09 : どこか、遠くへ。2
森からの帰り道、イチカは当然のように再び手を差し伸べてきて「掴まってください」とアサリに言った。しかし、イチカがここから出て行ってしまうことを複雑に思い、なぜそんなふうに思うのかわからず困惑していたアサリは、その手を素直に取ることができなかった。
「だ、だいじょうぶよ」
そう言い張って一歩を踏み出したところで、案の定なんでもない小石に爪先を引っかけ、転びそうになった。
「掴まってください」
「……ごめん」
けっきょくイチカと手を繋いだ。だいじょうぶだと言った矢先に転びかけたのが恥ずかしくて、まともにイチカの顔を見られない。
帰途はほぼ無言だった。
「ね、ねえ、イチカ」
「はい」
「本当に、行くの?」
「守護石のことは、礼にはなりませんでしたか?」
「そ、そうじゃなくて!」
イチカは、帰るのではなく、行くと言った。それならどこかへ行く途中だったのだ。偶然にも、嵐のせいで行き倒れただけで。
「急ぐ旅なの?」
「旅というわけではありませんが……急いでいるわけでもありません」
「それなら、もう少し……」
いてくれてもいいんじゃない、と言おうとして、言えなかった。イチカには、イチカの目的があるのだ。それを、ただいて欲しくて引き留めるのは、アサリの我儘だ。
会話はそこで途切れ、家が見えてきても沈黙が続いた。
しかし、あと数歩で家の玄関に辿り着くというとき、イチカが急に立ち止まった。
「……イチカ?」
せめて家に着くまでは繋いでいたかった手のひらのおかげで、アサリはイチカが立ち止まったことに気づけた。振り返ると、珍しくも怪訝そうに双眸を細めたイチカが、戻ってきた道とは逆の方向を見ていた。
「あ、じいさま……と、誰?」
イチカが見ていた方向からは、役所から帰ってきたらしい祖父の姿があった。その後ろには、随分と背の高い、あれは魔導師だろうか、外套の帽子で顔まで隠した男がついて来ていた。その横にはゼレクスンもいる。
「おう、アサリにイチ坊、ちょうどよかった」
「じいさま、そのひと……」
「ん? おまえたち、いつのまに仲良くなった?」
「え? わぁあ!」
イチカと手を繋いだままだったことを思い出し、それを祖父に指摘されて気恥しくなって、アサリは慌ててイチカと繋いでいた手を離そうとした。けれども、それをなぜか、イチカが許してくれなかった。
「い、イチカ、手、手っ」
恥ずかしいから手を離して、とアサリは真っ赤になって懇願するのだが、イチカはそれを聞かず、むしろ握る力を強めてきた。そればかりか、僅かに震えている。
手の震えに気づいたアサリは、イチカの双眸が僅かに揺れていることにも気づくと、あっさりと羞恥を投げ捨てた。
イチカが怯えている、ように見えたのだ。
そうこうしているうちに祖父たちは目の前までくる。
「おまえたちがいつのまに仲良くなったのかは置いといて、ほれ、魔導師さまが来てくださった。昨日の今日だというのにな」
にこやかに祖父が、背後にいる長身の男が魔導師だと、教えてくれる。
イチカが、一歩、後退した。
「なぜ、あなたが……」
イチカは、長身の魔導師に怯えていた。明らかな怯えだと、声までも震わせてアサリに感じさせる。
「イチ坊、どうした?」
暢気な祖父は、イチカのそれに気づかない。ゼレクスンも不思議そうにしている。
「漸く見つけた……イチカ」
長身の魔導師が、被っていた外套の帽子を脱ぎ、背中に流す。現われたのは真っ白な髪と、深い森色の双眸、そして凍りつきそうなほど冷たくも綺麗な、しかし近寄りがたい空気を纏った顔の、若そうな青年だった。
「カヤ……さ、ま」
長身の魔導師の素顔を見るなり瞠目したイチカは、じりじりと、後退する。
「イチカ……どうしたの」
尋常ではないイチカの様子に、アサリは引き摺られるのではなく一緒に後ろへ下がった。
そうして。
イチカはいきなり駆け出した。さすがにこれにはアサリも引っ張られる。
「イチカ!」
長身の魔導師がイチカを呼ぶ。けれどもイチカは振り向かない。闇雲に、アサリを引っ張るように手を繋いだまま、走り続ける。
「イチカ、イチカ、待って」
アサリが声をかけても、逃げることしか頭にないらしいイチカは止まらない。
しばらく走り続けて、気づくと村の外れも外れ、隣街へ行くための街道の入り口近くまで来ていた。そこでイチカが、立ち止まったというよりも体力が尽きて、倒れるように足を崩した。
「イチカっ」
地面と仲良くなる前に、アサリはイチカと繋いだままだった手を引っ張り、あっさりと抵抗なくこちらに倒れてきたイチカを受け止め、こちらも疲れて崩れた膝にイチカを抱いた。
互いに、息が上がっていた。
「病み上がり、なのに、こんなに、走って……っ」
かくいうアサリも、こんなに走ったのは久しぶりだ。呼吸が整うまでには、しばらくかかりそうである。
どうにかこうにか逸る心臓を落ち着かせるも、イチカのほうはそれが上手くできないようで、アサリが呼吸を整え終えてもぐったりとしていた。
「イチカ、だいじょうぶ?」
と訊いても、返事はない。頭をアサリの膝に預けたまま、肩で息をし、そっぽを向き、苦しそうに顔を歪めている。
アサリはイチカの頭を撫でてやった。
おそらく、イチカは動揺している。長身の魔導師が、イチカを動揺させ、そして怯えさせた。イチカは混乱している。だからイチカを落ち着かせるように、ゆっくりと、優しく、頭を撫でた。持ち歩いている手巾で額の汗を拭ってやると、少しして眉間に寄っていた皺が取れる。
辛抱強くイチカの回復を待ち、漸くその息が整うと、アサリはほっと肩から力を抜いた。
「……つかれました」
「当たり前よ」
あんなに走って疲れないほうがおかしい、と言えば、イチカはころりと身体を横に転がしてアサリの膝に顔を埋めてきた。ちょっとどころかかなり恥ずかしかったが、甘えてくるようなその仕草が可愛くもあって、アサリはイチカの好きにさせてしまう。
「ねえ……あの魔導師さんは、イチカのなに?」
怯えていたのはなぜか、それを知りたくて訊ねたら、イチカがもぞりと動く。少し擽ったい。
「師です」
くぐもった声が返ってきた。
というか。
「師匠っ?」
イチカにどこか間違った教育をしてくれた人か、とアサリは目を見開く。いや、教育は間違っていないだろう。イチカの性格だ。
それにしても、あの長身の魔導師がイチカの師だとして、つまり名無しだったイチカを引き取り魔導師に育てた人だ。親も同然なその人に、なぜイチカは、怯えたのだろう。
「あの人が、イチカに名前をつけてくれた人?」
「……はい」
「どうして、逃げたの?」
問いに、イチカは答えない。代わりに繋いだままの手のひらに、力が込められた。
「イチカ……?」
「僕はあのお方の重荷にしかなりません」
「重荷って……」
「だから、逃げたのです。すべてから……」
繋いだままの手のひらから、縋るような想いにも似たものが、伝わってくる。まるで助けて欲しいと言っているようだ。
「帰るんじゃなくて、行くって言ったのは……お師さまから、その人に関わりのあるものから、逃げるため?」
「……そうです」
「あのとき、わたしがイチカを見つけたとき、嵐の中を歩いたっていうのは、逃げてきた途中だったからなの?」
「……とにかくどこかへ、行きたかったのです。どこか、遠くへ」
ああだからか、とアサリは思った。あのとき、イチカがまるで自分を見失っているように感じたのは、本当に自分を見失っていたからだったのだ。師だという、あの長身の魔導師から、少しでも離れるために。
けれども、あっさりと、イチカは見つかった。
だからイチカは、怯えたのだ。そして逃げた。
「なにから離れたかったの?」
「……あのお方が、僕を重荷に思う、そのことから」
「どうしてイチカが重荷なの?」
もし、名無しだったイチカを引き取り魔導師に育てたことを悔やんでの、なにかをイチカが聞いたとして、それでイチカがそれらを重荷に感じたのなら、おかしいことだ。今さらイチカにそれを押しつけるのは、発生した責任を放棄することと同義で、間違いだ。イチカは悪くない。
「この身に受けた呪いが、僕には分不相応なものだったから……あのお方は、悔やむのです」
「呪い? イチカの呪いは、あの人が?」
イチカの身にある呪い、それを施したのは、師たるあの魔導師だったらしい。
「やはり僕は、封じられなければ……っ」
「え?」
封じるとは、どういう意味だろう。
それを問おうとしたとき、隣街へ行くほうの街道から、のんびりとした声をかけられた。
「そんなところでなにしてるんですか」
必要物資の調達に出ていたらしい、シゼだった。