鑑定スキルはありません。腐った干し魚の匂いが強すぎただけです 【十五文化圏周縁抄 セイレーン珍味旅情】
「呪いの積荷だ!」
朝の港で、誰かがそう叫んだ。
やめてほしい。
朝一番に言う言葉ではない。
こちらはまだ、足指の膜に油も塗っていない。
濡れ布も巻いていない。
朝の水樽の順も見ていない。
船倉の風抜き口も開けきっていない。
その状態で、呪いの積荷。
よくない。
非常によくない。
「呪いではありません」
私は鼻を押さえて言った。
「では何だ!」
第1文化圏の商人が、顔を青くして叫んだ。
私はもう一度、船倉の奥を嗅いだ。
潮。
濡れ縄。
古い樽。
魚油。
乾いた塩。
湿った藻布。
焦げたランプ芯。
吐いた者の息。
そして、その全部を突き破ってくる、強烈な腐敗臭。
「腐った干し魚です」
「なぜ分かる!」
「匂いが強すぎます」
「鑑定か!」
「鼻です」
「スキルか!」
「鼻です」
「まさか、セイレーンの秘められた鑑定歌……」
「鼻です」
私は三度言った。
「腐った干し魚の匂いが強すぎるだけです」
*
私はミオラ。
第7文化圏セイレーンの港町、潮返り港の船倉番である。
船倉番。
とても地味な仕事である。
歌い手ではない。
潮見でもない。
帆を上げる合図役でもない。
夜の岩場で美しい声を響かせ、陸の男を海へ誘う役でもない。
そういうものは、酒場の男たちが勝手に言う。
酒場の男たちは、自分たちが水樽を腐らせたことも、帆の結びを間違えたことも、見張り中に寝たことも、だいたいセイレーンの歌のせいにする。
便利である。
とても便利である。
だが、船は便利な噂では浮かばない。
水樽が腐れば、船は戻れない。
干し魚が腐れば、船倉が死ぬ。
風抜き口が塞がれば、荷も人も息が悪くなる。
濡らしてよい布と、濡らしてはならない紙を一緒に置けば、港へ着くころには誰かが泣く。
だから、船倉番がいる。
飲む水。
煮る水。
洗う水。
捨てる水。
乾いた荷。
湿ってよい荷。
湿ると終わる荷。
匂いを出す荷。
匂いを吸う荷。
近づけてはならない荷。
それを分ける。
地味である。
とても地味である。
しかし、地味なものほど、崩れると大きく臭う。
*
事件は、潮返り港の三番桟橋で起きた。
船の名は、青喉丸。
セイレーン船団の小型商船である。
朝の潮で戻り、昼前に荷を下ろし、夕方にはまた出る予定だった。
荷は、干し魚。
塩藻。
魚油壺。
貝殻灰。
第1文化圏向けの潮布。
ラミア薬師組へ送る乾燥海草。
そして、王都商会が買い付けた白身干し魚三十箱。
問題は、その三十箱だった。
白身干し魚。
薄く裂き、塩を擦り込み、風に当て、硬く乾かした魚である。
保存がきく。
軽い。
旅の食にもなる。
煮れば出汁も出る。
第1文化圏の修道院や兵舎ではよく売れる。
ただし、乾いていれば、である。
乾いていない干し魚は、干し魚ではない。
それは、腐る予定の魚である。
そして、腐る予定の魚は、予定通り腐る。
非常に律儀である。
律儀で困る。
*
最初に倒れたのは、若い荷下ろし人だった。
彼は船倉の下段へ降り、三つ目の箱を動かしたところで、顔をしかめた。
「うわ」
そう言った。
次に、もう一人が降りた。
「何だ、これ」
そう言った。
三人目が降りた。
「呪いだ!」
そう叫んだ。
なぜ、三人目はすぐ呪いにするのか。
臭いものを嗅いだ時、まず呪いを疑う者は、船倉に向いていない。
鼻を押さえる。
息を止める。
人を上へ出す。
風を通す。
原因を探す。
それが順番である。
呪いは、最後でよい。
「全員、上へ!」
私は叫んだ。
声は歌ではない。
合図である。
船倉では、長い説明は届かない。
短く、低く、腹へ通す。
「口布! 風口! 水桶は近づけるな!」
港の者たちが動いた。
セイレーンは、歌で船を沈めるなどと外で言われる。
だが、本当の港の歌は、沈まないためにある。
上げろ。
止めろ。
戻せ。
水を分けろ。
濡れ布を寄せるな。
火を近づけるな。
こういう声である。
美しくはない。
だが、役に立つ。
*
そこへ、第1文化圏の商人が走ってきた。
名はベルトン。
白身干し魚三十箱の買い主である。
丸い帽子。
細い髭。
乾いた手袋。
高い香水。
そして、船倉の匂いに弱い顔。
「何が起きた!」
「干し魚が腐っています」
「まだ開けてもいないのに、なぜ分かる!」
「開ける前に分かるくらい腐っています」
「そんな馬鹿な」
「馬鹿なのは積み方です」
「失礼だぞ!」
「失礼なのは腐った魚です」
ベルトンは顔を赤くした。
しかし、船倉から上がってきた荷下ろし人が桟橋で吐いたので、すぐ青くなった。
「毒か」
「腐敗です」
「魔物か」
「魚です」
「海の呪いか」
「湿りです」
「鑑定士を呼べ!」
「呼ぶ前に風を通してください」
「お前が鑑定したではないか!」
「鼻です」
このやり取りは、かなり長く続いた。
その間にも、臭いは強くなる。
よくない。
非常によくない。
*
私は船倉の入口で膝をつき、足指を開いた。
セイレーンには足がある。
魚の尾ではない。
足があり、指の間に薄い膜がある。
水の中では役に立つ。
濡れた船板でも役に立つ。
ただし、乾いた石畳を長く歩くとつっぱる。
今は船倉だ。
濡れた木。
塩。
ぬめり。
揺れ。
足の膜が、板の湿りを読む。
下段の右奥が湿っている。
昨日の雨ではない。
潮水でもない。
魚油でもない。
真水に近い。
つまり、水樽か洗い桶だ。
「水が漏れています」
「水?」
船長が顔をしかめた。
「水樽は上段左だ」
「上段左なら、下段右奥へ流れます」
「船は傾いていなかった」
「昨日の夜、北風でした。港へ入る前に右へ寝ました」
船長は黙った。
覚えがある顔だった。
あるなら言ってほしい。
非常に言ってほしい。
「右へ寝た時、水が少し流れました。下段右奥の干し魚箱に入っています」
「水樽は締めたはずだ」
「水樽ではないかもしれません」
私は鼻をもう一度使った。
腐った干し魚。
濡れた藻布。
甘い香辛料。
そして、かすかに薬草。
「薬草洗いの桶は?」
船員の一人が目を逸らした。
見つけた。
「どこへ置いた」
「一時的に」
「どこへ」
「干し魚箱の上に」
「なぜ」
「そこが空いていたので」
よくない。
非常によくない。
空いている場所は、置いてよい場所ではない。
空いているだけである。
「薬草洗い桶の水が漏れ、干し魚箱の端へ入り、上から藻布をかけたせいで風が抜けず、下段右奥が温まりました」
「温まった?」
「魚は腐る時、自分で熱を持ちます」
ベルトンが口を押さえた。
「言い方を考えろ」
「現象です」
「気持ち悪い」
「現象です」
*
船倉を開けるには、順番がある。
いきなり箱を引き出してはならない。
腐った汁が広がる。
隣の箱が濡れる。
乾いた荷に匂いが移る。
水樽へ近づけば、水まで疑われる。
だから、まず人を出す。
次に風を入れる。
その次に、匂いを吸った布を外す。
その布を、飲み水の樽のそばへ置かない。
汚れた手で、封札に触らない。
腐った箱と、まだ助かる箱を分ける。
分からない箱は、分からない箱として別に置く。
これは大事である。
分からないものを、助かる方へ混ぜてはならない。
分からないものを、腐った方へ決めつけてもならない。
分からないものは、分からないものとして置く。
港では、それが命を分ける。
「下段右奥、三箱を隔離」
私は言った。
「隣接二箱は仮隔離」
「仮?」
ベルトンが聞いた。
「匂い移りがあります。中身は確認してからです」
「全部売れないのか!」
「全部売りたいなら、全部腐らせないでください」
「お前、遠慮がないな!」
「臭いに遠慮はありません」
船長が吹き出した。
ベルトンは怒った。
だが、鼻を押さえたままなので迫力が半分だった。
*
腐った三箱を出した。
中を見るまでもなかった。
木箱の隙間から、ぬるい汁が出ていた。
干し魚は、干されることをやめていた。
魚へ戻ったのでもない。
食べ物から別の何かへ進んでいた。
「これは……」
ベルトンが言葉を失った。
「売れません」
私は言った。
「分かっている!」
「港外の腐り穴へ運びます」
「待て。証明が要る。これは船側の責任か、荷主の責任か、港側の責任か」
出た。
責任。
腐ったものは臭う。
責任も臭う。
臭い方へ誰も近づきたがらない。
だから、紙が必要になる。
「記録します」
私は言った。
「お前が?」
「船倉番です」
「鑑定書か?」
「船倉記録です」
「鑑定書にしろ」
「しません」
「なぜだ」
「鑑定していないので」
「しているだろう!」
「嗅いだだけです」
ベルトンは頭を抱えた。
船長は笑っている。
笑い事ではない。
腐った干し魚三箱分である。
笑うなら、後で笑ってほしい。
*
記録はこうなった。
一、白身干し魚三十箱中、下段右奥三箱に腐敗。
二、隣接二箱に匂い移り疑い。仮隔離。
三、原因候補。
薬草洗い桶の一時置き。
桶底からの漏れ。
右傾時の流入。
藻布による風抜き阻害。
下段右奥の熱こもり。
四、飲み水樽への接触なし。
五、腐敗箱は港外腐り穴へ。
六、仮隔離箱は開封確認後、煮出し用または廃棄判断。
七、以後、干し魚上への濡れ桶仮置き禁止。
八、空いている場所は置いてよい場所ではない。
最後の一行は、私が足した。
大事だからである。
ベルトンは読んで、眉をひそめた。
「八は必要か?」
「必要です」
「子どもへの注意ではないか」
「大人がやったので」
船員の一人が目を逸らした。
必要である。
*
その頃には、港に人だかりができていた。
良くない。
人が集まると、話が変わる。
腐った干し魚三箱が、呪いの積荷になる。
呪いの積荷が、海魔の印になる。
海魔の印が、セイレーンの秘密の歌になる。
秘密の歌が、鑑定スキルになる。
鑑定スキルが、美しい船倉番の隠された力になる。
最後だけ少し良いように聞こえるが、困る。
私は美しい船倉番ではない。
朝の足油を塗り忘れ、袖に魚油がつき、髪に塩が固まっている船倉番である。
「見ろ、あの娘が呪いを見抜いたらしい」
「違います」
「箱を開ける前に中身を言い当てたそうだ」
「腐っていただけです」
「鑑定スキル持ちか」
「鼻です」
「セイレーンの歌は、荷の中身まで分かるのか」
「歌っていません」
「じゃあ、鼻歌か」
「鼻歌でもありません」
人は、事実より面白い方へ流れる。
港の水より速い。
非常に困る。
*
そこへ、白い布をまとった歌い手のエリシアが来た。
エリシアは港で有名である。
外の商人からは、聖女のように見られる。
実際には、朝の合図歌を誰より正確に出す実務者である。
白い布は美しいが、彼女はその布を洗う順番にも厳しい。
「ミオラ」
「はい」
「また、面白いことになっているわね」
「なっていません。腐っただけです」
「腐っただけで、こんなに人は集まらないわ」
「呪いと言った人がいるので」
「誰?」
荷下ろし人の三人目が、そっと後ろへ下がった。
エリシアは微笑んだ。
「あとで水樽洗い」
彼は絶望した顔をした。
当然である。
呪いと言う前に、樽を洗うべきだった。
「それで」
エリシアは腐敗箱を見た。
顔色ひとつ変えない。
強い。
「原因は?」
「濡れ桶、右傾、藻布、風抜き不足です」
「呪いは?」
「ありません」
「鑑定は?」
「ありません」
「歌は?」
「使っていません」
「鼻?」
「鼻です」
エリシアは頷いた。
「では、そう歌っておきましょう」
「歌わないでください」
「港中に説明するには、歌が早いの」
「やめてください」
「大丈夫。美しくはしないわ」
「そこではありません」
エリシアは、すでに喉を整えていた。
よくない。
非常によくない。
*
港に短い歌が流れた。
濡れ桶を干し魚へ置くな。
空き場は置き場ではない。
右へ寝た船の下段を見ろ。
藻布で風を塞ぐな。
腐った魚を呪いにするな。
鼻で分かるほど腐らせるな。
最後の一行で、港の者たちが笑った。
私は頭を抱えた。
終わった。
完全に終わった。
明日から私は、鼻で分かるほど腐らせるな、の人になる。
それは嫌だ。
非常に嫌だ。
だが、効果はあった。
人だかりは少しずつ散った。
港の者たちは、それぞれの船倉を見に戻った。
水樽の下を確かめる者。
干し魚の上に置いた布を外す者。
風抜き口を開ける者。
濡れた桶を叱る者。
若い船員に「空き場は置き場ではない」と言わせる者。
歌は困る。
だが、届く。
それがセイレーンの港である。
*
午後には、仮隔離の二箱が開けられた。
一箱は助かった。
匂いはついているが、中は乾いている。
煮出し用に回せる。
もう一箱は半分だめだった。
上段は使える。
下段は捨てる。
ベルトンは、ものすごく苦い顔で計算していた。
「損だ」
「はい」
「大損だ」
「はい」
「だが、三十箱全部を失うよりはましか」
「はい」
「飲み水に移っていないだけ、ましか」
「はい」
「仮隔離しなければ、全部疑われたか」
「はい」
「……お前、やはり鑑定スキル持ちでは?」
「鼻です」
「頑固だな」
「事実です」
ベルトンはため息をついた。
それから、懐から銀貨を出した。
「礼だ」
「船倉記録料なら、港の規定で」
「規定分とは別だ」
「受け取れません」
「なぜ」
「鑑定料にされるので」
ベルトンは目をそらした。
危ない。
やはり鑑定料にする気だった。
「では、何なら受け取る」
「次回から、干し魚箱の上に濡れ桶を置かない誓約書を」
「金ではなく?」
「誓約書を」
「変な娘だな」
「腐った魚よりましです」
ベルトンはしばらくこちらを見ていた。
それから笑った。
「分かった。書こう」
よし。
勝った。
銀貨より、次の腐敗を止める紙の方が価値がある。
少なくとも、船倉番にとっては。
*
夕方、腐った三箱は港外の腐り穴へ運ばれた。
腐り穴。
名前の通り、腐ったものを入れる穴である。
港の風下。
飲み水から遠い。
子どもが近づかない場所。
獣が掘り返しにくい深さ。
上から貝殻灰をかける。
その上に土をかける。
腐ったものは、消えない。
移す。
隔てる。
埋める。
記録する。
それだけだ。
この順番を間違えると、腐ったものは戻ってくる。
匂いとして。
病として。
噂として。
損として。
責任として。
とても律儀に戻ってくる。
*
その三日後。
塩蔵職人の老人が、私の作業台へ来た。
名はモーグ爺。
潮返り港で一番古い塩蔵小屋を持っている。
顔は干し魚のようにしわだらけで、手は塩で白い。
そして、たいてい余計なことを思いつく。
「ミオラ」
「はい」
「腐った三箱の記録を読んだ」
「読まないでください」
「面白い」
「面白くありません。臭かったです」
「臭いなら、売れるかもしれん」
私は筆を止めた。
「何を言っていますか」
「腐敗はだめだ」
「当然です」
「だが、塩と潮と古い漬け汁で、匂いを育てるなら別だ」
「育てないでください」
「強い匂いは、強い名物になる」
「港を滅ぼす気ですか」
モーグ爺は笑った。
「腐らせるのではない。管理する」
「同じに聞こえます」
「違う。腐敗は勝手に進む。管理発酵は、場所と水と塩と日数を決める」
「急にまともなことを言わないでください」
「わしは最初からまともだ」
「臭いなら売れると言いました」
「商売ではまともだ」
言い返しにくい。
非常に言い返しにくい。
「専用小屋を作る」
モーグ爺は言った。
「風下に。水樽から遠く。薬草から遠く。普通の干し魚から遠く。白い布から遠く。歌い手からも少し遠く」
「最後は個人的な理由では」
「白い布に匂いが移ると怒られる」
「正しいです」
「桶も分ける。布も分ける。札も分ける。帳も分ける。混ぜない」
私は少し黙った。
風下。
水樽から遠い。
普通の干し魚とは別。
薬草とも別。
桶も別。
布も別。
札も別。
帳も別。
管理としては、正しい。
それが腹立たしい。
「名は、臭潮干し」
モーグ爺が言った。
「売れません」
「なぜ」
「臭いと書いてあります」
「正直でよい」
「正直すぎます」
「では、頭を取る」
「頭?」
「臭潮干し。くさしおぼし。ク、シ、ボ」
モーグ爺は木札に大きく書いた。
クシボ。
「これなら売れる」
「何も隠れていませんか」
「匂いは隠れん」
「なら名前だけ隠しても無駄では」
「名物とは、そういうものだ」
私は頭を抱えた。
名物。
クシボ。
潮返り港名物、クシボ。
言いやすい。
腹立たしいほど言いやすい。
*
翌朝、港の風下に新しい札が立った。
潮返り港名物。
クシボ試作小屋。
正式名、臭潮干し。
普通の干し魚、水樽、薬草、白い布、近づけるな。
私は札を見た。
名前は短い。
場所も風下。
水樽から遠い。
普通の干し魚とも分けてある。
管理としては、正しい。
だから余計に腹が立った。
「誰が許可しましたか」
「港長」
モーグ爺が言った。
「誰が説明しましたか」
「エリシア」
「歌いましたね?」
「歌った」
終わった。
完全に終わった。
案の定、昼には港中の子どもが歌っていた。
腐らせるな。
育てろ。
水樽遠く。
風下へ。
臭潮干しの頭を取って。
ク、シ、ボ。
私は作業台に額をつけた。
「エリシアさん!」
白い布の歌い手は、少し離れた桟橋で笑っていた。
「売れるわよ」
「売らないでください」
「もう三人、試食希望が来ているわ」
「なぜですか」
「人は、臭いと言われると嗅ぎたくなるの」
「愚かです」
「人間も、セイレーンも、だいたいそうよ」
否定できない。
私も少しだけ、どんな匂いになるのか気になっている。
少しだけである。
非常に少しだけである。
*
最初の試作日は、港中が遠巻きに見ていた。
モーグ爺は上機嫌だった。
私は不機嫌だった。
ベルトンは商人の顔で来ていた。
なぜいるのか。
「投資だ」
「帰ってください」
「売れる匂いがする」
「臭いだけです」
「だから売れる」
商人は恐ろしい。
非常に恐ろしい。
試作小屋では、白身魚を塩で締め、専用桶へ漬けた。
桶の汁は、潮と塩と魚の旨みを継ぐものらしい。
モーグ爺はそれを、古い潮汁と呼んだ。
私は、臭い汁ではだめなのかと思った。
言わなかった。
言うと採用されそうだったからである。
「ここから先は、管理だ」
モーグ爺が言った。
「日数」
「記録します」
「塩の量」
「記録します」
「桶の場所」
「記録します」
「風」
「記録します」
「匂い」
「それも記録するのですか」
「お前の鼻が要る」
「嫌です」
「鑑定ではない」
「当然です」
「鼻だ」
「それも嫌です」
だが、分かっていた。
管理するなら、匂いの記録が要る。
腐敗と、管理された発酵を分けるには、誰かが見なければならない。
色。
水。
泡。
熱。
塩。
風。
虫。
そして匂い。
結局、私の鼻である。
非常によくない。
*
私は帳を作った。
クシボ試作帳。
正式名、臭潮干し。
腐敗干し魚とは別。
通常干し魚とも別。
水樽から遠ざける。
薬草から遠ざける。
白布から遠ざける。
普通の干し魚と同じ荷車に積まない。
同じ布で包まない。
同じ桶を使わない。
試食前に焼く。
生では出さない。
異臭と名物臭を混同しない。
最後の一行は、私が足した。
大事だからである。
モーグ爺はそれを見て、頷いた。
「よい帳だ」
「褒めないでください」
「なぜ」
「責任が増えるので」
「もう増えている」
「言わないでください」
ベルトンが横から覗き込んだ。
「王都向けには、潮返り港名物クシボで売れるな」
「まだ試作です」
「呪いの干し魚から生まれた名物、と」
「絶対にやめてください」
「鑑定娘監修」
「もっとやめてください」
「鼻の聖女推奨」
「港外へ投げますよ」
ベルトンは笑った。
この商人は、一度腐った干し魚で損をしたくせに、まったく懲りていない。
商人とは、損を臭いで覚えるのではなく、利益の匂いで上書きする生き物らしい。
*
数日後。
最初のクシボが焼かれた。
試作小屋の前に、港の者たちが集まった。
ただし、全員、風上にいた。
賢い。
非常に賢い。
モーグ爺が小さな火皿で、薄く切ったクシボを焼く。
最初の匂いは、ひどかった。
とてもひどかった。
港の猫が逃げた。
若い船員が後ろへ下がった。
白い布のエリシアが、白い布をさらに遠ざけた。
ベルトンでさえ、一歩下がった。
私は鼻を押さえた。
「失敗です」
「まだ早い」
モーグ爺は落ち着いていた。
焼けてくると、匂いが変わった。
強い。
とても強い。
だが、腐敗のぬるい臭いではない。
塩。
魚。
潮。
焼けた脂。
苦み。
奥に、妙な甘み。
腹が、少しだけ反応した。
認めたくない。
非常に認めたくない。
「……食べ物の匂いです」
私は言った。
港中がざわついた。
「ミオラが言ったぞ」
「食べ物だと」
「鼻が認めた」
「鑑定だ」
「鼻です!」
モーグ爺が笑った。
焼いたクシボを、小さく裂いて、熱い粥の上にのせた。
「食え」
「私が?」
「鼻で見た者が最初だ」
「嫌です」
「記録に要る」
それを言われると弱い。
非常に弱い。
私は箸を取った。
粥と一緒に、ほんの少し口へ入れる。
臭い。
強い。
塩辛い。
だが、粥が進む。
もう一口欲しくなる。
腹立たしい。
非常に腹立たしい。
「どうだ」
モーグ爺が聞いた。
私は長く黙った。
そして、帳へ書いた。
試作一号。
強臭。
焼き後、腐敗臭ではなく潮脂臭へ変化。
粥と合う。
少量でよい。
風下で焼くこと。
私は筆を置いた。
「少量でよいです」
モーグ爺が笑った。
「売れるな」
ベルトンも笑った。
「売れる」
エリシアはもう喉を整えていた。
「歌わないでください」
「短くするわ」
「歌わないでください」
遅かった。
その夕方、港には新しい歌が流れた。
呪いじゃない。
鑑定じゃない。
腐らせるな。
育てろ。
潮返り港の臭潮干し。
頭を取って、クシボ。
私は作業台に額をつけた。
また終わった。
完全に終わった。
*
翌朝。
私の作業台には、新しい木札が置かれていた。
船倉番ミオラ。
その下に、小さく誰かが書き足していた。
クシボ鼻改め役。
私は消そうとした。
だが、横に置かれたクシボ試作帳には、すでに三件の注文控えが挟まっていた。
一件目、港の粥屋。
二件目、ベルトン商会。
三件目、なぜか白い布の歌い手エリシア。
自分の布へ匂いが移ると怒るくせに。
私はため息をついた。
管理しなければ、腐る。
管理すれば、名物になる。
その差は、場所と塩と風と桶と日数と帳と、たぶん鼻である。
鑑定スキルはありません。
腐った干し魚の匂いが強すぎただけです。
呪いも見えません。
海の怒りも読めません。
隠された才能も、秘められた歌も、たぶんありません。
ただ、船倉で腐る匂いを、何度も嗅いだだけです。
そして、できればもう二度と嗅ぎたくなかったのに。
潮返り港には、新しい名物ができてしまった。
正式名、臭潮干し。
通称、クシボ。
風下で焼くこと。
水樽へ近づけないこと。
白い布へ近づけないこと。
そして、腐敗と名物を、絶対に同じ帳へ書かないこと。
それが今日から、私の仕事に増えた。
よくない。
非常によくない。
けれど、粥には少し合う。




