28 : 魔導師の領分。2
イチカ視点です。
目覚めたら、アサリがいてくれる。
おはよう。今日も寝癖が可愛いわね。髪を梳いてもいい?
そう言ってくれる姿が、思い浮かぶ。優しくて、温かくて、思わず手を伸べたくなるような光景だ。
「アサリさん……」
夢なんて、今まで見たこともない。どんなことがあっても、夢など見なかった。
これが夢なのか。
そう思いながら、目を覚ました。
「よぉ」
ロザヴィンが、煙草をくゆらせながら振り向く。窓から覗く空は明るく、朝焼けがロザヴィンの灰褐色の髪を赤っぽく染めていた。
「……おはようございます」
「夕方だ」
「……こんばんは?」
「ふざけてんのか?」
朝焼けだと思ったそれは夕暮れの色だったらしい。ずっとアサリのところにいたので、こんなに明るい空を見たのは久しぶりだ。王城内のあちこちで火が灯されているせいで、朝と夕を間違えたようだ。
「起きたなら食事しろ。そこにある」
身体を起こして、本当に夕方であるらしい空をしばし眺めたあと、ロザヴィンに言われて寝台の横の卓を見る。簡易ながらも食事が用意されていた。
「……たべ」
「食べたくねぇとか言ったら雷落とすぞ」
言う前に脅された。
「雷雲の渾名を舐めんなよ?」
雷とは、言葉の鉄槌ではなく、天で光る鉄槌のことであるらしい。ロザヴィンの渾名はそういった語源を由来としているわけではないはずだが、どうやらあながち外れてもいないようだ。
なるほど、と感心しながら、イチカは食事に手を伸ばす。黒焦げにはなりたくない。
ぼそぼそとした麺麭は、アサリのところにいたときもよく食べていたが、なんだか味が違った。アサリのところに居候する以前からの麺麭でもあるのに、それとも違う。
この味はなんだろう。
なんだかますます食欲が落ちる。
「食えって言ってんだろ」
手が止まったことをロザヴィンに怒られたが、口にしたくないと思うのだから仕方ない。
「……アサリさんの食事が食べたいです」
これがアサリの用意してくれたものであったなら、たとえ作ったのがアサリの祖母アンリだとしても、食欲が湧いたことだろう。アサリの手料理はアンリには多少劣るが、それでもイチカには充分な食欲を湧かせるもので、居候していた間は自分でも驚くくらいきちんと食事を摂っていた。アサリやアンリにしてみれば小食であったようだが、あれでもたくさん食べていたのだ。
「あの子が用意すれば食うんだな?」
「……無理だとわかっています」
今ここで、アサリの手料理など食べられるはずもない。アサリは逢いに来てくれたけれども、自分はこのとおり、監視されている立場の魔導師だ。これからどうなるのか行く先も危うい。
アリヤのことで頭が混乱して、アサリになんの説明もなく姿を消してしまったことへの罪悪感も、イチカには渦巻いている。
今さらだ、と思うかもしれないけれども。
「今は、いつですか?」
「夕方だって言っただろ」
「いつの、夕刻ですか?」
「一日も経ってねぇよ」
「……そうですか」
自分の命は、役目は、いつまでだろう。
力の封印が施された今、監視の目があるだけで身体は自由になった。ロザヴィンと一緒なら、この部屋を出ることはできる。いつ死んでもいいように、気になることは済ませてしまったほうが、心残りがなくていいかもしれない。
「僕が殿下にお逢いすることはできますか?」
「おまえが逢いに行かなくてもすぐに来るぞ」
「……いらっしゃる?」
首を傾げたときだった。
「イチカ兄さん!」
と、乱暴に開けられた部屋の扉の向こうから、アリヤが姿を見せた。その無事な姿に、食べる気がしなくて持ったままになっていた麺麭を、ぽろりと落とす。
あれだけ血に塗れていた王子殿下は、傷一つなく、健康そうな姿だった。
「殿下……よくぞご無事で」
無事だとは聞いていたけれども、その姿を見るまではどうも納得できなくて、漸く姿を見ることができてほっとする。
「兄さん……っ」
寝台から降りて跪こうとしたら、その前に、アリヤが袂に飛び込んできた。抱きつかれた勢いに負けて、寝台に腰かけてしまう。
「よかった、兄さん……よかった、無事で」
「殿下……アリヤ殿下、僕のような者にこれは」
この体勢は王族に対し不敬だと、アリヤを引き離そうとしたが、袂から一向に離れてくれなくてイチカは困った。後ろでロザヴィンが苦笑している。
「黙って抱きつかせとけ」
そう言って、いっぱいになった灰皿で煙草を消すと、また新たな煙草に手を出してぷかぷかと吸い始める。とりあえず王族には敬意を払う魔導師だが、ロザヴィンほど王族を適当に扱う魔導師はなく、その姿には少々だが呆れる。
「カヤさまの御子たる殿下にそのような……」
「堅氷の子どもだからいんじゃねぇか。あの堅氷の、だぞ?」
ロザヴィンの重点は、アリヤが王族である、というところではなく、まして魔導師でもある、というところにでもなく、イチカの師たる堅氷の魔導師カヤの子、というところにあるらしい。
はあ、とため息をつきたくなったが、こんなところでそれを呆れても仕方ない。
「殿下、殿下、このとおり僕は無事です。殿下こそ、ご無事でなによりでございます。ですから、顔を上げてください」
せめて距離を、と置こうとしたが、アリヤは本当に顔を上げただけで、背に回されている腕が離れることはなかった。しかも、その顔は涙でいっぱいだ。
「殿下……」
僕のことなどでなにを泣くのですか、とイチカは困惑するが、アリヤはめいっぱいに嗚咽するのを我慢しているので、口にはしなかった。口にしたら思うさま泣かれそうで、そちらの対処のほうが難しそうに思えたのだ。
「カヤも、無事です」
「……ようございました」
さすがは師だ。アリヤが負った怪我を、その身に移すということをしたと聞いたときには安否を不安に思ったが、かの人は疑うまでもなく最強の魔導師だった。
「でも兄さん、兄さんはぼくのせいで……ぼくのせいで」
「殿下がご無事なら、それでよいのです」
「それではいけません。ぼくは魔導師でもあるんです」
「そうであるとしても、殿下は殿下であられるのです」
「ごめんなさい……っ」
謝るアリヤに、イチカは軽く狼狽する。そんな言葉を使わせてしまった自分に腹も立つ。
「謝らせておけよ、瞬花」
ロザヴィンの低い声が、イチカの戸惑いを否定する。
「そいつは、魔導師だ」
「……ですが」
「魔導師の領分に在る奴にとって、そいつが取った行動は最低最悪だ。その責務がある」
ロザヴィンの言葉に、アリヤが肩を震わせる。ひどい言葉だとイチカも思ったが、魔導師の領分と言われては、言い返すこともできない。
だから、引き離そうと思った腕を、アリヤの肩に回して撫でた。
この小さな身体に、本来なら必要ない責務を負わせてしまった。
「殿下も、罰を受けられたのですか?」
「魔導師として、な」
「殿下はまだお小さい」
「善悪もわからねぇ歳か? 仮にも王子に生まれてんだろ」
ロザヴィンの、魔導師としての目は厳しい。
おそらくは今まで曝されたことのない状況下に、アリヤは置かれていることだろう。もう十二歳、されどたったの十二歳、魔導師団という小さいながらも壮大な組織の中で生きるには、まだつらいことが多くある。これから学ばねばならないことが、たくさんある。
「いい薬だと思うことだな」
やんちゃをしていい歳は過ぎた。分別ない行動は、慎まなければならない。今回、きっかけとなったのが兄弟子イチカの失踪であったとしても。
「ぼくは、いいんです。これでぼくが魔導師であると、わかっていただけるなら」
アリヤは震えた声でそう言った。
「ぼくは魔導師なんです。兄さんやカヤ、ロザヴィンと同じ、魔導師なんです」
「わかってるじゃないですか、王子殿下」
「アリヤです、雷雲の魔導師ロザヴィン・バルセクト」
顔を上げ、涙を押し留めたアリヤは、その強い眼差しをロザヴィンに向ける。
「ぼくを憶えていただけますか」
「……憶えて欲しかったら成長することですね」
これを期に、とロザヴィンは言い、唇を歪ませる。
強い眼差しのまま、アリヤはイチカに視線を戻し、抱きついていた身体を離した。
「兄さん、僕は誓います。もう二度と、無闇に力を求めません。自分にどれだけの力があるのか、よくわかりました。国の人たちが、カヤを恐ろしいものでも見るかのように扱う理由も、よくわかりました」
「殿下……」
ああ、自分はまだ死ぬときではない。そのときはまだ来ていない。
それが伝わってくる強かな眼差しに、イチカは目を細めた。
「ぼくは兄さんに支えられていました。これからも兄さんの支えが必要です。だから、もう少しだけ……せめて力の制御が完璧にできるようになるまで、そばにいてくれますか?」
イチカが、己れの力の負荷制御の役割を担っているというのを、知っている者から聞いたのだろう。その所以や、経緯も聞いたのだろう。
遊ぶように魔導師の力を使っていた頃のアリヤの姿は、そこにはなかった。
「……僕のような者でよろしければ、僕は殿下の御許に在りましょう」
イチカに言えることは、それだけだ。
いつ終わるとも知れない命、それは師に拾われる前から、拾われた後も、そうだった。イチカはアリヤを影ながら支える魔導師なのだ。アリヤの影に在ることが、イチカの生と言える。
ただ。
ただそこに、見つけてしまったものがあるだけで。
これが人らしいというなら、まさにイチカは今、人らしく生きている。
アサリ。
と、心の中で呟く。
アサリ、僕は、あなたを僕の領分に引きずり込みたい。僕の、魔導師の領分に。
それはいけないことだろうか。
けれども。
それでも。
見つけてしまったものを、見なかったことにすることはできない。
アリヤの影に在りながら、ふと根づいたものに、気づいてしまったのだから仕方ない。
あなたがそこにいることに。
「……一つ、お許しいただけるなら」
「許し?」
まだ死ぬときではない。
それなら死ぬそのときまで、役割を終えるそのときまで、共に在りたいと思う人の近くに。