24 : 僕は生きたい。3
どこかぼんやりとしたイチカは、眠っているわけではなかったが、だからといって覚醒しているわけでもなかった。熱に浮かされている状態に近かったが、体温は高くない。
「つかれているだけです」
舌っ足らずに、イチカは言った。
「今まで以上に、殿下の力が、あるので……重たくて」
身体が思うように動かないらしい。手首が拘束されているからではないのかと言ったら、首を傾げていた。
「ああ……つけられましたか」
「だいじょうぶ?」
「……重いです」
細い鎖はイチカの肌を傷つけることはなさそうだが、それでもその重みはイチカには負担のようだった。アサリにはなにも感じられないのだが、それは魔導師にのみ有効なものであるせいらしい。
「僕らは、誓約するのです」
「誓約?」
「はい。国に、従属することを。それが、戒めの鎖を発動させるのです」
「戒めの鎖? これが?」
「魔導師が、罪を犯した際に、使われます」
「! イチカはなんの罪も犯してないわ」
そんなものをつけられる謂れなどないだろう、と文句を言えば、イチカは少し身じろいでアサリの首筋に顔を隠した。
「僕にはぴったりです。はじめから、こうしていればよかったのです」
「……どうしてそんなこと言うの」
「僕は、殿下の力を、使えたのです。それを今日まで、知りませんでした」
「どういうこと?」
「僕は封じられるべきなのです。殿下の力を使えるということは、国にとって脅威にしか、なりません。カヤさまが、それゆえにここを離れ、ひとりでおられようとするように」
強大な力は、争いの種にしかならない。そしてその種は、最大最強の兵器にもなる。そのせいで王子殿下が寂しい思いをしてはならない。悲しい宿命を背負ってはならない。そんなことがあってはならないのだと、イチカは言った。
「殿下には、健やかに、お育ちいただきたいのです」
それが師の願い、師が施した呪い、己れを生かしてくれる力。
イチカは、アサリの肩に目許を擦りつけて、子どものようにそう言う。
「どうして、そんなに……」
イチカが師や王子殿下を家族のように愛しているのは、アサリが祖父母を愛しているのと同じだ。けれどもイチカは、国には完璧な道具扱いを受けている。それでもなお師や王子殿下を愛せるのが、アサリにはとても、つらいことのように思えた。イチカが重荷から逃げ出したのは、当然だったのではないかと、今なら思う。
「はじめに、僕が願いました」
イチカが静かに言う。
「僕は生きたい。道具として死んでいくのではなく、人として生き、そして死にたいと、僕は師に……カヤさまに願ったのです」
「それが……願い?」
「はい。たとえ僕自身が道具としての価値しかなくとも、カヤさまが、アリヤ殿下が、僕を人として生かしてくれます。僕にとって、これ以上の幸福はありません」
そうでしょう、とイチカはふわふわ微笑んだ。
「僕はただの道具から、人としての道具になれたのですから」
生きたかったのだと、イチカの目は語った。渦を巻く不思議な模様の瞳は、そういえば出逢った当初から、生を望んでいたように思う。自分を否定してはいなかったように思う。
「生きたいだなんて……誰しもが、本能的に思うことよ」
「そうですね」
「願う……なんて」
人は願って、生きるものだろうか。生きたいと思うことは、願いなのだろうか。
アサリは、生きたいと思って、生きている。願いなのかどうなのか、わからない。生きることを当然のように思っているのだから、願うものでも望むものでもないのかもしれない。
「生きるって、どういうことなのかしら」
「難しいことです」
「難しい?」
「楽なことではありません。それでも、苦ばかりが、あるわけではないのです。それが、生きることだと思います」
イチカが見つけたその答えを、今アサリが理解することはできない。けれども、理解する努力をすることができる。
アサリは、自分よりも歳下の魔導師をじっと見つめた。
「幸せ?」
と、問えば。
「しあわせです」
と、イチカは笑う。
それがイチカの幸せなのだと思うと、もうそれだけで、いい気がしてきた。
「イチカが幸せなら、それでいいわ」
「アサリさんは、しあわせですか?」
呼び方が戻ってしまっている。残念だな、と苦笑しながら、アサリは微笑んだ。
「イチカが幸せなら、わたしも幸せよ」
微笑んでそう言うと、イチカは満足したようにほっと息をつき、アサリをその腕の中に捕えると静かになった。子どもみたいだ、と思いながらその様子を眺めていると、次第に寝息が聞こえてくる。アサリの体温に安心するなにかを得たらしい。
「わたし、ここに来て、よかった……?」
その問いに、イチカからの返事はない。それでも、イチカのその姿が、アサリにとっては答えのようなものだ。
イチカを抱き寄せると、アサリも「よかった」と安堵し、瞼を閉じる。聞こえるイチカの穏やかな寝息は、ほどよく疲れた身体と酷使された心を癒し、アサリを睡魔に襲わせた。
「イチカ……」
好きよ、という言葉は暗闇に溶け込み、また暗闇も優しくその言葉を包み込む。
アサリはイチカという魔導師の傍らに今あることを幸せに思いながら、意識を手放した。