30 : 僕に、ください。
どうしたものかな、とアサリは苦笑しっ放しだった。
最初こそ人目があったので恥ずかしくて緊張もしていたが、どうしたってそれからは逃れられず、また自身も抵抗などできようもないために、次第に諦めることになった。
いったいどれくらいの時間だろう。
長いこと、イチカはアサリを抱きしめて離そうとしない。
まだ、師もロザヴィンも、そこにいるのに。
「イチカ……」
抱きしめられるのは大歓迎、とても嬉しいのだが、如何せん衆目がある。諦めたとはいえ、この腕の力くらい少しは緩めてくれてもいいと思うのだ。だが、緩めてくれるどころかますます力は増すばかりである。
これは期待してもいいと、望んでもいいと、そういうことだろうかと思ってしまうアサリには、困った事態だった。
「……あんたにそっくりだな、堅氷」
しばらくアサリとイチカの様子を静かに見ていたロザヴィンが、同じく静観していた師に言う。
「……そうか?」
師は首を傾げていた。
「そっくりだ」
再びロザヴィンに言われて。
「……そうか」
師は不思議そうにする。
「ほら、あれだ、あんたが陛下と久しぶりに逢うときと同じだ」
「…………」
「城にいるのにかまわれなかったりしても、ああなるよな」
「…………」
「陛下には絶対にかまわれてぇのな、あんた」
ロザヴィンはよく師を観察している。
師はロザヴィンの言葉に負け、無表情ながらも俯いて視線を彷徨わせている。どうやらロザヴィンの言うとおりであるらしい。
とすると、イチカのこれが師のそれとそっくりで、同じだというなら。
アサリは淡くも期待してしまう。
少なくとも、抱きつきたい衝動に駆られる好意は、抱かれているということだ。
胸がどきどきする。
回せずにいた腕を、イチカの背に回し、そっと撫でた。すると少し抱きしめる力が緩まって、イチカはその顔をアサリに見せる。
泣きそうな顔をしていた。
「……アサリ」
ああまた、イチカはそう呼んでくれる。「アサリさん」ではなく「アサリ」と、呼んでくれる。
「アサリ……アサリ、アサリ」
こちらまで切なくなるような声で、イチカは幾度もアサリを呼びながらすり寄ってくる。
かまって、と言っているかのようなその仕草に、アサリは微笑んだ。要望に応え頭を撫で、頬を撫で、額と額をくっつける。そのどれもに、イチカは甘えてきた。師やロザヴィンが見ているのだという、その現実などイチカには関係ないようだ。
少しして、落ち着いたかと思われるイチカが、泣きそうな顔をしたままアサリを覗き込む。
「アサリ……アサリ、お願いが、あります」
「お願い?」
切羽詰まったような声を出しながら、イチカはアサリの背に回していた腕を解き、その手のひらで頬を包んできた。
「ください」
アサリの右頬に口づけしながら、イチカは言った。
「え……?」
「僕に、ください」
今度は左頬に、口づけされる。
「あなたの、名を」
額に、イチカの唇が落ちる。
「僕に、あなたを」
見つめてくるイチカの双眸から、目が離せない。
「ください、アサリ」
頭が真っ白になった。
言われている言葉を理解しようとしても、イチカのその表情がアサリから思考力を奪う。
それでも。
顔中に降った口づけがどんな意味を成すのか、わからないアサリではない。
すべての熱が顔に集中した。
かくん、と足の力が抜けた。
ぺたりと、力なく床に座り込んでしまった。
それを追うように、イチカは床に膝をつき、アサリに顔を近づけてくる。
「僕に、ください、アサリ」
ぽたりと頬に落ちてきたのは、綺麗な雫。
降ってきたのは、優しい涙。
「ねえ、アサリ……」
ぽろぽろと降ってくる雫は、ふだんのイチカからは想像もできないほど、綺麗な涙だった。
「いいでしょう……?」
アサリが欲しいと言って、イチカは泣いていた。
ああ、なんという切なさだろう。
なんという、いとしさだろう。
「イチカ……」
胸がひどく苦しかった。
息がひどく苦しかった。
心がひどく苦しかった。
「ねえ……アサリ?」
ことん、と首を傾げたイチカは、それはもうアサリには耐えられないほどいとしさを募らせる仕草だった。
「イチカ……っ」
アサリは自らイチカに腕を伸ばし、その頭を胸に抱いた。
「あげる……あげるから」
わたしのすべてをあなたにあげる。
あなたが欲しいと、望んでくれるなら。
わたしもあなたが欲しいと望む。
「……アサリ」
腰に回ったイチカの腕に、引き寄せられる。けれども、抱きしめる力はアサリのほうが強かった。
イチカはアサリの胸に、頭を預けてくる。
「僕の……アサリ」
ほうっと息をついたイチカに、アサリはいとしさと切なさを募らせた。