32 : あなたと生きたいと思うのです。
たくさん泣いた。
これまでにないほど、泣きじゃくった。
それでも現実は変わらない。
日常は過ぎていく。
未来に進むことはあっても、過去に戻ることはない。
王城から、ひどい顔で帰ってきたアサリを、祖父母は優しい笑顔で迎え、そしてたくさん泣かせてくれた。好きなだけ、アサリを甘やかしてくれた。事情は訊かずにいてくれたが、アサリの様子からなにかしら察したのか、それともシゼがなにか話したのか、どちらにせよ祖父母はなにも訊かずにアサリを泣かせてくれた。
これまでにないくらいたくさん泣いたあとは、泣くことをやめた。嘆くことをやめた。
これは、わかっていたことだったのだ。覚悟していたはずのことなのだ。
想いだけで人は生きられない。
祖父の言葉が、アサリをそうさせた。
だから、アサリは涙を止めた。嘆きを止めた。
想いがあってこそ、人は生きられる。
そう思うから、悲しむのではなく、この想いを大切にしようと決めた。
それからは日常を取り戻すべく、仕事に励むようになった。それは空元気とも言えたかもしれない。
「顔色が悪いぞ」
店主ボルトルの言葉に、そんなことないわよ、と笑顔で返す。もりもり働くわ、と休みも取らず積極的に仕事をした。それは以前と同じ、淡々とした日常で、これからも変わらない日常だ。
「アサリ……あんた、ちょっと休んだら? 働き過ぎよ」
「働いて悪いことなんてないでしょ」
「身体に毒だって言ってるの」
「だいじょうぶ。帰ったらすぐ眠っちゃうもの」
「……考えたくないだけじゃないの、それ」
ハイネの心配にも、アサリは笑う。
どんなことがあっても、笑いを絶やしてはいけないのだと思っていた。
けれども、夜には眠りながら、泣いてしまうこともあった。
だってイチカがいない。
イチカのぬくもりを思い出すと、寂しくて仕方なくなる。
それでも泣きながら、だいじょうぶ、だいじょうぶ、と繰り返して、眠る日々が続いた。
そんな日常の中で、ある日、ダンテに告白された。
「け、結婚を前提に、おれとつき合ってくれ」
「いやよ」
「んなっ! 即答かよっ? 考えてもくれねぇのかよっ?」
あっさりとダンテを振ったのは、イチカへの想いを大切にしたかったから。
あのぬくもり、優しさ、微笑みを今でも鮮明に思い出せるから。
その気持ちは変わらなかったから。
変えられなかったから。
「まだあいつのこと、好きなのかよ」
ダンテにそう言われて、アサリは微笑んだ。
「好きよ」
この心は、身体は、イチカに捧げた。
今はそれだけでも、アサリは生きられる。
「イチカよりも好きな人なんて……わたしにはいないの」
「今おまえのそばにいねぇのに?」
「関係ないわ。わたしは、わたしをイチカにあげたもの」
もう誰のものにもならない。
それが、アサリからイチカへの、応えだった。
「おれにしとけよ」
ダンテはそう言ったが、アサリは頷かなかった。
「わたしはイチカのものなの」
その言葉だけが、今のアサリを支えている。
「ごめんね、ダンテ」
「アサリ……でも、おれ」
「ごめんね」
アサリは逃げるように、ダンテの前から走り去る。心の支えが、不安定になって、涙が出そうだった。
「イチカ…っ…イチカ、お願い…っ…イチカのものでいさせて」
夜にまた、泣きながら眠る。
腫れぼったい目に憂鬱になりながら、朝は目覚める。
気を抜くと勝手に涙が溢れてくるから、笑顔を絶やさないようにしていた。
「おはよう、じいさま、ばあさま」
「おはよう、アサリ。すまんが小屋から薪を頼む。夜に用意しとくのを忘れておったわ」
「ああ、ごめん。わたしも気づかなかった。すぐ取ってくるわ」
「すまんな」
どれくらいの日が過ぎ去ったのか、外は雪が積もり、手足が凍りそうな季節になっていた。暖房機のおかげで朝も夜も屋内で寒さを感じることはないが、外はどうしたって寒い。出かけるときは厚着する必要があった。
アサリは上着を羽織って、祖父に頼まれた薪を取りに、小屋へ行く。
その途中、ふと、畑が視界に入った。
今年の冬は困らないほど畑に収穫があったレウィンの村は、次の農作に備えて、畑を休ませている。眠らせている、と言ったほうがいいだろうか。
イチカがいたら、観察していそうだ。
そう思って、視線を反対側に、あの嵐の翌日イチカを拾った場所に移した。街道沿いの、あの木の根元に、イチカは倒れていたのだ。
懐かしい。
あそこに、イチカは倒れていた。
蹲るように、真っ黒な外套で姿を隠して。
「……え?」
幻覚が見えたと、思った。
「……なに?」
アサリは瞬きを繰り返し、目を凝らした。
黒いものがある。
まさか、と息が詰まった。
まさか、そんなわけがない、幻覚だ。
それは否定できなかったが、気づくとアサリは駆け寄っていた。
外套の帽子を深く被って、容貌はわかりにくい。
けれども、僅かな身動ぎと、吐き出されているのだろう白い息は、黒いものが人であると証明していた。
そして。
「イチカ!」
呼び声は、届いた。
ゆるりと顔を上げたのは、見慣れたもの。
「ああ……アサリさん」
にこ、と微笑むその顔を、アサリは忘れていない。
その声も、姿も、なにもかも、忘れるわけがない。
どっと、涙が溢れ出てきた。
「どうして、イチカ……っ」
なぜここに、イチカはいるのだろう。
あのときのように、意識はあるがぐったりと、そこに寄りかかっているのだろう。
「抱きしめて、くれないの、ですか?」
短い呼吸を繰り返しながら、イチカはアサリに手を伸ばす。
「ねえ……僕の、アサリ?」
その瞬間、アサリはイチカの腕に、飛び込んだ。
「イチカ……っ」
これは夢、なのだろうか。
けれどもしっかりと、イチカのぬくもりを感じる。
「ああ……僕の、アサリ……あったかい」
緩くアサリを抱きしめるイチカは、確かに、イチカだ。
これは夢などでなはない。
「どうして、イチカ…っ…今まで、なにも」
「逢いたかった」
逢いたかったですよ、と耳許で囁かれる。
イチカの言葉に、声に、ぬくもりに、もうアサリはなにを考え思い口にすればいいのかわからない。
「イチカ…っ…イチカぁ」
ただひたすら、いとしき人の名を呼ぶ。
これまでの分を返して、ときつくイチカにしがみついた。
今日までの苦しみを返して。
今日までの寂しさを、悲しさを、返して。
イチカがいなくなって、どれだけ泣いたと思うの。
「ねえ、僕の、アサリ?」
ことん、とイチカが首を傾げる。
「僕は、あなたと生きたいと思うのです」
上下するイチカの胸から顔を上げると、イチカは、いつかのときのように微笑みながら泣いていた。とても綺麗な涙が、はらはらとこぼれ落ちていく。その雫は、アサリの頬を濡らした。
「僕と生きてください、アサリ」
口づけの雨が降る。
アサリは声にならない声でイチカを呼び、優しい雨に涙した。
日常が戻ってくる。誰もが疑わない常の日々が、過ぎていく。
真冬の厳しさを乗り越えると、その日常には疑いようのないものばかりに包まれ、なにを疑っていたのかも忘れてしまった。
「アサリ、それ終わったら上がっていいぞ」
店主ボルトルの声に、アサリは元気よく「はぁい!」と返事をし、洗いものを済ませる。
「あとハイネ、おまえも上がれ。つか、おまえ休みだろ」
「だって暇なんだもーん」
「子どもの相手しろ!」
「昨日からお泊りでいないのよぅ。お母さん寂しいぃ」
「だったらゼレクスンでも誘惑してろ!」
「あ、それいい!」
飛び交う会話も日常的なもので、アサリは「ふふ」と笑う。
前掛けを外して帰宅の準備を終えると、まだ中天を過ぎたばかりの外へ出た。つい周りを確かめてしまって、そういえば、と思い出す。
急いで家に帰った。
「ただいま、ばあさま!」
「はい、おかえり」
「じいさまは?」
「村の人たちと、畑の様子を見て回ってるわ。よく休めたみたいね」
「じゃあまた豊作が期待できるかしら?」
どうかしらねえ、という祖母の声を聞きながら、自室に一旦戻って荷物を置く。すぐに部屋を飛び出すと、祖母の笑い声が聞こえた。
「気をつけて」
そう言われて、笑顔で頷くと家も飛び出す。べつに急がなくてもいいのだが、どうしても気持ちが急いて、走ってしまう。
息を切らせながら走り続け、祖父を見つけるよりも早く、その人を見つけた。
「イチカ!」
大きな声で呼ぶと、黒一点で目立っていたその人は振り向いた。
「転びますよ」
注意されたとたんに、転びかけた。不安定になった体勢をどうにか立て直すと、再び走る。
「ですから、転びますから走らないでください」
集団の中の黒一点、魔導師は呆れながらひとり、集団を抜けてアサリのほうへと来てくれた。
「イチカ!」
飛びつくと、魔導師は苦笑しながらアサリを抱きとめてくれる。
「仕事は終わりましたか」
「終わったわ。そっちは?」
「だいたいの話は終わりました」
「なら、いいわね」
せがむように頬を差し出すと、望み通り口づけしてくれる。
「おかえりなさい、アサリさん」
「ただいま、イチカ」
互いに、にっこりと微笑んだ。
本編はここで完結とさせていただきます。
引き続き、次話から心が成長したイチカの番外編が始まります。
よろしくお願いいたします。
読んでくださりありがとうございました。




