15 : 逃げていたのは。1
目覚めたイチカに、イチカの師である魔導師の言葉を伝え、その後帰ったことと、しばらくこの村に留まって欲しいことを話すと、イチカは声もなく小さく頷いた。そう、ただ頷いただけで、どこへも行かないという選択肢が消えたわけではない。
イチカの目はどこか遠くを、見るともなしに眺めるようになった。
ちなみにシゼは、その正体は王弟であるが、今は一介の薬師であるからと言い張り、アサリに態度を改めさせはしなかった。薬師であることに誇りを持っているらしいシゼにとって、王弟という身分は役に立つこともあるが邪魔なものでもあるらしい。流れ者だ、と言っていたのは、研究心から王都を離れ各地を見て回っていたその経緯だそうだ。
「でな、こことここを繋げると、おまえが使ってるような綺麗な言葉の綴りになるそうなんだ」
「重複しているので、それが丁寧な言葉になるのです。いらっしゃいませ、という言葉も、いらせられませ、と言い変えることができます」
「ああそんな綺麗な言葉、うちじゃあ使わねぇよ」
「憶えて損はないでしょう。アサリさんがおっしゃっておられました」
「おまえよぉ、もうちっと砕けて喋れねぇのか?」
「アサリさんにも言われましたが、無理です。癖づけが必要なので」
イチカはあれから二日ほどぼんやりと過ごしていたが、アサリが仕事に出かけるとついて来て、食堂の店主にいきなり「僕も働きたいのですが、どうしたらいいですか」と話を持ちかけた。店主は初めこそ驚いて、イチカの魔導師という身の上に戸惑っていたが、もちろんアサリも驚いたが、いつまで経っても表情を変えないイチカに苦笑して「ならここで働いてみろ」と店主は言った。魔導師の給料には見合わない額しか払えないぞと言われても、イチカは顔色を変えず「ありがとうございます」と頭を下げていた。
そしてただ今、イチカは文字を書く練習を、店主としている。アサリが教えたことを、学校ではろくに覚えなかったという店主と一緒に、復習しながら教えているのだ。
ちなみに客入りは今のところ少ない時間であるが、気のせいか女性客が多い。
いや、女性客が増えた。イチカの丁寧な接客が、無表情なのに、好評になっているのだ。老若男女問わず公平に丁寧なイチカの接客は、妬まれるかと思われた男性客からも高評価を得ている。どうやら、一時でも貴族のような気分を味わえて、なんだか楽しいのだとか。客の意外な反応だった。
「アサリよぉ、おまえ、こいつのこと躾けてんのか?」
「失礼ね。違うわよ。癖づけだって、わたしも聞いてるわ」
イチカの言葉遣いについて、アサリが思ったことは店主も思ったようだ。
「ああほら、お客さんよ。イチカ、いってらっしゃい」
「はい。ボルトルさん、片づけましょう。そろそろ混んできます」
「片づけはわたしがするから、ほら行った」
新たに入ってきた客のところへイチカを送りだすと、勉強道具を広げていた売台の上を片づける。
「おいアサリ、あの小僧、とんでもねえな」
「今さらよ」
「まあそうだが。しっかし、よくもまあ今まで字も書けずに魔導師なんぞやってられたもんだ」
「ほんとにねえ」
店主は椅子を立つと、アサリが片づけた勉強道具を厨房への入り口の前にある棚に戻した。アサリも厨房のほうを手伝おうと、売台を回ろうとして、その大声に立ち止まる。
「ここはおまえみたいな貴族サマがいるような場所じゃねんだよ!」
ハッと振り向くと、工場で働く青年数人が、イチカをどついていた。
「ちょ……、あんたたち!」
「おいアサリ、こいつなんだよ。なんでこんな奴が、ここにいんだよ」
「イチカはここで働く店員よ!」
アサリは慌ててイチカに駆け寄り、転んでしまったその身体を支えてやる。
「だいじょうぶ、イチカ?」
「はい。すいません、アサリさん」
怪我はないようだ。いきなりどつかれて、ただよろめいただけだったのだろう。
「おいアサリ……そいつ、おまえのなに」
「はあ? あんたに関係ないでしょ。というか、客なら客らしくしなさいよ。こっちだって店員らしくしてんだから」
工場で働く青年たちは、どれも顔馴染みだ。アサリと同じように村に残った若者であるから、中には学校も同じだった青年もいる。そのひとり、名をダンテという青年が、剣呑な目でイチカを見、そしてアサリを見やる。
「こいつなんだよ」
「なにって店員よ。恰好見ればわかるでしょ」
イチカは支給品の黒い前掛けをしている。店主ボルトルと同じものだ。アサリも同じものを身につけている。一目でイチカはこの食堂の店員だとわかる恰好をしているのに、ダンテは不審げだ。
「アサリさん、この場をお任せしてもかまいませんか? お客さまと顔見知りのようですし」
「ええ。厨房を手伝ってくれる?」
「わかりました」
ダンテの剣呑さを感じ取ったらしいイチカが、アサリの手を離れて行こうとする。しかし、ダンテはしつこかった。
「おい、待てよ」
イチカの腕を掴み、その足を邪魔する。
「ちょっとダンテ、イチカに絡むのはやめてよ。この子は事情があって」
「アサリは黙ってろ。おれはこいつに用があるんだ」
なにが気に食わないのか、今日のダンテは機嫌が悪いらしい。
「いい加減にしてったら」
「黙ってろっ」
「え…っ…きゃわ!」
イチカの腕を離してもらおうと手を伸ばしたら、その手をダンテに弾かれて、その勢いが意外にも強くてアサリは危うく後ろへ転びそうになった。
「アサリさん!」
ぱしっ、とイチカが手を掴んで引き寄せてくれたので、転ばずに済んだ。腰も強く引き寄せられて、崩れていた体勢も均衡を取り戻す。しかし、一瞬でも吃驚したので、心臓は逸った。イチカが助けてくれなかったら、後ろの卓か椅子に頭をぶつけていたところだ。
「あ、ありがとう、イチカ。ちょっと吃驚したわ」
「怪我はありませんか?」
「イチカがいなかったら怪我してたわ」
ああ吃驚した、とほっとして、ふとどこからか冷気を感じる。
イチカだ。
「女性には、優しく……そう教わるものだと、思っていました」
「な、なんだよ。おれはべつに、アサリに怪我させるつもりじゃ」
「幸いにもアサリさんに怪我はありませんでした。ですが、一歩間違えれば、いえ、遅ければ、アサリさんは怪我をしていたところです」
いつも以上に表情のないイチカが、その黄緑色の双眸でじっと、ダンテを見据えている。そこからひんやりとした冷気が感じられた。あの師だという魔導師からも感じた冷気だ。
「今日のところはお引き取りください。後日、僕の無礼は詫びさせていただきますゆえ」
イチカは至極丁寧だった。威圧的なその冷気でダンテを引かせると、店を出て行くまで目を逸らさなかった。
ダンテたちが舌打ちして店を出て行くと、とたんに、ほうっとほかの客たちが息をつく。それがイチカの冷気に対するものなのか、それともアサリを助けたイチカへの憧憬なのか。イチカの発した冷気で張り詰めた空気は、自然と穏やかなものへと変わった。
「アサリさん、やはり厨房へはアサリさんがお願いします。そろそろハイネさんがいらっしゃいますね。最初のうちはハイネさんも厨房に入ってもらいましょう」
「え、イチカ?」
「さあアサリさん、ここは僕に任せてください」
さあさあ、とイチカに促されて、アサリは厨房へと追いやられてしまう。
「さっきの声はダンテだな。なにがあった、アサリ」
「う、うん、ちょっと」
「あん?」
「イチカが……ちょっとかっこよかった」
「……、そうかよ。ほれ、さっさと働け」
店主の呆れ声を聞きつつも、アサリはその視線を接客に戻ったイチカへと流す。笑うことも愛敬を振りまくことも、まして愛想もないイチカだが、その丁重さに客は満足している様子だ。
ダンテを追い返したときは少しかっこよかったなぁと思ったところで、また店主に「働けっ」と言われたので、アサリは慌てて厨房に戻った。
「イチカくん、すごかったってえ?」
出勤したハイネにそう言われたのは、夕方の込み合う時刻を過ぎてからだった。
「すごかったって?」
「ダンテと言い争って、勝ったんでしょ? しかもあんたを護ってさ」
なんだかいろいろと脚色がつけられていそうだ。ハイネは客のひとりから、自分が来る前に起こったそのできごとを聞いたようである。
「わたしを護ったわけじゃないと思うけど。ダンテがしつこくイチカに絡むから、いい加減にしてって言ったのよ、わたしが」
「うんうん、それで?」
「そのときに手を弾かれて、わたしが転びそうになったところを、イチカが助けてくれたの。それでイチカが……」
ものすごい冷気を放ってダンテを引かせた、という顛末を聞かせたら、ハイネがなにやら楽しげに目を光らせた。
「いいわねえ、いいわねえ、それ!」
「はあ?」
「男らしいじゃないの、イチカくん。魔導師なだけあるわぁ」
「え、意味わかんないんだけど」
「ああ見たかった! すっごく見たかった! ねえ、もう一回ダンテとやらかさない?」
なにか妄想を膨らませているハイネに顔を引き攣らせ、アサリはため息をつく。
確かにイチカはあのときかっこよかった。だが、あんなのは二度とごめんだ。店に迷惑をかけるどころか、そのせいで客足だって遠のくかもしれない。いや、今のところはイチカ目当ての人が意外と来てくれているので、いいかもしれないが。
「あんなのはいやよ。周りのことも考えないで、イチカに絡むなんて。しかもその理由が、イチカが貴族だからよ?」
「え、イチカくんは貴族じゃないでしょ? 文字、書けないじゃないの」
「そう、そうなのよ。ダンテはそれを知らないの。イチカのあの口調だけで、貴族だって決めつけて、絡んできたのよ」
「まあ絡んだのは、あんたのこともあるだろうけど」
「わたしがなによ」
「いやなんでも。で、ダンテはイチカくんを貴族だと思い込んで?」
そうよ、とアサリはため息をつく。
イチカの口調は、わりとこの村では好まれる、というかなんだか憧憬の眼差しのほうに近いというか、その気分を味わいたいらしいので好まれているが、あれはイチカの努力だ。言葉を知らず、声すら発することも知らなかったイチカが、教えられて覚えたものだ。それを非難されるのは、些か気分が悪い。
今思い返せば、ダンテはイチカにかなりひどい言葉を向けていたと思う。
だんだんと腹が立ってきた。
「イチカの努力をなんだと思ってるのよ。魔導師になるのだって大変なのに」
「あれ? ダンテって、イチカくんが魔導師だって知ってるの?」
「知らないと思うけど。というかイチカがなに者か、知ってる人は少ないわ。イチカがそうして欲しいって言うから。ハイネだってゼレクスンに口止めされてるでしょ?」
「まあね。にしても……そうねえ、イチカくんが魔導師だって、知ってる人は少ないのよねえ」
なにか含みのあるハイネの言葉に、アサリは首を傾げる。
「なに?」
「んー……時間の問題かしらって。だってあんまりにも言葉が綺麗なんだもの。イチカくんが貴族だって思ってる人は、けっこういると思うわよ?」
それもそうだ。むしろ、怪しまれないほうがおかしいかもしれない。
「そうだったわ……早めにイチカが魔導師だって、言っておいたほうがいいかも」
「少しずつ、ね。イチカくんにそれらしいことやってもらえばいいわ」
「それらしいって……」
それが一番難しいのだ。
「そもそもイチカが、あんまり人と関わらないのよねえ……なぜか接客やってるけど」
イチカは、店主に「ここで働いてみろ」と言われたとき、アサリが「接客よ」と言い加えたのだが、迷わなかった。どうやらイチカの中では、接客というものの捉え方が違うらしい。店員と客、という役割なら、関わりがあるとは思わないらしいのだ。
「ダンテを言い負かしたとき、なにもしなかったの?」
「魔導師の力で? そんなことしたら店が壊れちゃうわよ」
「あ、それもそうね。なら外で、ダンテに絡んでもらいましょ」
「ちょっと、ハイネ。なんてこと言うのよ」
「だってそのほうが面白そうじゃなぁい」
あくまでも自分が楽しめる方向にもっていきたいらしいハイネに、アサリは再びため息をつく。
「イチカで遊ばないでよねえ」
「あたしは面白いことが好きなの」
「イチカを巻き込まないで」
「なによ、アサリの意地悪ぅ」
意地悪なんかではないだろう、とハイネに呆れる。魔導師という縁遠い存在が新鮮なのはわかるが、イチカの事情を知っているアサリとしては複雑なのだ。
「アサリさん、支度は整いましたか」
ちょうどよく、帰り支度を終えたらしいイチカがひょっこり顔を見せたので、アサリはなにやら妄想を繰り広げているハイネに仕事を引き継がせると急ぎ足で店をあとにした。
「まったく、ハイネったら……」
「お疲れさまでございました」
「違うわよ。疲れてないわ。ハイネに呆れてるの」
「……そうですか」
なにかあったのか、と首を傾げるイチカに、アサリは苦笑して「なんでもない」と告げると、昼間はありがとうと口にした。イチカは目を細め、「いいえ」と、少し笑ったような気がした。
そうして、それから数日後、ハイネを楽しませるような事態が起こったとき、アサリは今までになく顔を引き攣らせることになる。