第0話 居場所
第0話 居場所
人並みの人生だった。
少なくとも、松本優人はそう思っていた。
学生の頃は特別目立ったわけじゃない。勉強も運動もそこそこ。友達は少ないわけじゃないけど多くもない。
大学へ進んで、就職して、一人暮らしを始めて。
二十五歳。
仕事は大変だけど続けられている。
親とも連絡を取っている。
仲のいい友達もいる。
別に不幸じゃない。
……なのに。
夜になると時々思う。
何かが足りない。
何が足りないのかも分からない。
不満があるわけじゃない。
でも、満たされてもいない。
そんな感覚だった。
その日も、いつも通り会社を出た。
⸻
自動ドアを抜けると、少し湿った夕方の空気が肌に触れた。
スマホを見る。
18時42分。
思ったより早く終わった。
周りでは同僚たちが誰かを誘ったり、駅へ急いだりしている。
「松本、お疲れ」
「あ、お疲れさまです」
「今日飲み来る?」
少し考えて、首を横に振った。
「今日はやめときます」
「そっか。また今度な」
軽く手を振って別れる。
嫌いじゃない。
こういう距離感。
気楽で、優しくて、悪くない。
駅まで歩く。
人が多い。
信号。
車。
会話。
イヤホン。
誰かの笑い声。
みんな、それぞれの場所へ帰っていく。
ふと、立ち止まる。
信号待ち。
向かい側。
小さい子供が父親に肩車されて笑っていた。
その隣では制服姿の高校生たちが将来の話をしている。
少し離れたところでは、疲れた顔のサラリーマンがスマホを見ながら歩いている。
何気ない景色だった。
いつも見ている景色。
なのに、今日は少しだけ目に入った。
青信号になる。
人が動き出す。
優人も歩く。
駅へ向かう。
その途中。
ふと、思った。
みんな帰る場所があるんだな。
その考えが浮かんで、自分で少し笑った。
いや、俺にもある。
家はある。
仕事もある。
帰る場所はある。
……じゃあ。
居場所って、なんだろう。
家に着いた。
一人暮らしを始めて三年になる。駅から徒歩十五分、築年数は古いが家賃の安さだけは優秀なワンルームだった。特別気に入って借りたわけじゃない。ただ会社まで通いやすくて、生活に困らない程度の広さがあって、なんとなくここに決めた。
玄関の電気をつける。
静かな部屋だった。
当然だ。一人暮らしなのだから、誰かが「おかえり」と言ってくれるわけでもないし、テレビが勝手についているわけでもない。
ネクタイを緩め、鞄を床に置く。
冷蔵庫を開けると、卵が三つ、飲みかけの牛乳、賞味期限が近い豆腐が入っていた。作れなくはない。でも、作ろうという気力はなかった。
「……コンビニでいいか」
財布だけ持って、また部屋を出る。
夜の空気は昼より少しだけ涼しく、アスファルトの熱がまだ残っていた。
歩いて数分のコンビニに入る。
弁当を見て、少し悩んで、結局いつもと似たようなものを選ぶ。特別食べたいものがあるわけじゃない。食事というより、空腹を終わらせる作業に近かった。
レジに並ぶ。
前には小学生くらいの男の子と、その母親がいた。
会計の途中、男の子が財布を落とした。
小銭が床に散らばる。
一瞬だけ店内の動きが止まって、それから誰も何もしないまま時間が流れそうになった。
優人は自然としゃがみ込んでいた。
転がった小銭を拾って、子供に渡す。
「ありがとう!」
男の子は嬉しそうに笑った。
母親も申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません、ありがとうございます」
「いえ、大丈夫です」
本当に、それだけだった。
別に優しい人間だとは思っていない。
目の前で困っている人がいたから、手を動かしただけだ。
家に戻る。
レンジの音が鳴る。
机に座って、弁当を食べる。
テレビをつける。
誰かが笑っている。
ニュースが流れる。
誰かの成功と、誰かの失敗が映る。
でも、ほとんど頭に入ってこない。
食べ終わって、容器を流しに置いて、ソファに座る。
スマホを見る。
母からメッセージが来ていた。
『元気?』
短い文章だった。
優人は少しだけ笑って、返事を打つ。
『元気』
すぐに既読がついた。
返ってきたのは一言。
『よかった』
スマホを置く。
天井を見る。
不思議だった。
仕事もある。
家もある。
家族もいる。
友達だっている。
誰かに必要とされていないわけじゃない。
なのに時々、胸の奥にぽっかり空いた空間みたいなものを感じる。
何かを失った感覚じゃない。
最初から埋まっていない感覚。
窓を開ける。
夜風が入ってくる。
遠くの街の明かりを眺めながら、優人は独り言みたいに呟いた。
「……居場所って、なんだろうな」
次の日は休みだった。
目覚ましをかけていないのに、いつもと変わらない時間に目が覚めた。平日なら少し得した気分になるのに、休日だと逆に損した気分になるのは不思議だ。
枕元のスマホを手に取る。
七時十三分。
まだ寝ようと思えば寝られる時間だった。でも、一度起きてしまった身体はもう眠る気になれなかった。
ベッドから降りてカーテンを開ける。
窓の外は綺麗に晴れていた。昨日まで気づかなかったが、季節は少しずつ夏に近づいているらしい。道路にはもう人の姿があって、犬の散歩をしている人や、朝から出かける準備をしている家族が見えた。
コーヒーを淹れる。
洗濯機を回そうか迷ったが、後でいいかと思ってやめた。
湯気の立つマグカップを持って窓際に座る。
静かだった。
一人暮らしの部屋は普段から静かだけれど、休日の朝は平日と少し違う。仕事に追われていないだけで、空気に余白がある。
優人はスマホを開いた。
ニュースを少し見て、SNSを流し見して、動画アプリを開く。
でも、どれも長続きしなかった。
見たいものがないわけじゃない。
ただ、何かを楽しみたいというより、空いている時間を埋めようとしている自分に気づいてしまった。
スマホを伏せる。
ソファに身体を預け、ぼんやり天井を見る。
自由って難しいな、とふと思った。
子供の頃は、大人になれば好きなことを好きなだけできると思っていた。
でも実際は違う。
何をしてもいいという状況になると、意外と自分が何をしたいのか分からない。
誰かと会えば楽しいだろう。
友達に連絡してもいい。
映画でも見に行けばいい。
選択肢はいくらでもある。
なのに、今日はなぜか違った。
誰かと時間を過ごしたいわけじゃない。
少しだけ、自分が何をしたい人間なのか知りたかった。
優人は立ち上がった。
財布とスマホと鍵をポケットに入れる。
行き先は決めなかった。
休日だからこそ、決めずに歩いてみようと思った。
外へ出る。
駅へ向かう道をなんとなく歩く。
休日の街は少しだけ柔らかく見えた。
家族連れ、カップル、一人で散歩している人。みんなそれぞれ行き先があるように見える。
歩きながら、優人は考えた。
大学を選んだ時、自分は何を考えていたんだろう。
就職した時、本当にやりたいことだったんだろうか。
子供の頃、何になりたかったんだろう。
思い出そうとして、少し笑った。
案外出てこない。
今の生活が嫌いなわけじゃない。
むしろ十分恵まれている方だと思う。
なのに、どこか自分で選んできた感覚が薄かった。
気づけば足が止まっていた。
顔を上げる。
目の前にあったのは、大きな本屋だった。
昔は用もないのに入っていた場所だ。
最近はネットで済ませることが増えて、ずいぶん来ていなかった。
優人は少し迷って、それから自動ドアをくぐった。
本屋に入ると、少し冷えた空気と紙の匂いが迎えてくれた。
久しぶりだった。
学生の頃は特に用事がなくてもよく来ていた。新刊を眺めたり、立ち読みしたり、知らないジャンルの棚を歩いたり。本を買うことより、その時間そのものが好きだった気がする。
最近はほとんど来なくなった。
欲しい本があればネットで買えるし、調べたいことはスマホですぐ出てくる。
便利になったはずなのに、なぜか昔より知らないものに出会う機会は減った気がした。
店内をゆっくり歩く。
新刊コーナー。
ビジネス書。
資格参考書。
自己啓発。
旅行雑誌。
小説。
どれも少し立ち止まって、結局そのまま通り過ぎる。
目的がないと、人は意外と何も選べない。
そんなことを考えながら歩いていると、一冊の本の前で足が止まった。
旅行雑誌だった。
表紙には大きな景色が写っている。
海外のどこかだった。
名前も知らない街。
青い空と、石畳と、知らない人たち。
優人はしばらくその写真を眺めた。
昔、行きたい場所があった気がした。
大学生の頃だったか。
社会人になってお金を貯めたら旅行しようとか、時間ができたら色々見ようとか、そんなことを考えていた。
別に諦めたわけじゃない。
ただ、いつの間にか考えなくなっていた。
仕事が忙しかった。
疲れていた。
落ち着いたら行こうと思っていた。
そうやって後回しにしているうちに、行きたい気持ち自体が薄れていた。
雑誌を棚に戻そうとして、隣に置かれていた本が目に入った。
『人生で一度はやりたいこと』
少しだけ笑った。
こういうタイトル、昔の自分なら避けていた。
意識高そうとか、綺麗事っぽいとか、そんな理由で。
でも今日はなぜか気になった。
手に取る。
ぱらぱらとめくる。
大したことは書いていない。
旅行するとか、誰かに会うとか、挑戦するとか。
普通のことばかりだった。
だけど、その中の一文だけ目に止まった。
——「居場所は見つけるものじゃなく、自分で広げていくものかもしれない」
優人はページを閉じた。
その言葉が正しいかは分からない。
でも少しだけ、引っかかった。
自分は今まで居場所を探していたんだろうか。
それとも、どこかにあるものだと思って待っていたんだろうか。
本を戻す。
結局、何も買わなかった。
店を出る。
空を見る。
まだ昼だった。
帰るには少し早い。
優人はポケットに手を入れて、少し考えた。
せっかく外に出たんだ。
もう少しだけ、歩いてみようか。
本屋を出ると、昼の光が思ったより強かった。
店内の空調に慣れていた身体には少し眩しく感じる。
優人は目を細めながら歩き始めた。
帰る理由もなかったし、急ぐ予定もない。
だから珍しく、行き先を決めずに歩いてみることにした。
駅前を抜ける。
大通りから少し外れる。
普段なら通らない道を選ぶ。
知らない店があった。
古い喫茶店。
昔ながらの定食屋。
小さな花屋。
何年もこの街に住んでいるのに、見たことのない景色がまだ残っていることが少し不思議だった。
歩きながら思う。
案外、知らないのかもしれない。
遠い国とか、大きな夢とか、そういう話じゃない。
住んでる街ですら、ちゃんと知らない。
自分のことも。
ふと、公園が見えた。
広くはない。
住宅街の中にある普通の公園だった。
せっかくだし、と入ってみる。
ベンチに座る。
子供たちが遊んでいた。
親同士が話している。
散歩中の犬が歩いている。
休日らしい景色だった。
優人はぼんやり眺める。
昔、自分もこういう場所で遊んでいたんだろうか。
親に連れられて。
友達と走って。
その頃は、大人になることがずっと先の話だった。
今思えば、あの頃の自分は何でもできる気がしていた。
将来の選択肢なんて無限にあると思っていた。
でも実際は、少しずつ選んで、少しずつ選ばなくなって、気づいたら今にいる。
別に後悔はない。
それでも。
まだ間に合うんじゃないか、と少し思った。
旅行でもいい。
新しい趣味でもいい。
何か始めてもいい。
大きく変わる必要はない。
ただ、自分で選んでみてもいい。
優人は小さく息を吐いた。
スマホを取り出す。
メモを開く。
少し迷って、文字を打つ。
『今年やってみたいこと』
その下に、一つだけ書く。
『知らない場所へ行く』
書いてみると少し恥ずかしかった。
でも、悪くなかった。
スマホを閉じる。
空を見る。
雲が流れている。
なんとなく笑った。
「……まあ、悪くないかもな」
自分でも驚くくらい自然にそんな言葉が出た。
何かを成し遂げたわけじゃない。
人生が急に変わったわけでもない。
ただ、公園のベンチで少し考えて、スマホに一行だけ書いただけだ。
それなのに、不思議と悪い気分じゃなかった。
優人は立ち上がり、公園を出た。
休日の街を歩く。
さっきと同じ道なのに、少しだけ見え方が違う気がした。
変わったのは景色じゃない。たぶん、自分の方だった。
駅前へ戻る途中、大通り沿いにある旅行代理店の前で足が止まった。
立派なガラス張りの店だった。
店頭には季節ごとのポスターが並んでいる。
海沿いの街、山間の温泉地、海外の古い街並み。
どれも見たことのない景色だった。
優人はしばらく眺めた。
別に旅行が趣味だったわけじゃない。
むしろ、社会人になってから旅行なんてほとんどしていない。
休みは疲れを取る日に変わっていたし、まとまった時間があっても結局近場で終わることが多かった。
行こうと思えば行けた。
でも、いつでも行けると思っていると案外行かない。
その繰り返しだった。
スマホを取り出す。
少し迷ってから検索欄を開いた。
指が自然に動く。
一人旅。
近場。
一泊二日。
検索結果が並ぶ。
写真を見る。
海の見える宿。
山道。
小さな駅。
景色。
レビュー。
知らない人たちの感想。
見ているうちに少し楽しくなってきた。
別に海外じゃなくてもいい。
大冒険じゃなくてもいい。
ただ、自分の生活圏の外へ出てみたい。
そう思った。
気づけば二十分くらいその場で眺めていた。
少し笑ってしまう。
自分でも意外だった。
こんなことに時間を使うのが、思っていたより楽しかった。
家に帰る。
靴を脱ぎ、冷房をつける。
ソファに座って、さっきのメモを開いた。
今年やってみたいこと
・知らない場所へ行く
しばらく眺める。
勢いで消してしまおうかとも思った。
でも、やめた。
代わりにその下へ書き足す。
いつ行く?
少し考える。
仕事。
予定。
来月なら三連休がある。
指が動く。
来月。
保存する。
スマホを閉じる。
部屋は相変わらず静かだった。
昨日と同じ部屋。
同じ家具。
同じ天井。
なのに少しだけ違って見えた。
大きな変化じゃない。
人生が好転したわけでもない。
ただ、久しぶりに自分で何かを決めた気がした。
窓の外を見る。
休日の夕方だった。
優人はふと考える。
居場所って、どこかに用意されているものじゃなくて、こういう小さい選択の先にできていくものなのかもしれない。
まだ分からない。
でも、少しだけ知りたくなった。
一度決めてしまうと、不思議と少しずつ行動も変わるものだった。
もちろん、人生が急に充実したわけじゃない。
次の日になれば普通に仕事はあるし、帰れば疲れているし、休日だって何もしない日もあった。
ただ、前と少し違ったのは、来月という期限ができたことだった。
スマホのカレンダーに小さく印がついている。
三連休。
予定はない。
でも、そこにだけは「旅」と入れた。
最初は自分でも少し恥ずかしかった。
大人になってから、何かを楽しみに予定を入れることなんて減っていた。
予定は仕事か、誰かとの約束か、用事ばかりだった。
自分のためだけの予定というのは、思っていたより新鮮だった。
仕事終わりの電車で宿を探した。
昼休みに目的地を調べた。
口コミを見て、地図を見て、写真を見る。
候補を何個か保存して、また悩む。
そんなことをしている自分が少し面白かった。
同僚に珍しそうな顔をされた日もあった。
「松本、最近機嫌いい?」
急に言われて、少し驚いた。
「そうですか?」
「なんか前より余裕ある感じ」
優人は笑ってごまかした。
別に何かが上手くいっているわけじゃない。
ただ、少し先に楽しみができただけだ。
それだけで意外と人は変わるのかもしれない。
帰り道も少し違った。
前みたいに無意識で歩かなくなった。
知らない店を見るようになった。
今まで気づかなかった路地を見るようになった。
別に何か見つかったわけじゃない。
でも、少しだけ周りを見るようになった。
母から連絡が来た日もあった。
『最近元気そう』
短いメッセージだった。
優人は少し笑って返した。
『なんで分かった?』
少しして返事が来る。
『なんとなく』
優人はその返信をしばらく見ていた。
親って不思議だなと思った。
特に話していたわけでもない。
でも、案外伝わるものなのかもしれない。
そして、一か月は思ったより早かった。
もちろん、その間に劇的な出来事があったわけじゃない。
毎日仕事へ行って、帰って、寝る。
疲れて何もせず終わる日もあったし、結局宿探しだけして満足した日もあった。
それでも不思議だった。
予定が一つあるだけで、同じ毎日が少し違って見えた。
昼休みに地図を見る。
帰りの電車で目的地の写真を見る。
休日に荷物を確認する。
そんな小さなことが、思っていたより楽しかった。
変わったことといえば、それくらいだ。
でも、案外人生ってそのくらいの変化なのかもしれない、と優人は思った。
何か大きな出来事が起きるわけじゃなくて、小さな楽しみが少しずつ景色を変えていく。
そういうものなのかもしれない。
そして、気づけばその日になっていた。
旅の朝だった。
目覚ましが鳴る少し前に目が覚めた。
窓の外は明るかった。
布団の中で天井を見る。
こういう感覚は久しぶりだった。
子供の頃、遠足の前日に少し早く起きてしまうような、そんな感覚に少し似ている。
別に大げさな旅行じゃない。
一泊二日。
一人。
遠くない場所。
なのに、思ったより楽しみにしていたらしい。
起き上がり、カーテンを開ける。
空は綺麗に晴れていた。
コーヒーを淹れて、いつもより少しゆっくり朝を過ごす。
荷物は前日にほとんど準備してあった。
服、財布、充電器、最低限のものだけ。
旅行慣れしているわけじゃないから、忘れ物がないか何回か確認する。
確認して、少し不安になって、また確認する。
そんなことをしている自分が少し可笑しかった。
家を出る前、部屋を見渡した。
いつもの景色だった。
ベッド。
テーブル。
積まれた本。
洗い忘れたマグカップ。
帰ってきたら何も変わっていないだろう。
でも、少しだけ違う気もした。
理由は分からない。
旅先で人生が変わるなんて思っているわけじゃない。
それでも、自分で選んで出かけるということに少し意味を感じていた。
優人は鍵を持つ。
玄関の前に立つ。
ドアを開ける。
朝の空気が流れ込んできた。
少しだけ深呼吸をする。
それから静かに笑った。
「行ってくるか」
誰もいない部屋に向かってそう言って、優人は家を出た。
駅へ向かう道は、普段より少し静かだった。
平日の朝なら仕事へ向かう人たちで慌ただしい時間帯だけれど、今日は休日だった。家族連れや旅行客らしい人たちが目立つ。大きな荷物を引きながら歩いている人、カメラを首から下げている人、楽しそうに予定を話している人。
その中を歩きながら、優人は少し不思議な気分になっていた。
旅行なんて大したことじゃない。
そう思っていた。
学生の頃ならもっと遠くへ行ったこともあるし、誰かと泊まりで出かけたことだってある。
なのに、今回だけは少し違った。
目的地より、出発すること自体に意味がある気がしていた。
たぶん今まで、自分のためだけに何かを決めることが少なかったのだと思う。
仕事も、生活も、人付き合いも、全部自分で選んできたはずなのに、いつの間にか「今の生活を続ける」が基準になっていた。
そこから少し外れるだけで、思ったより景色は変わるらしい。
駅に着く。
改札を通る。
ホームへ上がる。
電車を待つ。
それだけのことなのに、今日は少し新鮮だった。
ホームには同じように出かける人たちがいた。
小さい子供を連れた家族。
一人でリュックを背負った学生。
年配の夫婦。
みんな行き先は違うのに、少しだけ同じ顔をしていた。
どこか楽しみにしている顔だった。
電車が来る。
乗り込む。
窓際の席が空いていた。
座る。
発車する。
見慣れた街がゆっくり後ろへ流れていく。
毎日通勤で見ている景色なのに、行き先が違うだけでこんなに違って見えるんだなと優人は思った。
ビル。
住宅街。
信号。
川。
全部同じなのに、今日は通り過ぎるものとして見えていた。
優人はスマホを開く。
目的地を確認する。
画面には予約していた宿の情報と、小さな観光地の一覧が並んでいる。
正直、そんなに綿密な計画は立てていない。
行って、歩いて、気になった場所を見る。
それくらいでいいと思っていた。
昔の自分なら、旅行なんてもっと効率よく回ろうとしていた気がする。
でも今日は違った。
目的がある旅じゃない。
少しだけ、自分の知らない場所へ行ってみる旅だった。
電車がトンネルへ入る。
窓に自分の顔が映る。
二十五歳。
普通の会社員。
特別な人生じゃない。
でも、その顔は少しだけ前より穏やかに見えた。
優人は小さく息を吐いて、窓の外へ視線を戻した。
旅は、まだ始まったばかりだった。
電車に揺られているうちに、景色は少しずつ変わっていった。
最初は見慣れた駅だった。毎日通勤で見かけるような街並みが続いていて、正直、旅行に来ている実感はあまりなかった。
けれど、乗り換えを一度挟み、さらに電車へ乗り直す頃には、窓の外の景色はゆっくりと知らないものに変わっていった。
建物の高さが低くなる。
人の数が減る。
線路沿いに畑が見える。
名前も知らない川が流れている。
都会と田舎というほど大きな違いじゃない。ただ、生活のリズムが少し違う場所へ来たんだという感覚があった。
優人は目的地をここに決めた理由を思い返した。
理由らしい理由はなかった。
写真を見て、なんとなく良さそうだと思った。
口コミを見て、静かそうだと思った。
それだけだった。
昔ならもっと調べていた気がする。
効率よく回れる順番を考えて、人気の店を探して、失敗しないように予定を組んでいた。
でも今回はそうしなかった。
せっかく知らない場所へ行くのだから、少しくらい知らないままでいたかった。
電車を降りる。
ホームへ足を下ろした瞬間、空気が少し違った。
風があった。
駅は小さかった。
改札も少なく、人の流れも静かだった。
観光地というほど賑わっているわけでもない。
でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
駅舎を出る。
空を見る。
広かった。
思わず立ち止まる。
こんな空、最近見てなかったなと思った。
空は毎日見ているはずなのに、いつからか見上げること自体が減っていた。
スマホを取り出して地図を開く。
宿までは歩いて二十分くらいらしい。
バスもある。
少し迷って、優人は歩くことにした。
急ぐ旅じゃない。
むしろ、こういう時間のために来た気がした。
駅前の道を進む。
知らない店が並んでいる。
古い喫茶店。
地元のスーパー。
閉まっている店。
小さな神社。
どれも特別じゃない。
でも、知らないというだけで少し面白かった。
歩きながら考える。
もし今日来なかったら、自分はこの景色を一生知らなかったかもしれない。
別に知らなくても困らない。
でも、知っている方が少しだけ人生が広くなる気がした。
そんなことを考えている自分が少し可笑しかった。
旅行に来たくらいで人生なんて変わらない。
居場所だって急に見つかるわけじゃない。
それでも。
こうやって知らない場所を歩いていると、自分の人生にもまだ入っていない景色があるんだと思えた。
優人は立ち止まる。
道路脇に小さな案内板が立っていた。
この先、展望台。
徒歩十五分。
景色が綺麗らしい。
優人は少し迷って、それから笑った。
予定なんてない。
だったら行ってみるか。
そう思って、案内板の示す方へ歩き始めた。
案内板に従って歩き始めると、景色はさらに静かになっていった。
駅前にあった店も少しずつ減り、住宅街を抜ける頃には、人の姿そのものがほとんど見えなくなった。
道はゆるやかな坂になっていた。
舗装はされているけれど、普段歩いている街とは少し違う。車の音も遠く、代わりに風の音や鳥の声が耳に入ってくる。
優人は歩きながら少し笑った。
最近、こうやって目的もなく歩くことがあっただろうかと思った。
通勤の移動は歩いているようで歩いていない。
目的地が決まっていて、考え事をしていて、気づけば着いている。
でも今は違った。
この道の先に何があるのか知らない。
だから自然と周りを見る。
空を見る。
木を見る。
少し変わった形の家を見る。
それだけのことなのに、不思議と時間がゆっくり流れている気がした。
坂を登りきった先に、小さな展望台があった。
観光地というほど立派なものではない。
木でできた簡単なスペースと、ベンチがいくつか置かれているだけだった。
人も少なかった。
カメラを持った年配の男性が一人と、小学生くらいの兄妹らしき二人が遠くを見ながら何か話している。
優人は空いているベンチへ座った。
目の前には街が広がっていた。
駅。
道路。
遠くの山。
住宅。
その向こうに空。
綺麗だった。
息を呑むほどではない。
人生が変わる景色でもない。
でも、ちゃんと綺麗だった。
優人はしばらく何も考えず眺めていた。
風が吹く。
遠くで誰かが笑う。
時間だけが流れる。
こんな時間を最後に過ごしたのはいつだっただろう。
何もしない時間。
何かを生み出さない時間。
意味を求めない時間。
社会人になってから、いつの間にか時間にも成果を求めるようになっていた気がする。
休むなら効率よく。
遊ぶなら満足できるように。
予定を空けるなら理由を作る。
そんなふうに過ごしていた。
でも、今ここに来た理由なんてない。
案内板があったから来ただけだ。
それなのに、不思議と来てよかったと思った。
ポケットからスマホを取り出す。
写真を撮ろうとして、やめた。
別に誰かに見せたいわけじゃない。
代わりに、メモを開いた。
前に書いたものが残っている。
今年やってみたいこと
・知らない場所へ行く
その下へ、少しだけ考えて書き足す。
・また来たいと思える場所を増やす
書いてから少し笑った。
別に今日来た場所を忘れたくないわけじゃない。
ただ、居場所って、帰る場所だけじゃないのかもしれないと思った。
知らない場所へ行って。
また来たいと思って。
そうやって少しずつ、自分の人生の地図が広がっていく。
そういうものなのかもしれない。
優人はスマホを閉じる。
もう一度景色を見る。
その時だった。
隣のベンチに座っていた年配の男性が、ふとこちらを見て笑った。
「一人旅かい?」
優人は少し驚いて、それから笑って答えた。
「……そんな大したものじゃないですけど」
男性は景色へ視線を戻した。
「いいね。大した旅じゃないって旅が、一番覚えてたりする」
優人は返事をしなかった。
でも、その言葉は少しだけ心に残った。
優人は少し迷ってから、男性の隣に視線を戻した。
話しかけられること自体は珍しくない。
でも最近は、こういう場面であまり会話を続けなくなっていた気がする。
必要な会話はする。
仕事でも、友達とも話す。
でも、知らない人と少し話すことなんてほとんどない。
昔から苦手だったわけじゃない。
ただ、そういう機会が減っただけだ。
男性は六十代くらいだろうか。
帽子をかぶっていて、小さなカメラを首から下げている。
どこにでもいそうな人だった。
でも、こういう場所で見ると少し違って見えた。
「旅行ですか?」
気づけば優人の方から聞いていた。
男性は少し笑った。
「旅行……まあ、そうだね」
少し考えるように空を見る。
「昔は仕事だったんだよ。あっちこっち行く仕事でね」
「へえ」
「若い頃は移動ばっかりだった。だから落ち着いたら家でゆっくりしようと思ってたんだ」
男性は笑う。
「で、落ち着いたら今度は暇になった」
優人も少し笑った。
想像できる気がした。
「だからまた出かけるようになった?」
「そんな感じ」
男性は景色を見る。
「最初は景色を見るためだったんだけどね」
少し間が空く。
「案外、覚えてるのは景色じゃないんだ」
優人は聞き返さなかった。
男性はそのまま続けた。
「店の人とか、隣に座った人とか、道教えてくれた人とか。そういう方が覚えてたりする」
風が吹いた。
男性は少し笑った。
「変だよね。綺麗な景色見に来たはずなのに」
優人は景色を見る。
広かった。
でも、さっきより少し違って見えた。
「そういうものなんですかね」
男性は肩をすくめた。
「どうだろう。でも人って案外、人で場所覚えてる気がするよ」
優人は何も言わなかった。
少しだけ考えた。
思い返してみる。
学生時代。
旅行。
学校。
仕事。
確かに場所だけじゃなく、そこにいた人を思い出している気がした。
景色より先に。
会話とか。
笑ったこととか。
そういうものを。
男性が立ち上がる。
「じゃ、行くよ」
「あ、はい」
男性は歩き出して、少しして振り返った。
「若い時に出かけるの、いいと思うよ」
優人は笑った。
「ありがとうございます」
男性は手を振って去っていった。
名前も聞かなかった。
たぶんもう会わない。
それなのに、不思議と悪くない時間だった。
優人はもう一度景色を見る。
さっきと同じ景色のはずなのに、少しだけ違って見えた。
しばらく景色を眺めたあと、優人はベンチから立ち上がった。
時計を見ると、思っていたより時間が過ぎていた。
宿のチェックインまではまだ余裕がある。
急ぐ必要もなかったけれど、今日は一日歩いたせいか、少し身体に疲れが出始めていた。
展望台を後にして坂を下る。
来た時より少し足取りが軽い気がした。
理由は分からない。
景色が特別だったわけでもない。
何か答えを見つけたわけでもない。
ただ、知らない人と少し話して、知らない場所を少し歩いただけだった。
それなのに、ここへ来る前より気持ちが静かだった。
宿までは徒歩二十分ほどだった。
途中、小さな川が流れていて、その脇を歩く。
川の水は思っていたより透き通っていて、流れは穏やかだった。
地元の子供たちが石を投げて遊んでいる。
観光地らしい風景じゃない。
でも、優人は少し立ち止まって見ていた。
旅行って、案外こういう時間なのかもしれないと思った。
何かを見るというより、自分の普段の速度から少し外れる時間。
そう考えながら歩いているうちに、目的の宿が見えてきた。
立派な旅館ではなかった。
二階建ての小さな宿だった。
外観は古いけれど手入れされていて、入口には季節の花が置かれている。
予約した時に見た写真と同じだった。
優人は少し安心して中へ入った。
玄関のベルが小さく鳴る。
奥から人が出てくる。
五十代くらいの女性だった。
宿の人らしく、慣れた笑顔で迎えてくれる。
「いらっしゃいませ。ご予約のお客様ですか?」
優人は名前を伝える。
女性は確認して、笑った。
「松本さんですね。遠くからありがとうございます」
ありがとうございます、と返しながら少しだけ不思議に思った。
別に特別な言葉じゃない。
でも、知らない土地で名前を呼ばれるのは少し新鮮だった。
チェックインを済ませる。
女性が鍵を渡しながら聞いた。
「観光ですか?」
優人は少し考えてから答えた。
「……なんとなく来ました」
女性は笑った。
変な返事だったかもしれない。
でも女性は特に驚かなかった。
「いいですね、それ」
優人は少し首を傾げた。
女性は続ける。
「ちゃんと理由がある旅行も楽しいですけど、なんとなく来る人って、意外とゆっくりして帰るんですよ」
優人は少し笑った。
「そういうものですか」
「そういうものです」
女性は少し考えるように言った。
「ここ、何もないですから」
冗談みたいに笑う。
「でも、何もないから来年また来る人もいるんです」
優人は返事をしなかった。
でも、その言葉は少しだけ残った。
鍵を受け取って階段を上がる。
部屋へ入る。
広くはない。
綺麗に整えられていて、窓から少し景色が見える。
荷物を置く。
座る。
静かだった。
家の静かさとは少し違う。
知らない場所の静かさだった。
優人は窓を開ける。
風が入ってくる。
ふと思った。
今日会った人たちは、たぶんもう会わない。
展望台のおじさんも。
宿の人も。
でも、少しだけ覚えている気がした。
部屋に荷物を置いてしばらく座っていると、身体の疲れが少しずつ表に出てきた。
思っていたより歩いていたらしい。
ベッドへ身体を預ける。
天井を見る。
静かだった。
家の静かさとは違う。
家では生活の音が背景にある。冷蔵庫の音とか、外を走る車とか、隣の部屋の生活音とか、意識しない程度の音がいつも混ざっている。
でもここは違った。
静かというより、余白がある感じだった。
知らない土地にいるというだけで、時間の流れ方まで少し変わるのかもしれない。
窓際へ行く。
カーテンを開ける。
外を見る。
空の色が少し変わっていた。
昼の明るさが落ち始めていて、建物や道に夕方の色が乗り始めている。
夕方だった。
宿で夕食を頼むこともできた。
それでも優人は少し考えて、また外へ出ることにした。
理由は特になかった。
ただ、まだ帰りたくないと思った。
せっかくここまで来たのだから、もう少しだけこの場所を歩いてみたかった。
財布とスマホだけ持って部屋を出る。
階段を降りる。
玄関では宿の女性が何か作業をしていた。
「あら、お出かけですか?」
優人は少し笑って答える。
「夕飯、外で食べようかなって」
女性は頷いた。
「いいですね。この時間、歩くと気持ちいいですよ」
少し考える。
「おすすめあります?」
女性は少し悩んでから笑った。
「ありますけど、今日はあえて言わないでおきます」
「え?」
「適当に歩いて入った店って、意外と覚えてたりしますから」
優人は少し笑った。
そんなものだろうかと思った。
でも今日一日、自分は案外そういう時間を楽しんでいた気がした。
「じゃあ、適当に探してみます」
「いってらっしゃい」
宿を出る。
外の空気は昼より柔らかかった。
暑さが少し引いて、風が通る。
道を歩く。
昼と同じ場所のはずなのに、夕方になるだけで景色は少し変わる。
学校帰りらしい学生。
店じまいを始める店。
犬を散歩する人。
知らない街なのに、そこに生活があることが少し面白かった。
優人は歩きながら思った。
旅行って、特別な景色を見ることだと思っていた。
でも今日来てみて少し違う気がしていた。
誰かの日常の中を少しだけ歩かせてもらう感じ。
その感覚が嫌じゃなかった。
しばらく歩く。
大通りから少し外れる。
目立たない場所に小さな食堂が見えた。
派手な店じゃない。
木の看板。
少し古い外観。
窓から暖色の明かりが漏れている。
地元の人らしい人が何人か見える。
通り過ぎようとして、少し止まる。
こういう店、普段なら入らないなと思った。
失敗したくない。
知らない店は少し緊張する。
でも、今日は旅だった。
少し考えて、それからドアを開けた。
小さなベルが鳴る。
中は思っていたより落ち着いていた。
カウンター席がいくつか。
奥にテーブル席。
料理の匂い。
静かな話し声。
店員がこちらを見る。
「いらっしゃい」
優人は少しだけ背筋を伸ばした。
知らない場所の夜は、まだ続いていた。
店の中は思っていたより落ち着いていた。
観光地によくある賑やかな店ではなく、地元の人が普通にご飯を食べに来るような空気だった。奥の席では年配の夫婦がテレビを見ながら食事をしていて、カウンターには仕事帰りらしい男性が静かにビールを飲んでいる。
優人は入口近くの席へ案内された。
椅子に座る。
店の中を見渡す。
古い店だった。
でも古いというより、長く続いている感じがした。
壁には少し色の抜けたメニューや、誰かが撮ったらしい写真が貼られている。景色の写真もあれば、人が映っているものもあった。
旅行者の写真だろうか。
常連かもしれない。
どれも特別な写真じゃない。
でも、なぜか目に入った。
店員が水を持ってくる。
五十代くらいの男性だった。
「観光?」
優人は少し笑う。
今日だけで三回目だった。
「そんな感じです」
「へえ」
男性はメニューを置く。
「何もないでしょ、この辺」
宿の人と同じことを言うなと思って、少し笑った。
「今日来たばかりなんで、まだ分からないです」
男性は笑った。
「じゃあ帰る頃には分かるかもね」
それだけ言って厨房へ戻っていった。
優人はメニューを見る。
どれも普通だった。
定食。
丼。
麺類。
悩んだ末に、店の名前がついた定食を頼んだ。
待つ。
店の時間は少しゆっくりだった。
スマホを見る気にもならない。
店の音を聞いていた。
食器の音。
厨房の音。
会話。
テレビ。
こういう時間も久しぶりだった。
料理が来る。
派手じゃない。
でもちゃんと美味しそうだった。
優人は手を合わせて食べ始める。
一口食べる。
少し驚く。
特別じゃない。
でも美味しかった。
なんというか、丁寧だった。
食べながら思う。
旅行先で食べた料理って、高いものよりこういうものの方が残るのかもしれない。
少し食べたところで、店主が水を足しに来た。
「どう?」
優人は少し迷って答える。
「……なんか安心する味です」
言ってから少し恥ずかしかった。
変な感想だった。
でも店主は笑った。
「たまに言われる」
少し考えて続ける。
「別に料理ってすごい思い出にならなくてもいいと思っててさ」
優人は顔を上げた。
店主は水差しを持ったまま話す。
「旅行って景色とか観光とか色々あるけど、最後に残るのって案外、『あの時あそこ入ったな』くらいだったりするんだよ」
優人は静かに聞く。
「だから、帰ったあと急に思い出すくらいがちょうどいい」
そう言って笑って戻っていった。
優人はしばらく料理を見る。
変なこと言う人だなと思った。
でも少し分かる気がした。
今日会った人たちを思い返す。
展望台の男性。
宿の人。
この店。
名前も知らない。
もう会わないかもしれない。
それでも、少し覚えている。
もし今日ここへ来なかったら、この人たちとは一生会わなかった。
その事実を不思議だと思った。
世界には知らない人がいて、たまたま同じ場所にいて、少し話して、また離れる。
その繰り返しなのかもしれない。
食べ終わる。
会計をする。
店を出る前、店主が言った。
「また来ることあったら寄って」
営業トークかもしれない。
でも嫌な感じはしなかった。
優人は笑った。
「また来ます」
その言葉を口にした時、自分でも少し驚いた。
来る予定なんてない。
でも、その時は本当にそう思った。
外へ出る。
夜だった。
知らない街の夜道は静かだった。
優人は少しゆっくり歩きながら宿へ戻り始めた。
店を出ると、空はすっかり夜になっていた。
昼間の柔らかい明るさはもうなくて、代わりに街灯の光が道を照らしていた。遠くから車の音が聞こえる。店の明かりが少しずつ消え始めていて、昼間とは違う静かな時間が街に流れていた。
優人は宿へ向かって歩き始めた。
急ぐ理由はない。
だから自然と歩く速度も遅くなる。
観光地らしい夜景があるわけじゃない。
イルミネーションもなければ、人で賑わっているわけでもない。
でも、不思議と悪くなかった。
むしろ、こういう夜を求めていたのかもしれないと少し思った。
歩きながら、今日一日のことを思い返した。
本屋に行った日から始まったこと。
なんとなく決めた旅。
展望台。
知らない人との会話。
食堂。
こうして並べると、本当に大したことは起きていない。
誰かと連絡先を交換したわけでもない。
特別な景色を見たわけでもない。
人生が変わるような出来事もなかった。
でも、思っていたより満足していた。
その理由が少し分かる気がした。
今日会った人たちは、誰も優人の人生を変えようとしていなかった。
展望台の男性は少し話して去っていった。
宿の人は宿を貸してくれた。
食堂の店主は料理を出してくれた。
それだけだった。
何かを教えられたわけでもない。
でも、そういう人たちと少し話したことが今日という日に輪郭を与えていた。
もし景色だけ見て帰っていたら、ここまで覚えていなかったかもしれない。
少しだけ話して、少しだけ同じ時間を過ごした。
それだけなのに、不思議と旅になっていた。
優人は歩きながら考えた。
居場所って、どこかに完成された形であるものじゃないのかもしれない。
今日みたいに。
行って。
座って。
少し話して。
また離れて。
そういう時間が積み重なって、気づけば居場所みたいになる。
そんなものなのかもしれない。
答えはまだ分からない。
別に今日で何か理解したわけでもない。
でも、少しだけ考え方が変わった気がした。
道の途中、小さな橋があった。
川の上を渡る。
立ち止まる。
下を見る。
夜の水は暗くて、街灯の光だけが細く揺れていた。
優人はスマホを取り出した。
写真を撮ろうとして、やめた。
代わりにメモを開く。
前に書いたものを見る。
今年やってみたいこと
・知らない場所へ行く
・また来たいと思える場所を増やす
少し考える。
それから、一行だけ足した。
・人と話してみる
書いたあと、少し笑った。
別に社交的になろうという話じゃない。
今日、少し話しただけで面白かった。
それだけだった。
スマホを閉じる。
歩き出す。
宿の明かりが見えてくる。
その光を見た時、優人は少し不思議な気持ちになった。
今日初めて来た場所なのに、少しだけ帰る感じがした。
その感覚が少し嬉しかった。
宿へ戻る。
玄関を開ける。
女性が顔を上げて笑う。
「おかえりなさい」
優人は一瞬だけ止まった。
それから自然に返した。
「……ただいまです」
女性は少し笑った。
「いい夜でした?」
優人は少し考えてから答えた。
「はい。思ったより」
女性は頷いた。
それだけだった。
でも、十分だった。
部屋へ戻ると、外より少しだけ空気が温かかった。
廊下を歩いていた時は気づかなかったけれど、宿の中には独特の静けさがあった。誰かが泊まっている気配はあるのに騒がしくない。生活の音というより、誰かがそれぞれの時間を過ごしている気配だけが遠くにある。
部屋へ入る。
扉を閉める。
靴を脱ぐ。
荷物を置く。
それだけなのに、少し身体から力が抜けた。
さっき玄関で「ただいま」と言ったことを思い出す。
変な感じだった。
今日初めて来た場所なのに。
明日になれば出る場所なのに。
それなのに、戻ってきた感覚が少しだけあった。
優人はベッドへ腰掛けた。
窓の外を見る。
夜だった。
静かな街だった。
遠くに明かりが見える。
どこかの家。
どこかの店。
今日会った人たちも、今頃それぞれ普通に夜を過ごしているんだろうかと思った。
展望台の男性はどこかで写真を整理しているかもしれない。
食堂の店主は片付けをしているかもしれない。
宿の人は明日の準備をしているかもしれない。
別に考える必要はない。
でも、少し想像した。
その人たちにも生活がある。
今日の自分みたいに、一日があって、考えることがあって、眠る。
当たり前のことなのに、少し不思議だった。
旅に来ると、知らない人が急に背景じゃなくなる気がした。
街じゃなくて、人が見える。
そんな感覚だった。
優人は風呂へ入ることにした。
浴室は広くなかった。
でも十分だった。
熱い湯につかる。
身体の疲れがゆっくり抜けていく。
目を閉じる。
今日一日を思い返す。
何か意味のあることをしたわけじゃない。
成果もない。
自分探しをしたわけでもない。
なのに、妙に満たされていた。
その理由を考えて、やめた。
こういうのは説明できない方がいい気がした。
風呂から上がる。
髪を乾かす。
冷たい水を飲む。
ベッドへ座る。
スマホを開く。
母とのやり取りが少し前の位置に残っていた。
『最近元気そう』
『なんで分かった?』
『なんとなく』
優人は少し笑った。
返事を打つ。
『旅してる』
少しして返信が来る。
『珍しいね』
『楽しんできな』
短い文章だった。
でも、それで十分だった。
優人はスマホを閉じた。
部屋の明かりを少し落とす。
布団へ入る。
眠る前に、今日書いたメモを開く。
今年やってみたいこと
・知らない場所へ行く
・また来たいと思える場所を増やす
・人と話してみる
並んだ文字を見る。
少し笑う。
全部今日増えた。
たった一日だった。
でも、今日の自分は昨日の自分より少し広くなった気がした。
まだ何者にもなっていない。
居場所も見つかっていない。
明日帰ればまた普通の日常だ。
それでもいいかもしれないと思った。
少しずつ広げればいい。
人生って案外、そういうものかもしれない。
窓の外を見る。
夜は静かだった。
優人は目を閉じた。
明日はどこへ行こう。
そんなことを考えながら、ゆっくり眠りに落ちていった。
朝、目が覚めた時、一瞬だけ自分がどこにいるのか分からなかった。
見慣れない天井。
少し違う匂い。
静かな空気。
それから昨日のことを思い出して、優人は少し笑った。
旅行だった。
布団の中で少しだけぼんやりする。
眠いわけじゃない。
急ぐ理由もない。
そういえば最近、こういう朝がなかった気がした。
起きる時間が決まっていて、準備して、電車に乗って、仕事へ行く。
生活が悪いわけじゃない。
でも今日は違った。
今日が何になるか決まっていない朝だった。
起き上がる。
窓を開ける。
空気が入ってくる。
昨日より少し涼しかった。
外を見る。
街はもう起き始めていた。
人が歩いている。
車が動いている。
誰かの日常が始まっている。
優人は支度をして部屋を出た。
宿の食堂で朝ご飯を食べる。
豪華ではない。
でも妙に美味しかった。
宿の女性が笑いながら聞いた。
「昨日どうでした?」
優人は少し考える。
「……なんか、思ったより楽しかったです」
女性は少し笑った。
「それならよかったです」
それだけだった。
会話は終わった。
でも十分だった。
チェックアウトを済ませる。
荷物を持つ。
宿を出る。
女性が見送ってくれる。
「お気をつけて」
優人は少し笑う。
「ありがとうございました」
歩き出す。
少しして振り返る。
宿は変わらずそこにあった。
昨日来た時と同じはずなのに、少しだけ違って見えた。
来年また来る人もいる。
昨日言われた言葉を思い出した。
来年か。
いいかもしれない。
そう思った。
駅へ向かう。
時間はまだ少し早かった。
電車まで余裕がある。
優人は少し寄り道することにした。
駅前の小さなパン屋へ入る。
コーヒーを買う。
外のベンチに座る。
そこで隣に、小学生くらいの男の子と父親が座った。
旅行帰りらしかった。
男の子が楽しそうに話している。
「また来たい!」
父親が笑う。
「じゃあ次はもっと色々行こうか」
「約束?」
「約束」
男の子は満足そうに笑った。
優人は少しだけその会話を聞いていた。
別に感動するような会話じゃない。
普通の会話だった。
でも、少しだけ思った。
また来たいと思える場所があるのって、いいな。
そして、また来たいと思える相手がいるのも、少し羨ましかった。
コーヒーを飲み終える。
立ち上がる。
電車の時間が近づいていた。
駅へ向かう。
ホームへ上がる。
電車が来る。
乗る。
窓際へ座る。
発車する。
景色が少しずつ離れていく。
優人はスマホを開く。
メモを見る。
今年やってみたいこと
・知らない場所へ行く
・また来たいと思える場所を増やす
・人と話してみる
少し考える。
そして、一番下へ追加する。
・また旅に行く
保存。
閉じる。
窓の外を見る。
また来よう。
そう思えた旅だった。
たぶん、それだけども意味はあった。
電車は一定の速度で線路の上を走り続けていた。
行きとは反対方向なのに、不思議と気持ちは違っていた。
来る時は少しだけ期待していた。
帰る今は、少しだけ満たされていた。
別に何か特別な体験をしたわけじゃない。
絶景を見たわけでもないし、人生が変わるような出来事もなかった。
それでも、思っていたより満足している自分がいた。
優人は窓の外を眺めながら考える。
こういう旅も悪くない。
次はもう少し遠くでもいいかもしれない。
温泉もいい。
海もいい。
誰かを誘うのも悪くないかもしれない。
そんなことを考えている自分が少し新鮮だった。
前までなら、帰った瞬間に日常へ戻ることしか考えなかった気がする。
でも今は違った。
帰った後に何をするかを少し考えている。
その違いは思っていたより大きかった。
途中の駅で少し乗客が入れ替わる。
隣の席が空いた。
車内は静かだった。
優人はスマホを取り出して、メモをもう一度開いた。
今年やってみたいこと
・知らない場所へ行く
・また来たいと思える場所を増やす
・人と話してみる
・また旅に行く
少し見つめる。
大したことじゃない。
人生計画でもない。
目標でもない。
でも、悪くなかった。
ふと、下へ書き足したくなる。
少し迷う。
それから入力する。
・何か一つ始める
保存する。
指を止める。
何を始めるかはまだ決めていない。
別に今決めなくてもいいと思った。
決めなくても、少しずつ考えればいい。
そんなふうに思えた。
電車は乗り換え駅へ着く。
優人は立ち上がってホームへ降りた。
まだ家までは少しかかる。
でも急ぐ理由はなかった。
乗り換えまで二十分ほどある。
優人は駅を出ることにした。
知らない駅だった。
少し歩いてみる。
夕方だった。
駅前には人がいて、店があって、普通の生活が流れていた。
少し歩く。
コンビニ。
花屋。
古い喫茶店。
知らない街だった。
でも、昨日の自分なら通り過ぎていた景色を少し見ていた。
道の途中、小さな雑貨屋が目に入った。
店先に手作りらしいキーホルダーや小物が並んでいる。
その中に、小さな木のしおりがあった。
何気なく手に取る。
木目が綺麗だった。
裏を見る。
何も書いていない。
値段も安い。
優人は少し考えて、それを買った。
理由はなかった。
記念とかでもない。
ただ、帰ったあと本に挟んだら、今日を思い出すかもしれないと思った。
店を出る。
袋を持って歩く。
夕方の風が少し吹く。
駅へ戻る。
ホームへ上がる。
もうすぐ電車が来る。
優人はベンチに座る。
ポケットから木のしおりを出して見る。
少し笑う。
子供みたいだなと思った。
でも悪くない。
また来よう。
そう思えた旅だった。
たぶん、それだけでも十分だった。
電車がホームへ入ってくる。
優人は立ち上がった。
電車へ乗り込んだ時、車内には休日の終わりらしい空気が流れていた。
席はところどころ埋まっていて、立っている人も少しいる。誰かと出かけていた人、一人で帰る人、荷物を持っている人、何も持っていない人。みんな違う一日を過ごして、今は同じ方向へ流れているように見えた。
優人は窓際の席へ座った。
荷物を足元へ置いて、背もたれへ身体を預ける。
電車が動き始める。
駅を離れていく。
ホームにいた人たちが後ろへ流れていく。
さっきまでいた場所が、少しずつ遠ざかっていく。
優人はその景色をぼんやり眺めていた。
帰る時って、いつも少し変な気分になる。
家に帰りたい気持ちもある。
でも終わってほしくない気持ちも少しある。
旅行が好きな人って、この感覚が好きなのかもしれないと思った。
終わるから残る。
戻る場所があるから出かける。
そんな単純なことを、最近まであまり考えたことがなかった。
窓の外には、知らない街が流れている。
行きに見た時は知らない景色だった。
でも帰りに見ると少し違った。
名前は知らない。
住んでいる人も知らない。
それなのに、もう一度見た景色というだけで少し親しさがあった。
優人は少し笑う。
人間って案外単純なんだなと思った。
昨日まで存在も知らなかった場所なのに、少し歩いて、人と話して、ご飯を食べただけで、もう完全な他人じゃなくなる。
もし来なかったら、一生関わらなかった景色だった。
そう思うと、少し不思議だった。
優人はポケットからしおりを取り出した。
木のしおり。
買う理由なんてなかった。
旅の記念にしては地味だった。
誰かに見せるものでもない。
でも、こういうものが残る気がした。
何年後かに本を開いた時、ふと今日を思い出す。
展望台。
宿。
食堂。
宿の人の「いってらっしゃい」。
店主の「また来ることあったら寄って」。
名前も知らない人たち。
もう会わないかもしれない人たち。
それでも、少しだけ人生に残る。
優人はしおりを指先で回しながら考える。
居場所って何だろう。
その答えはまだ分からなかった。
家かもしれない。
仕事かもしれない。
誰かといる時間かもしれない。
でも今日少しだけ思った。
居場所って見つけるものじゃなくて、増えていくものなのかもしれない。
一日。
一回。
一人。
そうやって少しずつ。
そう考えると、なんだか安心した。
全部決めなくていい。
今すぐ答えを出さなくていい。
自分の人生はまだ続く。
少しずつやればいい。
そのくらいの速度でいい。
優人はスマホを開く。
メモを見る。
今年やってみたいこと
・知らない場所へ行く
・また来たいと思える場所を増やす
・人と話してみる
・また旅に行く
・何か一つ始める
文字を見つめる。
少し考える。
入力はしない。
代わりに画面を閉じた。
今はまだ決めなくていい。
帰ったら考えよう。
今日の続きみたいに、明日を始めればいい。
窓の外を見る。
夕日が街を照らしていた。
優人は静かにその景色を眺め続けた。
電車は静かに帰る方向へ走り続けていた。
窓の外に流れる景色は、いつの間にか見慣れたものへ変わり始めている。行きに感じていた新鮮さは少し薄れて、その代わりに、帰ってきたという感覚がゆっくり身体の中へ入ってきていた。
優人は窓際に座ったまま、特に何をするでもなく外を眺めていた。
旅が終わる時というのは少し不思議だと思った。
出かける前は、旅って何かを得るものだと思っていた。考え方が変わるとか、人生の転機になるとか、そういう分かりやすい変化があるものだと思っていた。
でも、実際は違った。
持って帰るものなんて案外小さい。
景色を思い出したり、会話を思い出したり、また行きたいと思ったり。
それくらいだった。
でも、そのくらいの変化が生活にはちょうどいいのかもしれない、と今は思えた。
無理に人生を変えなくてもいい。
少し広げればいい。
今日みたいに。
優人は座席に身体を預けながら、帰った後のことを考えていた。
買ったしおりは何の本に挟もうか。
読みかけの本があった気がする。
冷蔵庫、何か入っていただろうか。
洗濯もしないといけない。
そういえば仕事の資料、月曜までだったな。
少し面倒だ。
でも、終わったらまた休みも来る。
次はもう少し遠くへ行ってもいいかもしれない。
海でもいい。
知らない町でもいい。
別に何でもよかった。
何かを楽しみにしている自分が少し面白かった。
そんなことを考えているうちに、乗り換え駅へ到着する。
優人は席を立った。
人の流れへ混ざってホームへ降りる。
改札へ向かう。
エスカレーターを上がる。
人は多かったけれど、慣れた空気だった。
もう旅先じゃない。
日常の延長だった。
次の路線のホームへ着く。
電車が来るまで少し時間があった。
優人は近くのベンチへ腰掛ける。
スマホを取り出す。
何となくメモを開く。
今年やってみたいこと
・知らない場所へ行く
・また来たいと思える場所を増やす
・人と話してみる
・また旅に行く
・何か一つ始める
しばらく見つめる。
何も足さない。
でも、別に続きを書かなくてもいい気がした。
今日全部決めなくていい。
明日でもいい。
来月でもいい。
人生ってたぶん、今日考えたより少し長い。
だから焦らなくていい。
そう思えた。
スマホを閉じる。
顔を上げる。
ホームの向こう側に電車のライトが見えた。
周囲の人たちも少し動き始める。
列が整う。
荷物を持ち直す。
誰かが話している。
アナウンスが流れる。
いつもの景色だった。
本当に、いつもの帰り道だった。
優人は立ち上がって、列の流れに合わせて前へ進む。
その時だった。
最初は何が起きたのか分からなかった。
何か音がした気がした。
誰かの声だった気もする。
空気だけが少し変わった。
反射的に視線を向ける。
線路側。
そこに、小さな子供の姿が見えた。
少し離れた場所に母親がいる。
状況を理解するより先に、身体のどこかが動こうとしていた。
優人は、自分が何を見たのかを理解するまでにほんの一瞬だけ時間がかかった。
視界の端に入った光景が現実のものとして結びつくまで、人の認識というのは少し遅れるらしい。
小さな子供だった。
年齢は分からない。
線路側にいる。
少し離れた場所に大人の姿が見える。
周囲の空気が変わっている。
誰かが声を上げている。
でも、それらは全部後から理解したことだった。
実際には、優人は何も考えていなかった。
考えるより先に身体が動いていた。
正しいことをしようと思ったわけじゃない。
勇気があったわけでもない。
むしろ後から振り返れば、自分でも不思議なくらい自然だった。
誰かが困っている。
身体が動く。
ただそれだけだった。
優人は人の流れから少し外れて前へ出る。
周囲の景色が急に遠くなる。
声が聞こえる。
でも意味として入ってこない。
視界の中には子供しかいなかった。
数秒だったのかもしれない。
もっと短かったのかもしれない。
でも、その瞬間だけ時間の感じ方が少し変わった。
優人は思った。
そういえば、今日は変な日だった。
なんとなく旅に出た。
知らない人と話した。
また来ようと思った。
帰ったら何か始めようと思った。
そんな日だった。
少し前まで、毎日が同じだと思っていた。
でも違った。
今日だけでも色々あった。
人生って案外変わるんだなと、そんなことを思っていた。
変なタイミングだな、と少しだけ思った。
足が動く。
空気が動く。
近くなる。
誰かが叫んでいる。
優人はその時、怖いとは思っていなかった。
何かを失うとも思っていなかった。
ただ、本当に普通に考えていた。
帰ったら、あのしおりを本に挟もう。
次はどこへ行こう。
今日のこと、母に少し話してみよう。
仕事、まあ頑張るか。
そんな、生活の続きのことだった。
だから最後まで、自分の人生がここで終わるなんて想像もしなかった。
視界が大きく動く。
音が遠くなる。
光が混ざる。
身体の感覚が少し曖昧になる。
その瞬間。
優人の頭の中に、昨日会った人たちの顔が浮かんだ。
展望台の男性。
宿の人。
食堂の店主。
名前も知らない。
もう会わないかもしれない。
それでも少し人生に残る人たち。
その時、不思議と寂しくなかった。
まだ全然足りないけど。
まだやりたいこともあるけど。
でも、悪くない二十五年だったのかもしれない。
そんなことを思った。
視界の端に夕方の光が見える。
今日と同じ色だった。
そして。
その光は、静かに白へ変わっていった。
身体の感覚も、音も、時間も、少しずつ遠ざかっていく。
怖さはなかった。
理解も追いついていなかった。
ただ、何か大きなものが静かに切り替わっていく感覚だけがあった。
優人は最後に何かを考えようとした。
でも、浮かんできたのは立派な言葉じゃなかった。
帰ったら本読もうとか。
また旅したいなとか。
そんな生活の続きだった。
それが少し可笑しかった。
人生の終わりなんて考えたことがなかったのに、もし本当に終わる瞬間があるとしても、人間は案外普通のことを考えるのかもしれない。
意識が少しずつ遠くなる。
景色が溶ける。
夕方の光が広がる。
優人はその光の中で、ふと一つだけ思った。
居場所って、結局最後まで分からなかったな。
でも。
探している途中も、そんなに悪くなかった。
その感覚だけが静かに残る。
光が白くなる。
音が消える。
何もなくなる。
そして。
どれくらい時間が経ったのか分からないまま、意識のどこか遠くで、誰かの声が聞こえた。
知らない言葉だった。
意味は分からない。
けれど不思議と、その声には少し安心する響きがあった。
柔らかい。
近い。
誰かが笑っている。
もう一度、声が聞こえる。
今度は少しだけ分かった。
呼ばれている。
誰かを。
名前を。
――アルベルト。
第0話 終
初めて書いてみました。よかったら読んでください。




