31 : 僕に、くれますか。
どれくらいの時間が過ぎたのかわからない。
気づくと師の姿がなく、ロザヴィンだけが残っていた。そのロザヴィンも、一度部屋から出ていたらしく、その手には軽食を持っていた。
「悪ぃけど、瞬花に食わせてやってくんねぇか?」
「……食事?」
「あんたが作った飯が食いてぇらしいが、ここじゃ無理だからな。とりあえずあんたが手ずから食わせてやりゃ食うだろ」
アサリがシゼと一緒にいたときは乱暴だがわりと丁寧な口調を心がけていたロザヴィンだが、敬うべき人がいないと随分と粗雑な口調だ。こちらが本来のロザヴィンなのだろう。
「食べさせてって……食べてないの?」
「もともと食うほうじゃねぇからな。身体が動かなくなりゃ素直に食うけど」
イチカの食生活はこちらにいたときからの問題であるらしい。
「ここに置くから」
ロザヴィンは卓に食事を置くと、座り込んだままのアサリと、そのアサリに抱きついて離れないイチカに合わせて屈み、じっとイチカを見る。
イチカは、先ほどから微動だにしない。
師がいても、ロザヴィンがいても、まるで空気であるかのごとく、彼らへの関心を失っている。
「……おれはさ」
ロザヴィンが、ふっと苦笑した。
「魔導師ってのは、面倒だと思うんだ」
「……面倒?」
「人なのに人に関心がなくて、緑にばかり気を取られる。ときには家族にさえも、無関心になる」
それでも、とロザヴィンは言う。
「同胞だけは捨てられない」
それってなかなか面倒だろ。
ロザヴィンはそう言いながら立ち上がる。
「おれは適当な魔導師だが、そいつを死なせたくねぇって思う程度には、真っ当な魔導師だ」
だから頼むな、とロザヴィンはアサリの頭を撫で、イチカの頭をポンと叩き、身を翻した。そのままそっと、部屋を出て行く。
アサリはロザヴィンが用意していった食事を見やり、その思いやりの深さに目を細めた。
魔導師たちは魔導師たちなりに、人々への接し方に戸惑っているのかもしれない。彼らは魔導師であるがゆえに、ふつうではいられなくなった人たちでもある。彼らには彼らの、人々に対する思いがあるのだろう。
たとえばイチカが国から道具扱いされることへのものであるとか、それによって受けることになった罰であるとか、それでも魔導師は国に従わねばならないことであるとか、そんな中でどうやって同胞を護るかとか。
「あなたたちも、わたしたちと同じ、人間なのに……ね」
イチカだけでなく、魔導師たちはみんな、答えを求めて彷徨っている。
アサリは一際強くイチカを抱きしめたあと、その距離を開け、囁いた。
「イチカ、食事、しよう?」
呼びかけに、イチカは応えた。アサリの肩に頭を乗せ、腕を腰に回し、寄りかかっているのか抱きしめているのか、そんな体勢に座り直すと卓の軽食を見やる。
卓の軽食を引き寄せて、アサリは麺麭を手に取り、イチカに差し出した。しかしイチカは受け取らず、僅かに口を開ける。食べさせて、ということらしい。ロザヴィンが手ずから食わせろとか言っていたが、どうやらその状態でなければ食べる気もないらしい。
アサリは麺麭を一口大に千切って、イチカの口に運んだ。親鳥にでもなった気分だ。思わず笑ってしまう。
手ずから食事させて、半分ほどなくなると、イチカは顔をアサリの肩口に隠して食べることを拒否した。子どもが食べる量も摂っていなかったが、小食なのは知っているので、無理はさせずそこで食事を終わらせる。
そのあとは、ただ静かに、そっと、互いに身を寄せ合った。
いつまでこうしていられるのか、それがわからない。
だから、離れ離れになるその直前まで、互いのぬくもりを感じ合っていたかった。
窓から覗く陽光は中天にあるようだが、たまに鳥のさえずりが聞こえる。さわりと吹く穏やかな風に、木々が揺れる。これだけなら、本当に、なにもないただ平和な世界だ。
けれども。
それが、まるで終わりへの時間に思えてしまう。
いやだ。
イチカが、欲しいと、言ってくれたのに。
いやだ。
離れたくない。
「イチカ……っ」
わたしはあなたと一緒にいたい。
わたしはあなたと生きたい。
わたしはあなたと、幸せになりたい。
あなたがわたしを望んでくれる限り、わたしはそれに応えたい。
ぎゅっと腕に力を込めたら、肩口から顔を上げたイチカが、頬に口づけしてきた。どこで憶えたのか、耳や首にも、イチカは口づけを落としていく。
そうして、最後に唇を塞がれた。
「ん……っ」
涙が出るほど、嬉しかった。
イチカが抱いてくれている好意は、確かにアサリの抱いているそれと、同じだった。
「イチ、カ……っ」
恋しくて、恋しくて、幾度も唇を合わせた。
「……もっと?」
今まで見たこともないほど婀娜っぽく笑んで問うてくるイチカに、アサリは顔を真っ赤にしながらも頷く。
「僕にも、もっと、ください」
今度はアサリからイチカへ、口づけの雨を降らせた。イチカはそれに応え、嬉しそうに享受している。こんなに嬉しそうなイチカを見るのは初めてだ。そういう顔を自分がさせているのだと思うと、もっと嬉しい。
「アサ…っ…リ」
は、と短く息をついたイチカが、アサリを膝立ちさせ、その胸に顔を埋めてくる。
「いい、ですか……?」
求められているのがなにか、わからないアサリではない。
アサリはイチカの求めを許し、その身を差し出した。
ゆったりと、優しく。
しっとりと、激しく。
イチカはアサリを求めてくる。
「アサリ」
呼びかけてくるイチカは、壮絶なほど色っぽかった。
「もっと……アサリ、もっと」
いっぱい、たくさん、アサリが欲しい。
イチカの求めに、訴えに、アサリはやっとの思いで応えながらも、喜びに涙する。
「アサリのここに、僕を、残します」
にっこりと微笑むイチカに、アサリが拒絶できるわけもなく。
「ね……いいでしょう?」
甘えた声に、頷くことしかできない。
「僕の、アサリ」
嬉しそうに笑うイチカに、アサリも笑った。
「わたしの、イチカ」
「……はい」
「好きよ……イチカ」
「はい、アサリ」
「好き……っ」
笑いながら泣くと、目許に口づけされる。
「離さないで」
「はい、アサリ」
「一緒に、いて」
「はい」
「ずっと、一緒に、いたいの」
「はい、アサリ」
言うたびこぼれ落ちた涙を、イチカが吸う。
イチカも、泣いていた。
「もっと、僕に、アサリをくれますか……?」
「うん……あげる。あげるから、わたしにも、イチカをちょうだい」
「はい、僕のアサリ」
イチカの涙は綺麗で、そして切なかった。
それなのに。
夢は、醒めるもので。
「……イチカ?」
長いこと気を失ってから目覚めると、ほんの少し前まで隣にいたはずのイチカが、忽然と消えていた。
それがどういうことを意味するのか、アサリにはわからなかった。いきなり過ぎて、理解も追いつかない。
イチカがいない喪失感に、呆然となった。
だから。
「アサリちゃん、アサリちゃん」
シゼに呼ばれるまで、アサリはその訪ないにも気づかなかった。
「イチカくんから伝言だよ」
「え……?」
「アサリは村で。……それがイチカくんからの伝言」
瞠目する。
それはいったい、どういうことなのか。
「イチカは……イチカはどこ……?」
この身体には、まだ、イチカのぬくもりが残っている。イチカのものが残っている。
それなのに、アサリに印だけ残して、イチカはいない。
「どうして……どうしてよ、イチカっ」
あげると言ったのに。
くれますかと言っていたのに。
いなくなるなんて。
「イチカ……っ」
僕のアサリ、と言っていたくせに。
アサリの望みに、答えていたくせに。
いなくなるなんて、ひどい。
「イチカ……っ」
ぼろぼろと涙がこぼれた。
どうしようもなく、涙が溢れた。
「アサリちゃん……」
「イチカ……イチカ、イチカ……イチカぁ」
どうして一緒にいさせてくれないの。
どうして一緒にいてくれないの。
どうしてひとりにするの。
どうしてひとりになるの。
わたしはすべてを、あなたに捧げるのに。
「いやよぉ…っ…イチカぁ」
想いが通じたのに、置いて行くなんてひどい。
「だいじょうぶだよ、アサリちゃん。だいじょうぶだから」
シゼの慰めは、アサリには、聞こえなかった。