13 : ひと、として。1
イチカ視点です。
時間を少し遡って始まります。ご注意ください。
わが師はとても自由な人だ。
留まることを知らない人だ。
立ち止まることをしない人だ。
いつも、ただひとり、そこに在り続けている。
「イチカ」
わが師からもらった名を、師の子息に呼ばれて、イチカは振り向く。
イチカ。
師が、いきなり呼び始めた名だ。
もともと名無しだったイチカにとって、最初こそなんだか違和感のあるものだったが、誰かに呼ばれる名があるというのはいいもので、「おい」とか「そこの」とか、そう呼ばれなくなった。それはなかなかに気分がいい。
「侍従紛いなことまでさせてしまって、すみません。ぼくの立場は、どうも微妙で……」
「お気になさらず、アリヤ殿下」
イチカは、それまであまり使われることのなかった部屋を片づけ、わが師の息子、この国の第一王子であるまだ幼い殿下、アリヤを、今日ここに、魔導師団の棟に迎え入れた。
誰に対しても丁寧な王子アリヤは、あまり使うことのないだろうと思われるその部屋を見渡したあと、にっこりと笑った。
「この部屋は、父が使っていたそうですね」
「はい。あまり使われませんでしたが」
「ぼくもそうなりそうですね……でも、研究室にはいいかもしれません。この部屋、少し変えてもいいですか?」
「お手伝いいたします」
「ありがとう、イチカ」
アリヤは、師とはあまり似ていない。面影は、この国の女王陛下にそっくりだ。けれどもわが師との親子関係を感じさせるのは、やはり持っている素質だろう。
師はこの国、ユシュベル王国の宮廷魔導師。その力は魔導師団随一であり、アリヤに受け継がれている。
イチカには到底及ばない場所に、師もその子息もいる。妬みや嫉みといったものとは皆無だが、身分に差があり過ぎてイチカは少し心苦しかった。イチカは、師に拾われるという偶然と奇跡から魔導師となった、名無しの平民なのだ。
「ところでイチカ」
「はい、なんでしょう」
「歳はいくつですか?」
アリヤの唐突な問いに、イチカは首を傾げる。
「年の暮れには十四になりますが」
それがどうかしたのだろうか。
「僕は九つになります。よかった。ぼく、長男だから、兄さんか姉さんが欲しかったんですよ」
なにを言わんとしているのか、意味がわからなかった。
「兄さんと呼びたいんですが、それですと城で騒がれそうなので控えます。けれど、そう思ってもいいですよね」
「……あの?」
意味が、わからない。
「イチカは父が拾ったと聞きました。イチカが、父を師と仰いでいるとも」
「……十を少し過ぎた頃に、師に拾っていただきましたので。それからはいろいろと、教えてもらうことも多くありましたから」
「イチカはぼくの兄弟子です。だから、兄さんでいいですよね?」
そういうことか、と理解したときには、恐れ多いことだと恐縮する前に、アリヤの熱烈歓迎な満面笑顔を全身に浴びた。
* *
あまり使われないだろうと思われた魔導師団棟の部屋は、幾度かの改装ののち、書庫という名の研究室になった。
イチカはそこで、いつものように朝の掃除をする。しておかないと明日の朝が大変なのだ。
「兄さん、大変です!」
掃除を終えた直後に、どたどたと出勤してきた王子ことアリヤに、イチカは小さく息をつく。
「イチカです。おはようございます、アリヤ殿下」
「新しい力の使い方がわかったんですよ、兄さん!」
「ですから、イチカです。それはようございました」
「……反応がいまいちです、兄さん」
「イチカです。申し訳ありません」
掃除用具の片づけを一旦やめて、アリヤに深々と頭を下げる。勢いよく元気に出勤してきた王子殿下は、不服そうだった。
しかしイチカは、ここでその不服に負けるわけにはいかない。
兄さん、と呼ばれるわけにはいかないのである。
身分も上なら魔導師の力も上にあるアリヤは、この研究室を作った日からイチカの上司だ。師が同じなのでイチカのほうが兄弟子ではあるが、アリヤはこの国の王子、魔導師の素質があってそれなりの力があるだけのイチカとは、なにもかも違う。
だから、アリヤに兄と呼ばれるわけには、いかない。
「いい加減諦めてくださいよ。ぼくがイチカを兄さんと呼び始めて、もそろそろ三年ですよ?」
「こればかりは諦めるわけにはまいりません。示しがつきませんので」
「その敬語もいやなんですけどねえ」
「でしたら殿下も、部下にそのように話しかけないでください」
「……最近の兄さんは冷たいです」
「イチカです。申し訳ありません」
毎朝繰り返される文句を終えると、イチカはさっさと掃除用具を片づけてしまう。開けていた窓を閉めようとしたら、今日は暖かいから、とアリヤに止められた。
「新しい力の使い方がわかったんです」
「先ほどもおっしゃっておられましたね。どういう意味か、お訊ねしてもよろしいですか?」
「簡単なことなんですけどね。今まで感覚だけで行方不明のカヤを捜していたんですけど、こういう、ものを使うと楽に探せることがわかりまして」
こういう、とアリヤが手にしたのは、机の上にある筆だった。
現在、アリヤの父でありイチカの師である宮廷魔導師カヤは、絶賛行方不明中である。正確な位置で見つけ出せるのは、今も昔もカヤの力を受け継いだアリヤだけだ。力の質がまったく同じなので、どこにいるかなんとなくわかるのだとか。しょっちゅう行方不明になる師に困っているイチカとしては、その探知機の機能だけでも欲しいと切実に思う。
「なにかしら媒体があると力を使い易い、という魔導師は多いです。殿下の場合、そのお力の半分はカヤさまが制御なさっていますし、その制御から離れられるということでしょう」
「そういえば、ぼくはカヤに力を握られていましたね……」
「……媒体をお使いになるのはおやめください」
アリヤが持っていた筆を取り上げて、机に戻す。ただの筆記具が凶器になる日がくるとは、思っていなかった。
「でも、カヤには戻ってきてもらわないと……母上がなんだか寂しそうなんです」
「では、いつものようにお捜しください。殿下の足には、僕がなります。それでは駄目ですか?」
「つき合ってくれますか?」
「もちろん、殿下の部下としては、ぜひともおつき合いさせていただきたく思います」
アリヤにつき合うのは当然だが、そろそろ師には帰ってきてもらわねば、魔導師団長の血管が切れて大惨事になる。師に見てもらわなければならない書類は、これが意外にもあるのだ。
天災がひとたび起きると土地がひどく荒れるこの国で、魔導師の力は必要不可欠、なくてはならないものだ。それでも魔導師の数は少なく、イチカのような平民でも素質があれば城に召し上げられる。力が強ければ強いほど歓迎されるが、だからといって弱かろうが侮蔑されることはない。それくらい、魔導師は必要とされている。
イチカの師、アリヤの父は、重宝される強大な力を有していた。
「じゃあ、今日はカヤを捜しに行きますね。準備にどれくらいかかりますか?」
「さほどかかりません。今回は、仕掛けを施してありますので」
「仕掛け?」
「はい。師の外套に、僕の力を付与させています。場所さえ殿下が感じてくだされば、眠っているその力を起こして飛べるはずです」
「え……兄さん、そんなことできたんですか」
「イチカです。試しです」
「それって、この前まで研究していた力ですか」
「はい。試作品第一号を、師に施してみました」
「……それ、だいじょうぶですか」
このときアリヤがなにを心配したのかは、言わずもがな。
しかし、イチカはそんなアリヤの心配を跳ね退ける。
「被害があるとしたら、師に向かうでしょう。師なら掠り傷で済むでしょうから、心配は要りません」
瞬間的にアリヤは黙った。
しかし、次にはにっこりと、全身で笑った。
「それならぼくたちは安全ですね!」
「はい」
無傷大歓迎のアリヤに、イチカも大きく頷く。
ふらりといなくなる師が悪い。今回は奇跡的にも行方不明になる寸前に外套に力を付与させることが可能だったが、毎回そうはいかないのだ。探知機能がないイチカには、その役目をアリヤにやってもらって強制連行方法を確実にするという、そういうことしかできない。力がそちらにばかり偏るのも、すべては師の責任である。
「さっそくカヤのところへ行きましょう! あ、弟に出かけるって言ってきます。ちょっとだけ待ってくださいね」
「承知いたしました」
足早に弟王子のところへ走り去る兄王子を見送り、イチカは開け放されたままの窓に手をかける。閉めようとして、ふと暖かな風が頬を擽った。
ああ、今日は本当に天気がいい。
天に広がる無限の世界は、雲一つない鮮やかな青。
師に拾われたときも、こんなふうに綺麗な空の下だった。
少しそうやって外の風に当たり、窓を閉めると、アリヤが戻ってきた。
「さあ行きましょう、イチカ兄さん!」
「……。はい、殿下」
名で呼んだ下に兄をつけるという技を見つけたらしいアリヤに、少ししてやられた感を抱きつつ、イチカは王子に従って力を解放させた。