25 : あなたがいてくれる。1
空腹で目が覚めると、窓が朝陽に溢れていた。どこからか小鳥の鳴き声も聞こえて、これだけならとても平和なのにと、アサリに思わせる。
けれども。
視線を下げて見えたものは、手首を拘束されたイチカの眠る姿。
よくよく見ると、イチカの指先は傷だらけだ。碌な手当てもされていない。どうして指先にそんな怪我をしているのか不明だが、この様子だと拘束されている手首にも痣が作られている可能性がある。
アサリはイチカのそばを離れると、指先だけでも手当てできないかと、道具を捜した。だが、棚には書物がびっしりと詰め込まれているだけで、箪笥には数枚の着替えのみ、大きな箱を見つけたと思って蓋を開けてみても中身は空っぽ、小さな台所には僅かな保存食があるだけで、治療ができそうな道具はどこにもなかった。
「あ、部屋がまだある」
続き部屋だろうか。明らかに部屋が隣接していると思われる扉があった。この部屋にならなにかあるだろうかと思ったが、残念なことに鍵がかけられているのか扉は明かない。
どうしたものかと、アサリは肩を落とした。
とりあえず朝食でも用意してみようかと、小さな台所に戻る。
「燻製肉と……なんの葉っぱかしら? 香草? ちょっといい匂いね……あとは硬い麺麭か」
備蓄庫には、本当に僅かな保存食しかない。燻製肉はともかく、それ以外は食べられるかも怪しいものばかりだ。ほかにはないかと捜してみても、やはりなにもない。
「この部屋で、本当にイチカは暮らしているの?」
置いてあるものはすべてイチカのものであるようだが、生活感に欠けているとアサリは唇を歪める。眠ったり着替えたりするためだけにある部屋のようだ。
「僕はほとんどを研究室で過ごすか、それ以外は殿下のそばにいますから」
「わあ!」
振って湧いた声に驚いて振り向いたら、壁に寄りかかってこちらを見ているイチカがいた。両手首が拘束されているから、なんだかなにをするにも不自由そうに見える。
「お、起きたのね。吃驚させないでよ」
「……アサリさん」
「おはよう、イチカ」
「アサリさん」
「なに?」
アサリ、と呼び捨ててくれていいのになぁと思いながら、昨夜のふわふわした笑みはどこへやら、いつものなにを考えているか不明な鉄面皮が首を傾げていたので、アサリも同じように首を傾げてみる。
「どうしてここに、アサリさんがいるのですか」
瞬間、アサリの目はまん丸になる。
「え……憶えてないの?」
「いえ、憶えてはいますが……夢だとばかり思っていました」
ひく、と唇の端が引き攣る。
ああ、だからあの笑顔か、と。だからあの子どもみたいな態度か、と。
けっきょくあのときのイチカは、寝ぼけていたのだ。熱はなかったが熱に浮かされていた状態だったのだ。
わたしの乙女な心を返して、とちょっと思ったが、あの必要としてくれた態度は夢だと思っていたからできたことかもしれない。そう思うと、まあいいかと思えてしまうあたり、アサリはイチカがかなり好きだ。
「アサリさん、どうしてここに?」
「……言わないと、伝わらないわよね」
「アサリさん?」
ここへ来たことに後悔はない。むしろよかったと思っている。だから言ってしまおうと、その口を開きかけたときだ。
ばちっと、二度ほど聞いたことのある音がした。
「瞬花の魔導師イチカ」
イチカの部屋を覆う結界になにかしたときの音だ、と気づいたときには、部屋に見知らぬ壮年の貴族が入室していた。その後ろには、昨夜イチカに対し辛辣な言葉を述べていたシャンテや、ずっと廊下にいたらしい雷雲の魔導師ロザヴィンの姿がある。
「……宰相閣下」
壮年の貴族を見たイチカは僅かに目を見開き、そばに寄ったアサリを庇うように背中に隠す。アサリは胸元でイチカの腕を強く掴んだ。
「見知らぬ者がおるようだが……雷雲の魔導師、これはどういうことか」
宰相閣下であるらしい壮年の貴族が、その蒼い瞳でアサリを捉え、ロザヴィンに問う。
「王弟殿下の命令で連れてきただけです。理由なら王弟殿下に訊いてください」
「シィゼイユ殿下か……まあいい」
アサリがいることはさして気にならないのか、それともどうでもいいのか、宰相は意外にもすぐにその視線をアサリからイチカに戻した。
「此度の件について、ユゥリア女王陛下からお言葉があった」
宰相は慇懃に、イチカにその言葉をかける。イチカは軽く頭を下げた。
「不問に処す、というわけにはいかぬ。そなたの役割は此度のようなことが起こらぬようにするための措置であり、また、王子の身を護るためのものである。そなたには、相応の罰を受けてもらわねばならぬ」
宰相の言葉に、一瞬でもアサリはカッとする。それを口にしなかったのは、アサリでも「宰相」がどういう存在かわかっていたからだ。イチカに言葉を下しているのに、なんの関係もないアサリが下手に口を出せば、不敬罪を問われるだけでなくイチカの命も危ぶまれてしまう。それくらいには、「宰相」や「貴族」、「王族」というものをわかっていた。
「承知しております」
イチカは宰相の言葉を、冷静に、落ち着き払って聞いていた。
「追って沙汰を申し渡すが、その処遇は魔導師団長に一任されると憶えおくがよい。……以上が女王陛下のお言葉だ。なにか質問はあるか? 弁明でもよい」
軽く頭を下げていたイチカは、宰相の許しを得ると緩やかに姿勢を正した。
「一つ、お訊きしたいことがあります」
「なんだ」
「アリヤ殿下とカヤさまのご様態はいかがでしょう?」
イチカの静かな問いに、宰相は少しだけ黙って、そしてゆっくりと口を開いた。
「アリヤ殿下はご無事であられる。王公閣下に至っては未だその意識を取り戻してはおられぬが、シィゼイユ殿下の治療のもと命の危機からは脱した」
それぞれが持っていた空気がどこか和らいだ気がして、アサリはこのとき、ここにいる全員が緊張していたのだということに気づいた。特にイチカは、大怪我を負ったという師が命の危機から脱したと聞いた瞬間に、ほっと息をついていた。
「ご無事で、なによりでございます」
「ああ。ほかに訊きたいことは?」
「不作法ではありますが、差し出がましくも、アリヤ殿下とカヤさまにご健勝の祈りを」
「……届けよう」
鷹揚に頷いた宰相は、ゆっくりと頭を下げたイチカに仄かな笑みを浮かべ、その上着の裾を捌いて部屋を出て行った。
含みある宰相の笑みにはなにか引っかかるものがあったが、悪いものではないような気がする。あれはなんだろう、心配に似たようなものだ。
「アサリ・ベルテ嬢」
いきなり呼ばれて、ぎょっとした。つらつらと宰相の態度を考えていたアサリを呼んだのは、イチカでもなければロザヴィンでもなく、その兄シャンテだ。
「シゼさまからお話は伺いました。どうぞ、こちらに」
「え……?」
「ここからの領分に、魔導師ではないあなたを関わらせるわけにはまいりません」
それは暗に、イチカの部屋から出て行けということだった。しかし、その言い方にいやな感じはしない。あの宰相にも感じなかった。
この人たちは、いったいイチカをどうしたいのだろう。アサリをどう見ているのだろう。
不思議に思った。
「従ってください、アサリさん」
「イチカ……」
「僕はだいじょうぶです。それに……来てくれて、嬉しかったです」
ふと、イチカが微笑んだ。それは、昨夜見たものが嘘ではないと、アサリの胸をいっぱいにする。
だからこそ、離れたくないと思った。
「い……一緒にいたい」
「アサリさん……」
「イチカと、一緒にいたいの……そばにいたいの」
指先に力を込めて、アサリはイチカの腕にしがみつく。肩口に顔を埋めて、離れたくないのだと訴えた。
それに、イチカへの処罰があるのだと知った今だから、なおさら離れたくない。
「わたしも、罰を受ける……から」
ここへ来たことをイチカが「嬉しかった」と言ってくれた。昨夜は「逢いたかった」と言ってくれた。それは少なからずイチカがアサリを考え、想ってくれていたことの証拠にほかならない。聞いてしまったからこそ、アサリはイチカと共に在りたかった。
けれども。
「アサリ」
と、イチカが、呼ぶから。
「僕は、もうだいじょうぶです」
顔を上げた先には、少年らしさを残した青年がいる。
「あなたがいてくれる」
出逢った頃の淡々とした魔導師ではなく、アサリを正面から見て穏やかな瞳を向ける魔導師が、そこにはいた。