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第十六個体観測録

鑑定スキルはありません。腐った干し魚の匂いが強すぎただけです 【十五文化圏周縁抄 セイレーン珍味旅情】

作者: 黒瀬 量衡
掲載日:2026/08/01

「呪いの積荷だ!」


 朝の港で、誰かがそう叫んだ。


 やめてほしい。


 朝一番に言う言葉ではない。


 こちらはまだ、足指の膜に油も塗っていない。


 濡れ布も巻いていない。


 朝の水樽の順も見ていない。


 船倉の風抜き口も開けきっていない。


 その状態で、呪いの積荷。


 よくない。


 非常によくない。


「呪いではありません」


 私は鼻を押さえて言った。


「では何だ!」


 第1文化圏の商人が、顔を青くして叫んだ。


 私はもう一度、船倉の奥を嗅いだ。


 潮。


 濡れ縄。


 古い樽。


 魚油。


 乾いた塩。


 湿った藻布。


 焦げたランプ芯。


 吐いた者の息。


 そして、その全部を突き破ってくる、強烈な腐敗臭。


「腐った干し魚です」


「なぜ分かる!」


「匂いが強すぎます」


「鑑定か!」


「鼻です」


「スキルか!」


「鼻です」


「まさか、セイレーンの秘められた鑑定歌……」


「鼻です」


 私は三度言った。


「腐った干し魚の匂いが強すぎるだけです」


     *


 私はミオラ。


 第7文化圏セイレーンの港町、潮返り港の船倉番である。


 船倉番。


 とても地味な仕事である。


 歌い手ではない。


 潮見でもない。


 帆を上げる合図役でもない。


 夜の岩場で美しい声を響かせ、陸の男を海へ誘う役でもない。


 そういうものは、酒場の男たちが勝手に言う。


 酒場の男たちは、自分たちが水樽を腐らせたことも、帆の結びを間違えたことも、見張り中に寝たことも、だいたいセイレーンの歌のせいにする。


 便利である。


 とても便利である。


 だが、船は便利な噂では浮かばない。


 水樽が腐れば、船は戻れない。


 干し魚が腐れば、船倉が死ぬ。


 風抜き口が塞がれば、荷も人も息が悪くなる。


 濡らしてよい布と、濡らしてはならない紙を一緒に置けば、港へ着くころには誰かが泣く。


 だから、船倉番がいる。


 飲む水。


 煮る水。


 洗う水。


 捨てる水。


 乾いた荷。


 湿ってよい荷。


 湿ると終わる荷。


 匂いを出す荷。


 匂いを吸う荷。


 近づけてはならない荷。


 それを分ける。


 地味である。


 とても地味である。


 しかし、地味なものほど、崩れると大きく臭う。


     *


 事件は、潮返り港の三番桟橋で起きた。


 船の名は、青喉丸。


 セイレーン船団の小型商船である。


 朝の潮で戻り、昼前に荷を下ろし、夕方にはまた出る予定だった。


 荷は、干し魚。


 塩藻。


 魚油壺。


 貝殻灰。


 第1文化圏向けの潮布。


 ラミア薬師組へ送る乾燥海草。


 そして、王都商会が買い付けた白身干し魚三十箱。


 問題は、その三十箱だった。


 白身干し魚。


 薄く裂き、塩を擦り込み、風に当て、硬く乾かした魚である。


 保存がきく。


 軽い。


 旅の食にもなる。


 煮れば出汁も出る。


 第1文化圏の修道院や兵舎ではよく売れる。


 ただし、乾いていれば、である。


 乾いていない干し魚は、干し魚ではない。


 それは、腐る予定の魚である。


 そして、腐る予定の魚は、予定通り腐る。


 非常に律儀である。


 律儀で困る。


     *


 最初に倒れたのは、若い荷下ろし人だった。


 彼は船倉の下段へ降り、三つ目の箱を動かしたところで、顔をしかめた。


「うわ」


 そう言った。


 次に、もう一人が降りた。


「何だ、これ」


 そう言った。


 三人目が降りた。


「呪いだ!」


 そう叫んだ。


 なぜ、三人目はすぐ呪いにするのか。


 臭いものを嗅いだ時、まず呪いを疑う者は、船倉に向いていない。


 鼻を押さえる。


 息を止める。


 人を上へ出す。


 風を通す。


 原因を探す。


 それが順番である。


 呪いは、最後でよい。


「全員、上へ!」


 私は叫んだ。


 声は歌ではない。


 合図である。


 船倉では、長い説明は届かない。


 短く、低く、腹へ通す。


「口布! 風口! 水桶は近づけるな!」


 港の者たちが動いた。


 セイレーンは、歌で船を沈めるなどと外で言われる。


 だが、本当の港の歌は、沈まないためにある。


 上げろ。


 止めろ。


 戻せ。


 水を分けろ。


 濡れ布を寄せるな。


 火を近づけるな。


 こういう声である。


 美しくはない。


 だが、役に立つ。


     *


 そこへ、第1文化圏の商人が走ってきた。


 名はベルトン。


 白身干し魚三十箱の買い主である。


 丸い帽子。


 細い髭。


 乾いた手袋。


 高い香水。


 そして、船倉の匂いに弱い顔。


「何が起きた!」


「干し魚が腐っています」


「まだ開けてもいないのに、なぜ分かる!」


「開ける前に分かるくらい腐っています」


「そんな馬鹿な」


「馬鹿なのは積み方です」


「失礼だぞ!」


「失礼なのは腐った魚です」


 ベルトンは顔を赤くした。


 しかし、船倉から上がってきた荷下ろし人が桟橋で吐いたので、すぐ青くなった。


「毒か」


「腐敗です」


「魔物か」


「魚です」


「海の呪いか」


「湿りです」


「鑑定士を呼べ!」


「呼ぶ前に風を通してください」


「お前が鑑定したではないか!」


「鼻です」


 このやり取りは、かなり長く続いた。


 その間にも、臭いは強くなる。


 よくない。


 非常によくない。


     *


 私は船倉の入口で膝をつき、足指を開いた。


 セイレーンには足がある。


 魚の尾ではない。


 足があり、指の間に薄い膜がある。


 水の中では役に立つ。


 濡れた船板でも役に立つ。


 ただし、乾いた石畳を長く歩くとつっぱる。


 今は船倉だ。


 濡れた木。


 塩。


 ぬめり。


 揺れ。


 足の膜が、板の湿りを読む。


 下段の右奥が湿っている。


 昨日の雨ではない。


 潮水でもない。


 魚油でもない。


 真水に近い。


 つまり、水樽か洗い桶だ。


「水が漏れています」


「水?」


 船長が顔をしかめた。


「水樽は上段左だ」


「上段左なら、下段右奥へ流れます」


「船は傾いていなかった」


「昨日の夜、北風でした。港へ入る前に右へ寝ました」


 船長は黙った。


 覚えがある顔だった。


 あるなら言ってほしい。


 非常に言ってほしい。


「右へ寝た時、水が少し流れました。下段右奥の干し魚箱に入っています」


「水樽は締めたはずだ」


「水樽ではないかもしれません」


 私は鼻をもう一度使った。


 腐った干し魚。


 濡れた藻布。


 甘い香辛料。


 そして、かすかに薬草。


「薬草洗いの桶は?」


 船員の一人が目を逸らした。


 見つけた。


「どこへ置いた」


「一時的に」


「どこへ」


「干し魚箱の上に」


「なぜ」


「そこが空いていたので」


 よくない。


 非常によくない。


 空いている場所は、置いてよい場所ではない。


 空いているだけである。


「薬草洗い桶の水が漏れ、干し魚箱の端へ入り、上から藻布をかけたせいで風が抜けず、下段右奥が温まりました」


「温まった?」


「魚は腐る時、自分で熱を持ちます」


 ベルトンが口を押さえた。


「言い方を考えろ」


「現象です」


「気持ち悪い」


「現象です」


     *


 船倉を開けるには、順番がある。


 いきなり箱を引き出してはならない。


 腐った汁が広がる。


 隣の箱が濡れる。


 乾いた荷に匂いが移る。


 水樽へ近づけば、水まで疑われる。


 だから、まず人を出す。


 次に風を入れる。


 その次に、匂いを吸った布を外す。


 その布を、飲み水の樽のそばへ置かない。


 汚れた手で、封札に触らない。


 腐った箱と、まだ助かる箱を分ける。


 分からない箱は、分からない箱として別に置く。


 これは大事である。


 分からないものを、助かる方へ混ぜてはならない。


 分からないものを、腐った方へ決めつけてもならない。


 分からないものは、分からないものとして置く。


 港では、それが命を分ける。


「下段右奥、三箱を隔離」


 私は言った。


「隣接二箱は仮隔離」


「仮?」


 ベルトンが聞いた。


「匂い移りがあります。中身は確認してからです」


「全部売れないのか!」


「全部売りたいなら、全部腐らせないでください」


「お前、遠慮がないな!」


「臭いに遠慮はありません」


 船長が吹き出した。


 ベルトンは怒った。


 だが、鼻を押さえたままなので迫力が半分だった。


     *


 腐った三箱を出した。


 中を見るまでもなかった。


 木箱の隙間から、ぬるい汁が出ていた。


 干し魚は、干されることをやめていた。


 魚へ戻ったのでもない。


 食べ物から別の何かへ進んでいた。


「これは……」


 ベルトンが言葉を失った。


「売れません」


 私は言った。


「分かっている!」


「港外の腐り穴へ運びます」


「待て。証明が要る。これは船側の責任か、荷主の責任か、港側の責任か」


 出た。


 責任。


 腐ったものは臭う。


 責任も臭う。


 臭い方へ誰も近づきたがらない。


 だから、紙が必要になる。


「記録します」


 私は言った。


「お前が?」


「船倉番です」


「鑑定書か?」


「船倉記録です」


「鑑定書にしろ」


「しません」


「なぜだ」


「鑑定していないので」


「しているだろう!」


「嗅いだだけです」


 ベルトンは頭を抱えた。


 船長は笑っている。


 笑い事ではない。


 腐った干し魚三箱分である。


 笑うなら、後で笑ってほしい。


     *


 記録はこうなった。


 一、白身干し魚三十箱中、下段右奥三箱に腐敗。


 二、隣接二箱に匂い移り疑い。仮隔離。


 三、原因候補。


 薬草洗い桶の一時置き。


 桶底からの漏れ。


 右傾時の流入。


 藻布による風抜き阻害。


 下段右奥の熱こもり。


 四、飲み水樽への接触なし。


 五、腐敗箱は港外腐り穴へ。


 六、仮隔離箱は開封確認後、煮出し用または廃棄判断。


 七、以後、干し魚上への濡れ桶仮置き禁止。


 八、空いている場所は置いてよい場所ではない。


 最後の一行は、私が足した。


 大事だからである。


 ベルトンは読んで、眉をひそめた。


「八は必要か?」


「必要です」


「子どもへの注意ではないか」


「大人がやったので」


 船員の一人が目を逸らした。


 必要である。


     *


 その頃には、港に人だかりができていた。


 良くない。


 人が集まると、話が変わる。


 腐った干し魚三箱が、呪いの積荷になる。


 呪いの積荷が、海魔の印になる。


 海魔の印が、セイレーンの秘密の歌になる。


 秘密の歌が、鑑定スキルになる。


 鑑定スキルが、美しい船倉番の隠された力になる。


 最後だけ少し良いように聞こえるが、困る。


 私は美しい船倉番ではない。


 朝の足油を塗り忘れ、袖に魚油がつき、髪に塩が固まっている船倉番である。


「見ろ、あの娘が呪いを見抜いたらしい」


「違います」


「箱を開ける前に中身を言い当てたそうだ」


「腐っていただけです」


「鑑定スキル持ちか」


「鼻です」


「セイレーンの歌は、荷の中身まで分かるのか」


「歌っていません」


「じゃあ、鼻歌か」


「鼻歌でもありません」


 人は、事実より面白い方へ流れる。


 港の水より速い。


 非常に困る。


     *


 そこへ、白い布をまとった歌い手のエリシアが来た。


 エリシアは港で有名である。


 外の商人からは、聖女のように見られる。


 実際には、朝の合図歌を誰より正確に出す実務者である。


 白い布は美しいが、彼女はその布を洗う順番にも厳しい。


「ミオラ」


「はい」


「また、面白いことになっているわね」


「なっていません。腐っただけです」


「腐っただけで、こんなに人は集まらないわ」


「呪いと言った人がいるので」


「誰?」


 荷下ろし人の三人目が、そっと後ろへ下がった。


 エリシアは微笑んだ。


「あとで水樽洗い」


 彼は絶望した顔をした。


 当然である。


 呪いと言う前に、樽を洗うべきだった。


「それで」


 エリシアは腐敗箱を見た。


 顔色ひとつ変えない。


 強い。


「原因は?」


「濡れ桶、右傾、藻布、風抜き不足です」


「呪いは?」


「ありません」


「鑑定は?」


「ありません」


「歌は?」


「使っていません」


「鼻?」


「鼻です」


 エリシアは頷いた。


「では、そう歌っておきましょう」


「歌わないでください」


「港中に説明するには、歌が早いの」


「やめてください」


「大丈夫。美しくはしないわ」


「そこではありません」


 エリシアは、すでに喉を整えていた。


 よくない。


 非常によくない。


     *


 港に短い歌が流れた。


 濡れ桶を干し魚へ置くな。


 空き場は置き場ではない。


 右へ寝た船の下段を見ろ。


 藻布で風を塞ぐな。


 腐った魚を呪いにするな。


 鼻で分かるほど腐らせるな。


 最後の一行で、港の者たちが笑った。


 私は頭を抱えた。


 終わった。


 完全に終わった。


 明日から私は、鼻で分かるほど腐らせるな、の人になる。


 それは嫌だ。


 非常に嫌だ。


 だが、効果はあった。


 人だかりは少しずつ散った。


 港の者たちは、それぞれの船倉を見に戻った。


 水樽の下を確かめる者。


 干し魚の上に置いた布を外す者。


 風抜き口を開ける者。


 濡れた桶を叱る者。


 若い船員に「空き場は置き場ではない」と言わせる者。


 歌は困る。


 だが、届く。


 それがセイレーンの港である。


     *


 午後には、仮隔離の二箱が開けられた。


 一箱は助かった。


 匂いはついているが、中は乾いている。


 煮出し用に回せる。


 もう一箱は半分だめだった。


 上段は使える。


 下段は捨てる。


 ベルトンは、ものすごく苦い顔で計算していた。


「損だ」


「はい」


「大損だ」


「はい」


「だが、三十箱全部を失うよりはましか」


「はい」


「飲み水に移っていないだけ、ましか」


「はい」


「仮隔離しなければ、全部疑われたか」


「はい」


「……お前、やはり鑑定スキル持ちでは?」


「鼻です」


「頑固だな」


「事実です」


 ベルトンはため息をついた。


 それから、懐から銀貨を出した。


「礼だ」


「船倉記録料なら、港の規定で」


「規定分とは別だ」


「受け取れません」


「なぜ」


「鑑定料にされるので」


 ベルトンは目をそらした。


 危ない。


 やはり鑑定料にする気だった。


「では、何なら受け取る」


「次回から、干し魚箱の上に濡れ桶を置かない誓約書を」


「金ではなく?」


「誓約書を」


「変な娘だな」


「腐った魚よりましです」


 ベルトンはしばらくこちらを見ていた。


 それから笑った。


「分かった。書こう」


 よし。


 勝った。


 銀貨より、次の腐敗を止める紙の方が価値がある。


 少なくとも、船倉番にとっては。


     *


 夕方、腐った三箱は港外の腐り穴へ運ばれた。


 腐り穴。


 名前の通り、腐ったものを入れる穴である。


 港の風下。


 飲み水から遠い。


 子どもが近づかない場所。


 獣が掘り返しにくい深さ。


 上から貝殻灰をかける。


 その上に土をかける。


 腐ったものは、消えない。


 移す。


 隔てる。


 埋める。


 記録する。


 それだけだ。


 この順番を間違えると、腐ったものは戻ってくる。


 匂いとして。


 病として。


 噂として。


 損として。


 責任として。


 とても律儀に戻ってくる。


     *


 その三日後。


 塩蔵職人の老人が、私の作業台へ来た。


 名はモーグ爺。


 潮返り港で一番古い塩蔵小屋を持っている。


 顔は干し魚のようにしわだらけで、手は塩で白い。


 そして、たいてい余計なことを思いつく。


「ミオラ」


「はい」


「腐った三箱の記録を読んだ」


「読まないでください」


「面白い」


「面白くありません。臭かったです」


「臭いなら、売れるかもしれん」


 私は筆を止めた。


「何を言っていますか」


「腐敗はだめだ」


「当然です」


「だが、塩と潮と古い漬け汁で、匂いを育てるなら別だ」


「育てないでください」


「強い匂いは、強い名物になる」


「港を滅ぼす気ですか」


 モーグ爺は笑った。


「腐らせるのではない。管理する」


「同じに聞こえます」


「違う。腐敗は勝手に進む。管理発酵は、場所と水と塩と日数を決める」


「急にまともなことを言わないでください」


「わしは最初からまともだ」


「臭いなら売れると言いました」


「商売ではまともだ」


 言い返しにくい。


 非常に言い返しにくい。


「専用小屋を作る」


 モーグ爺は言った。


「風下に。水樽から遠く。薬草から遠く。普通の干し魚から遠く。白い布から遠く。歌い手からも少し遠く」


「最後は個人的な理由では」


「白い布に匂いが移ると怒られる」


「正しいです」


「桶も分ける。布も分ける。札も分ける。帳も分ける。混ぜない」


 私は少し黙った。


 風下。


 水樽から遠い。


 普通の干し魚とは別。


 薬草とも別。


 桶も別。


 布も別。


 札も別。


 帳も別。


 管理としては、正しい。


 それが腹立たしい。


「名は、臭潮干し」


 モーグ爺が言った。


「売れません」


「なぜ」


「臭いと書いてあります」


「正直でよい」


「正直すぎます」


「では、頭を取る」


「頭?」


「臭潮干し。くさしおぼし。ク、シ、ボ」


 モーグ爺は木札に大きく書いた。


 クシボ。


「これなら売れる」


「何も隠れていませんか」


「匂いは隠れん」


「なら名前だけ隠しても無駄では」


「名物とは、そういうものだ」


 私は頭を抱えた。


 名物。


 クシボ。


 潮返り港名物、クシボ。


 言いやすい。


 腹立たしいほど言いやすい。


     *


 翌朝、港の風下に新しい札が立った。


 潮返り港名物。


 クシボ試作小屋。


 正式名、臭潮干し。


 普通の干し魚、水樽、薬草、白い布、近づけるな。


 私は札を見た。


 名前は短い。


 場所も風下。


 水樽から遠い。


 普通の干し魚とも分けてある。


 管理としては、正しい。


 だから余計に腹が立った。


「誰が許可しましたか」


「港長」


 モーグ爺が言った。


「誰が説明しましたか」


「エリシア」


「歌いましたね?」


「歌った」


 終わった。


 完全に終わった。


 案の定、昼には港中の子どもが歌っていた。


 腐らせるな。


 育てろ。


 水樽遠く。


 風下へ。


 臭潮干しの頭を取って。


 ク、シ、ボ。


 私は作業台に額をつけた。


「エリシアさん!」


 白い布の歌い手は、少し離れた桟橋で笑っていた。


「売れるわよ」


「売らないでください」


「もう三人、試食希望が来ているわ」


「なぜですか」


「人は、臭いと言われると嗅ぎたくなるの」


「愚かです」


「人間も、セイレーンも、だいたいそうよ」


 否定できない。


 私も少しだけ、どんな匂いになるのか気になっている。


 少しだけである。


 非常に少しだけである。


     *


 最初の試作日は、港中が遠巻きに見ていた。


 モーグ爺は上機嫌だった。


 私は不機嫌だった。


 ベルトンは商人の顔で来ていた。


 なぜいるのか。


「投資だ」


「帰ってください」


「売れる匂いがする」


「臭いだけです」


「だから売れる」


 商人は恐ろしい。


 非常に恐ろしい。


 試作小屋では、白身魚を塩で締め、専用桶へ漬けた。


 桶の汁は、潮と塩と魚の旨みを継ぐものらしい。


 モーグ爺はそれを、古い潮汁と呼んだ。


 私は、臭い汁ではだめなのかと思った。


 言わなかった。


 言うと採用されそうだったからである。


「ここから先は、管理だ」


 モーグ爺が言った。


「日数」


「記録します」


「塩の量」


「記録します」


「桶の場所」


「記録します」


「風」


「記録します」


「匂い」


「それも記録するのですか」


「お前の鼻が要る」


「嫌です」


「鑑定ではない」


「当然です」


「鼻だ」


「それも嫌です」


 だが、分かっていた。


 管理するなら、匂いの記録が要る。


 腐敗と、管理された発酵を分けるには、誰かが見なければならない。


 色。


 水。


 泡。


 熱。


 塩。


 風。


 虫。


 そして匂い。


 結局、私の鼻である。


 非常によくない。


     *


 私は帳を作った。


 クシボ試作帳。


 正式名、臭潮干し。


 腐敗干し魚とは別。


 通常干し魚とも別。


 水樽から遠ざける。


 薬草から遠ざける。


 白布から遠ざける。


 普通の干し魚と同じ荷車に積まない。


 同じ布で包まない。


 同じ桶を使わない。


 試食前に焼く。


 生では出さない。


 異臭と名物臭を混同しない。


 最後の一行は、私が足した。


 大事だからである。


 モーグ爺はそれを見て、頷いた。


「よい帳だ」


「褒めないでください」


「なぜ」


「責任が増えるので」


「もう増えている」


「言わないでください」


 ベルトンが横から覗き込んだ。


「王都向けには、潮返り港名物クシボで売れるな」


「まだ試作です」


「呪いの干し魚から生まれた名物、と」


「絶対にやめてください」


「鑑定娘監修」


「もっとやめてください」


「鼻の聖女推奨」


「港外へ投げますよ」


 ベルトンは笑った。


 この商人は、一度腐った干し魚で損をしたくせに、まったく懲りていない。


 商人とは、損を臭いで覚えるのではなく、利益の匂いで上書きする生き物らしい。


     *


 数日後。


 最初のクシボが焼かれた。


 試作小屋の前に、港の者たちが集まった。


 ただし、全員、風上にいた。


 賢い。


 非常に賢い。


 モーグ爺が小さな火皿で、薄く切ったクシボを焼く。


 最初の匂いは、ひどかった。


 とてもひどかった。


 港の猫が逃げた。


 若い船員が後ろへ下がった。


 白い布のエリシアが、白い布をさらに遠ざけた。


 ベルトンでさえ、一歩下がった。


 私は鼻を押さえた。


「失敗です」


「まだ早い」


 モーグ爺は落ち着いていた。


 焼けてくると、匂いが変わった。


 強い。


 とても強い。


 だが、腐敗のぬるい臭いではない。


 塩。


 魚。


 潮。


 焼けた脂。


 苦み。


 奥に、妙な甘み。


 腹が、少しだけ反応した。


 認めたくない。


 非常に認めたくない。


「……食べ物の匂いです」


 私は言った。


 港中がざわついた。


「ミオラが言ったぞ」


「食べ物だと」


「鼻が認めた」


「鑑定だ」


「鼻です!」


 モーグ爺が笑った。


 焼いたクシボを、小さく裂いて、熱い粥の上にのせた。


「食え」


「私が?」


「鼻で見た者が最初だ」


「嫌です」


「記録に要る」


 それを言われると弱い。


 非常に弱い。


 私は箸を取った。


 粥と一緒に、ほんの少し口へ入れる。


 臭い。


 強い。


 塩辛い。


 だが、粥が進む。


 もう一口欲しくなる。


 腹立たしい。


 非常に腹立たしい。


「どうだ」


 モーグ爺が聞いた。


 私は長く黙った。


 そして、帳へ書いた。


 試作一号。


 強臭。


 焼き後、腐敗臭ではなく潮脂臭へ変化。


 粥と合う。


 少量でよい。


 風下で焼くこと。


 私は筆を置いた。


「少量でよいです」


 モーグ爺が笑った。


「売れるな」


 ベルトンも笑った。


「売れる」


 エリシアはもう喉を整えていた。


「歌わないでください」


「短くするわ」


「歌わないでください」


 遅かった。


 その夕方、港には新しい歌が流れた。


 呪いじゃない。


 鑑定じゃない。


 腐らせるな。


 育てろ。


 潮返り港の臭潮干し。


 頭を取って、クシボ。


 私は作業台に額をつけた。


 また終わった。


 完全に終わった。


     *


 翌朝。


 私の作業台には、新しい木札が置かれていた。


 船倉番ミオラ。


 その下に、小さく誰かが書き足していた。


 クシボ鼻改め役。


 私は消そうとした。


 だが、横に置かれたクシボ試作帳には、すでに三件の注文控えが挟まっていた。


 一件目、港の粥屋。


 二件目、ベルトン商会。


 三件目、なぜか白い布の歌い手エリシア。


 自分の布へ匂いが移ると怒るくせに。


 私はため息をついた。


 管理しなければ、腐る。


 管理すれば、名物になる。


 その差は、場所と塩と風と桶と日数と帳と、たぶん鼻である。


 鑑定スキルはありません。


 腐った干し魚の匂いが強すぎただけです。


 呪いも見えません。


 海の怒りも読めません。


 隠された才能も、秘められた歌も、たぶんありません。


 ただ、船倉で腐る匂いを、何度も嗅いだだけです。


 そして、できればもう二度と嗅ぎたくなかったのに。


 潮返り港には、新しい名物ができてしまった。


 正式名、臭潮干し。


 通称、クシボ。


 風下で焼くこと。


 水樽へ近づけないこと。


 白い布へ近づけないこと。


 そして、腐敗と名物を、絶対に同じ帳へ書かないこと。


 それが今日から、私の仕事に増えた。


 よくない。


 非常によくない。


 けれど、粥には少し合う。

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