12 : どこか、遠くへ。5
「い、いま、とんでもない、名前を聞いた……ような」
「カヤのことかい?」
平然としたシゼは、わかっていたのだろう。それでもなおあの態度だったということは、シゼもとんでもない人物かもしれない。
「ユシュベルって……この国の、名前じゃないの」
「そうだねえ」
「あ、あの人、まさか……」
「王サマではないよ?」
「知ってるわよ! この国が今、女王さまの御代だってことくらい!」
どんどん血の気が引いて行く。とんでもない人に、なんてことを言ったのだと、なんて口をきいたのだと、呼吸まで苦しくなってくる。
「あの人、なに者よ」
「カヤ・ガディアン・ユシュベルだよ。そして魔導師。なら出てくる答えは一つじゃない?」
「……うそでしょ」
この国、ユシュベル王国は、女王ユゥリアの御代だ。そしてその女王には、脚色されているだろうが、ある逸話がある。魔導師に一目惚れして口説き落とした、という逸話だ。その魔導師との間には三人の息子がいて、今は四人めを妊娠中だとか。
「あの人、王公さま?」
なぜあの魔導師と女王陛下を連想させられたか。それは王族が、魔導師のような力ではなく、異能と呼ばれる力を持っているので、魔導師にはならないと聞いたことがあるからだ。
ユシュベルと名乗れるのはこの国の王族だけ、しかし魔導師団に所属しているなら、イチカの師であるあの魔導師は女王の夫、王公と呼ばれている人ということになる。つまり、女王に惚れられ口説かれた魔導師だということである。
「本人はそう呼ばれることをいたく気にして、呼ばれたがらないけどね。そう呼んでも返事しないし」
ああ、あの魔導師は真に王公さまであるらしい。あんなに若いだなんて知らなかった。
「あの人いったい幾つよ」
「歳? さて……わたしの一つ下だったはずだから、二十七か八くらいかな」
若い。いや、アサリからすれば充分な歳上だが、女王の逸話は今からだいたい十年と少し前の話だ。女王の息子たちも、第一王子はそれくらいの歳になっているはずである。世情に疎いアサリでも、そういう噂話は職場でしょっちゅう耳にするのだ。
「ねえ……第一王子って、十歳越してなかった?」
「アリヤは……十二歳だったかな」
「幾つのときの子よっ?」
「ああ、それは憶えてる。確か十五歳だ。成人する前に襲われてたからね」
うわあ、とアサリは顔を引き攣らせる。女王さま素晴らしいです、と思ってしまった。
ちなみに女王陛下のほうが王公より歳上だと聞いている。
「あのあほはものすごく鈍感でねえ。アリヤが五つになるまで自分の息子だって気づかなかったんだよ。それを聞いたときは思いっきり笑ったけど」
「……王公サマをあほと呼んで、王子サマを名前で呼ぶあんたは、なに者なのよ?」
不敬を働いていたのはアサリだが、もっと不敬をしているのはシゼだと思う。しかし平然としているなら、シゼもあの魔導師と同じくらい、とんでもない人物に違いない。
「あの人、あんたのことシィゼイユって、呼んでたわね」
「ああ、長いからシゼって、愛称。シィゼイユが名前だよ」
「すべて名乗りなさいっ」
「シィゼイユ・ホーン・ユシュベルと言います。以後、お見知り置きを」
にこ、と効果音まで聞こえてきそうな笑顔つきで、シゼは答えた。
ああもう倒れていいだろうか。
「こ、国名背負ってるし」
「姉上にすべて押しつけたから、べつに背負うつもりはないけどねえ」
「え」
「あのあほの義弟っていうのもいやだしねえ。ああ、わたしのほうが歳上だから義兄かな? どっちにしてもいやだねえ」
なんてこった、とアサリは項垂れた。このいつだってやる気のない医師、いや薬師は、王弟サマときた。
「数々の非礼をお許しください」
「ああそれはやめなさい。わたしは継承権を放棄した身で、今はただの薬師なんだから。言ったでしょう? 流れ者だって」
「王都からのね!」
ただ者ではないとは思っていたが、範疇外な人物だった。なんでこんな村に薬師としているのか不思議だ。身近に魔導師がいたという話も、それが生活圏内だというもの、シゼが王族だからだ。どおりで魔導師に詳しいわけだ。
「ああもう、わたしとは天と地ほどの差がある人たちになんてこと……、え? ちょっと待って?」
「まだなにか?」
「イチカって、なに?」
「なにって……カヤの弟子」
「王子サマと兄弟のように育ったって」
「そうらしいね。たぶん侍従かなにかじゃないかな。わたしが知らない間のことだから、乳兄弟ではないだろうけど」
イチカまでただの魔導師、いや魔導師というだけでもえらい違いではあるが、ふつうではなかった。
アサリはひたすら項垂れる。よく無事に生きられているものだとさえ思った。
「アリヤって子が、殿下なのね……あはははは」
力なく笑う。
今さらだが、本当にとんでもないことをしてしまった。
わたしは明日、生きていられるだろうか。
「ん……」
ふと、忘れていたが腕の中のイチカが、身動ぎした。
「ああ、起きちゃったねえ。そんなに強くない薬なのに、アサリちゃんが大声出すからだよ」
なんてシゼが言うので、アサリは慌てた。咄嗟に腕の中へと抱き込んで、そのままなのだ。
寝台に戻そうとして、しかし、それより早くイチカは目を開けてしまう。
「アサリさん……?」
「お、おは、おはようイチカ」
声が裏返った。
この体勢になっている説明をまずしたほうがいいだろうか。
「アサリちゃんのような女性に抱きしめられるなんて、羨ましいことこのうえないねえ、イチカくん」
「シゼっ!」
余計なことを言うな、とアサリは怒鳴ったが、表情の変わらないイチカを見るとなんだか胸中が複雑だ。頬を赤くするとか、動揺するとか、戸惑うとか、そういう反応があってくれたら少しは嬉しいのに、アサリにそういう魅力がないというのだろうか。
少し自信のある胸でもイチカに押しつけてみようか。こう、ぎゅっと。
しかし。
「アサリちゃん、イチカくんが可哀想なことになってきたから、離してあげたら?」
「へ?」
「ああ、もう遅いかな」
イチカがなぜか再び意識を手放していた。
「ええっ? イチカっ?」
胸を顔に押しつけたのが悪かったのだろうか。
「羨ましいなぁイチカくん。そして初心だったんだねえ」
シゼのそんな呟きを聞きながら、しかしアサリはそれを無視して、意識のないイチカを揺さぶった。