16 : 逃げていたのは。2
イチカがレウィンの村に留まることを決めて数週間、なにもないことのほうがおかしいと言えただろう。
そもそもイチカは、村に留まり続けることを諾としていない。おそらく考えている。ずるずると、答えを引き延ばすかのように。
「出てけよ。おまえみたいな貴族が、いつまでもいる場所じゃねえ」
アサリの休日は、イチカも休日になる。店主の計らいで本日、休みをいただいたふたりは、祖父母に頼まれて食糧の調達に来ていた。それを、どうやらそちらも休みであるらしいダンテに邪魔された。しかもハイネが今にも喜びそうな場面に、遭遇している。
いったいこのことでいくつため息をつけばいいだろうか。
「値の張りそうな外套なんか着やがって、平民に対するいやがらせかよ? 上等なものを着られるのは貴族だけだってよ」
ダンテの言葉に目が据わる。
イチカは魔導師の官服の一つである外套を、そのままでは目立つので、裏返して羽織っていた。理由はもちろん、冬が近いので寒いからだ。アサリだって外套を羽織っているし、ダンテだって外套を着こんでいる。色は黒で、そう目立たないものなのに、ダンテはイチカの外套の生地に難癖をつけてきた。
「……これは値が張りそうなのですか、アサリさん」
呆けてくれてありがとう、とアサリはイチカに心の中で突っ込む。
しかし、おそらくは支給品だろう外套の価値は、イチカにはわからないものなのだろうが、アサリにだってわかるものではない。なにせ、魔導師の外套だ。裏返しているから誰も気づかないだけで、魔導師の外套にどれほど価値があるのかなど、たとえ気づいた人がいたとしてもわかるものではないだろう。ある意味では、難癖をつけられるダンテの目は素晴らしい。
「値が張りそうって……だってそれ、支給品でしょ?」
「昨年から身長が止まりましたので、その際に採寸して、師に作っていただきました」
「作ってもらった? 本来なら自分で用意するものなの?」
「はい。一度用意されたらそれをずっと使用します。もちろん破れたら繕います。繕うこともできなくなったら、採寸して新しく作ってもらえるのです」
「へえ……いいわね。支給品だけど、ちゃんと作ってもらえるんだ」
そういう仕組みかぁ、などと感心していたら、話に置いていかれたダンテが地面を思い切り蹴って、存在感を知らせてきた。
「あら、まだいたの」
と言ってやったら、顔を真っ赤にしていた。
「アサリ! おまえ、そんなやつのどこがいいんだよ!」
「は?」
「いい暮らしさせてやるとか、そんなこと言われたのかよ! 女みたいな顔した男に!」
「……イチカ、あなた女みたいって言われたわよ」
ダンテの意味不明な文句を半分以上かっ飛ばして、アサリはイチカを見やる。表現し難い、なんとも微妙な顔をしたイチカがいた。
「アサリさんの背が高いだけで、僕は一般的だと思うのですが」
「なにそれ、わたしが男みたいだって言いたいの?」
「女性のようだというのは、そういうことではないのですか?」
「……わたし、イチカの思考回路がわからないわ」
「? 僕はなにか間違えましたか?」
イチカは相変わらずだ。人の話をきちんと聞いているのだろうに、聞き過ぎて思考がぶっ飛んでいる。
「おまえら、いい加減にしろ!」
ダンテが切れた。まあ頷ける。イチカの思考回路は迷路だ。
しかし、イチカの迷路はダンテが抜けられるほど容易いものではない。
「すいませんが、買いものを頼まれています。かなりの量を買い込まなければなりません」
「……は?」
「アンリさんには、日暮れまでには帰るようにと言われました。僕はアサリさんを無事に家まで帰さなければなりません。その責任があります」
「おまえ、なに言ってんだ?」
「アサリさんを護らなければならないお話を」
なにを言うのだろうと思って聞いていたアサリも、「護らなければ」という言葉には目を丸くした。
「この命に代えても、アサリさんに無事買いものを済ませていただき、そしてお帰りいただかねばなりません」
話が飛躍した。
ただ買いものに来ただけなのに、命に関わってしまった。
「イチカ、なに言うのよっ」
アサリは真っ赤になってイチカに言ったが、イチカのほうといえば相も変わらず無表情だ。羞恥を煽る言葉を並べていると、気づいているのだろうか。
「僕の力は攻撃に特化していませんが、防御には特化しています。そのことを踏まえての、アンリさんの頼みです。僕は引き受けました」
「ばあさま、イチカになに言ったのよぅ!」
「アサリさんをすべてから護るように、と」
なんでもないかのように言うイチカが恨めしい。イチカにおかしなことを吹き込んだ祖母にも、恨めしさを感じてしまう。
「官服を着てきて正解でした。アサリさん、ゆっくりしていたら日暮れを迎えてしまいます」
そう言いながら、イチカが外套を押さえている襟首の留め具を外し、脱いでしまう。
「イチカ?」
裏返していた外套を、イチカは表に返して着直す。それは魔導師の官服であると、衆目に知らせる行為だった。
だが、イチカの目的は違う。
「ではダンテさん、失礼いたします」
外套の帽子まですぽっと被ったイチカは、アサリの手を取ると、呆気に取られているダンテに軽く頭を下げる。
その瞬間、ふっと頬を風がきって、瞬きの間に景色が変わっていた。
「え……ええっ?」
ダンテに足止めされていた市場の入り口ではなく、市場の中心にほど近い場所に来ていた。唐突に現われたアサリたちに、皆が驚いている。アサリももちろん驚いた。
「な、なに? なにが起きたの?」
「移動しました」
「移動っ?」
平然と答えたイチカは、衆目など気にもせず「さあ買いものです」とアサリを促してくる。
「ちょ、ちょっと待ちなさい。移動って、イチカ、あなた」
空間転移の話を、思い出した。かなりの力が必要で、そんなことができるのはイチカの師だけだと聞いたあれだ。
「これくらいの移動は、転移ではありません。超加速、とでも言うのでしょうか。師を捜すために身につけたもので、この外套に常に付加させているものです」
「意味わかんない」
「……空間を転移したわけではありません」
「じゃあなに?」
「歩きました」
「歩い……え?」
一歩も動いていないが、とアサリは足許を確認してしまう。
「踏み出す一歩に、加速をつけたのです。ですから、それほど距離は進んでいません。ほら、あそこにダンテさんが見えますでしょう?」
イチカが言った先には、確かにダンテの後ろ姿がある。ダンテは硬直していた。
「師の先回りをするには、この距離がちょうどよいのです。少し難しいので外套に力を練り込んでいますが、すぐに発動させられる状態にあります」
「……すごいわね」
出てくる賛辞はそれくらいだ。それ以外に言葉が見つからない。
「買いものを済ませましょう、アサリさん。本当に日暮れを迎えてしまいます」
「そ、そうね……」
これが魔導師というものなのかもしれない。アサリには不可解な力を、平然と使い、操り、わがものとするのが、魔導師なのだ。
「あ、そうだ。その力は、使ってもだいじょうぶなの?」
「だいじょうぶ、とは?」
「空間転移は、大魔導師の称号を得ても、そう簡単に使える力じゃないってお師さまから聞いたわ。それに、イチカがその力を使ったから、あのとき……」
最後まで言えずに黙ってしまうと、イチカの手のひらがぽんと、アサリの肩を撫でた。
「ふだんから使っている力です。問題はありません」
イチカの問題はないという言葉は、あまり信じられたものではない。だが顔色は悪くないし、具合が悪そうでもない。
これなら、信じてもいいのかもしれない。
「行きましょう、アサリさん」
すっと、手を差し伸べられる。なんだか当然のようになっているそれは、仕事が終わって帰るときも、こうして歩いているときも、畑を見て歩いているときも、ふつうになっていた。
だから、アサリは気を取り直して、イチカの手を取った。
「まずは調味料ね。研ぎに頼んだ包丁は最後に取りにいくわ」
「わかりました。足許に気をつけてください」
楽しくなりそうだ、と思いながら、アサリはイチカと手を繋いで歩いた。