざ立ち寄ってくれた。迎えに来てくれたことと同義だ。
嬉しい。
こんなに嬉しいと思ったのは、祖父母に引き取られたとき以来だ。いや、学校に入れたときや食堂で働けるようになったときも嬉しかったが、こんなにどきどきした嬉しさは初めてかもしれない。
「帰りましょうか」
「ええ」
イチカは手のひらの炎を、もう一つ増やした。それをぽんと帰路に向かって放り投げる。すると等間隔に炎は増えて並び、足許の道を明るくした。あまり強くない明りなのに、それなりの数が揃うと明るく感じる。
「わぁ……魔導師って、そんなこともできるのね」
「できなければ魔導師にはなれません」
イチカとの会話には慣れてきた。厭味や皮肉に聞こえる言葉が純粋な言葉なのだと、アサリは学習済みである。
ところが、イチカが村で口を開いたのは、アサリとその祖父母以外にはハイネの夫ひとりだけなので、イチカのそれを知る者は少ない。
畑のことで祖父に助言したイチカだが、イチカ本人からその言葉を聞いたのはハイネの夫だけだ。村の人はイチカと話したがったが、そもそもイチカが関わろうとしないのである。世話になった礼をする、という言葉を、イチカは実践しているのだ。
ハイネの夫がイチカの助言を広げたことに関して、イチカは関知しないらしい。つまり、それはハイネの夫の助言であり、イチカの助言ではない、ということになる。本当はイチカの助言なのに、ハイネの夫の助言になってしまったわけだ。しかし村の人もそれはわかっている。だからこそ、姿を見せないそんな魔導師に感謝し、礼を述べたいのだ。
「わたしには魔導師の力なんてないから、よくわからないんだけど、どうなってるの?」
炎の照明灯に足許を助けられながら、アサリはイチカと並んで帰路につく。炎は、アサリたちが通り過ぎると静かに消えていた。
「意識しているだけです。詠唱や練成陣を使うこともありますが、大がかりでない限りは意識の問題でしょう」
「意識?」
「必要性を感じれば使うものでしょう。なにかと」
「欲しいなって思えばいいってこと?」
「……簡単に言えばそうですね」
「本当に?」
「適当に言ったのですか」
自分のばかを曝け出されているような気がして、アサリはちょっと頬を膨らませる。
「わたしにはわかんないのよ。力なんてないもの」
「……言い方を変えます。僕は意識して使っているだけです。そう教わりました」
「教わった?」
「魔導師は個人で使い方があります。詠唱や練成陣があるように。それを魔導師団の中で教わります」
きちんとした教育を受けているとは思っていたが、アサリが通ったような学校では教わらないことを、イチカは教わってきたのだろう。もしかするとまだ教わっている最中かもしれない。
「詠唱? と、練成陣? とかで、力を使う魔導師もいるのね?」
「媒体として使います。そのほうが力を使えるという魔導師もいれば、僕のように意識したほうが使える魔導師もいます」
「へえ……それぞれなのね」
さまざまなことに「方法」というものがあるように、魔導師の力にも使う「方法」、或いは「手段」がある。そういうことだろう。
「便利そう」
「……そう思いますか」
なんとなく呟いただけの言葉は、足許を照らす炎を見ていて口にしたものだった。しかし、イチカは呟きに剣呑な気配を見せる。
「な、なに? わたし、変なこと言った?」
「いえ……」
イチカが見せた気配は、驚いたアサリの様子を受けるとすぐに消えた。
「イチカ?」
「……風が出てきました。急ぎましょう」
足許の炎が風に揺らぎ、夜空の雲が動くと、イチカは歩調を早めた。アサリに遠慮のない歩き方は、イチカに沈黙を与える。
けっきょく、せっかく続いていた会話なのに、家に帰るまで、帰ってからも、再開することができなかった。