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生意気な教え子が、僕の知らない男に「躾けられる」まで――勘違い家庭教師の終わった春――  作者: 猫野 にくきゅう
第二章 小学生、初恋編

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第2話 星の侵入者

 小学校五年。


 それは、昨日まで泥だらけになって遊んでいた男子が急に色気づいたり、女子がひそひそと恋バナに興じたりと、子供たちの世界に「性差」という名の不透明な壁が立ち上がり始める季節だった。


 僕と佐々木陽葵の間にある壁は、そのどれよりも厚く、そして冷たかった。


 隣同士の家に住んでいるという事実は、もはや僕たちを繋ぐ鎖ではなく、逃げ場のない檻のように僕を縛り付けていた。


 朝、家を出る時間をずらす。通学路で彼女の背中を見つけても、決して足早に追いかけたりはしない。かつてはあんなに自然に繋いでいた小指も、今では触れることさえ想像できないほど遠い場所にある。


 僕が幼稚園の時の「約束」を心の拠り所にすればするほど、現実の彼女との距離は、天文学的な数字となって膨れ上がっていった。


 そんな淀んだ僕の日常に、眩しすぎるほどの「光」が飛び込んできたのは、五月の抜けるような青空の日だった。


「よっ、佐々木! これ、昨日のプリント。机に入れといたぞ」


 サッカー部のエース、速水翼の声が教室に響く。


 彼は、僕が逆立ちしても手に入れられないものをすべて持っていた。

 日に焼けた精悍な顔立ち、運動会で走れば女子から黄色い声が上がる脚力、そして何より、誰にでも分け隔てなく接する、あの眩しいほどの「善良さ」だ。


「あ、翼君。ありがとう」


 陽葵が顔を上げる。

 その瞬間、僕は心臓を冷たい手で掴まれたような感覚に陥った。


 陽葵の頬が、微かに、けれど確かな熱を持って赤らんでいたからだ。

 僕に向ける時の、あの「隣の家の石ころ」でも見るような無関心な瞳とは違う、潤んだ、期待に満ちた眼差し。


「なあ、今度の土曜日、地区大会の決勝なんだ。もし暇だったら……見に来てくれないか?」


 翼は少し照れたように頭を掻きながら言った。


 彼に悪気はない。

 彼にとって、陽葵は「クラスの可愛い女の子」の一人であり、僕という存在は、その隣に座っている「本ばかり読んでいる大人しい奴」に過ぎないのだ。


「えー、どうしようかな。その日は習い事もあるし……」


 陽葵はわざと困ったような顔をして、指先で髪を弄ぶ。


 嘘だ。


 土曜日の午後は彼女の習い事はない。

 隣に住んでいる僕は、彼女の生活リズムを、ストーカーじみた正確さで把握している。彼女は、翼に「もっと強く誘ってほしい」と願っているのだ。


「そんなこと言うなよ。佐々木が来ないと、ゴール決められる気がしないんだ」


「もう、大げさなんだから……。じゃあ、ちょっとだけ、行ってみようかな」


 くすくすと笑う陽葵の顔。

 それは、僕が一度も見ることのできなかった、背伸びをした「一人の女」の顔だった。


 僕は二人の会話を、死んだふりをしてやり過ごすしかなかった。


 机に広げた算数の教科書。

 図形の証明問題なんて、今の僕にはどうでもよかった。


 右手に持ったシャープペンシルの先を、教科書の余白に突き立てる。


 ぐりぐりと、渦を巻くように。

 黒いインクが紙を汚し、僕の心の闇を形にしていく。


(大丈夫だ。あの約束がある。指切りをしたんだ。約束をたがえれば、針千本飲むんだ。彼女は僕と結婚するんだ)


 脳内で繰り返される呪文は、現実の二人の弾むような会話によって、無惨にもかき消されていく。


 翼が陽葵の肩を軽く叩く。

 陽葵がそれを受け入れ、楽しそうに肩をすぼめる。


 その光景の一つひとつが、僕の小指に刻まれたはずの「感触」を、古臭い、価値のないガラクタへと変えていく。


「おっ、板ノ上、熱心だな。そんなに難しいか、その問題?」


 不意に、翼が僕の机を覗き込んできた。


 彼の瞳に嘲笑の文字はない。

 ただ純粋に、クラスメイトを心配するような、どこまでも「いい奴」の目だ。


「……いや、別に。ただの落書きだよ」


 僕は慌てて教科書を閉じた。

 真っ黒に塗りつぶされた渦巻きを見られるのは、自分の内臓を晒すよりも恥ずかしかった。


「そっか。板ノ上も今度、一緒にサッカーやろうぜ。お前、足長いからディフェンダーとか向いてると思うんだ」


 翼は僕の肩を、陽葵にしたのと同じように、ポンと叩いた。


 彼の熱が、服越しに伝わってくる。

 その温かさが、僕を情けなさで窒息させそうにした。


 彼は僕をライバルだとも思っていない。

 僕が陽葵をどう思っているかなんて、これっぽっちも想像していない。


 僕は彼にとって、ただの「善良に接すべき背景」でしかないのだ。


「……うん。いつか、ね」


 絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。

 陽葵は僕の顔を見ようともしなかった。彼女の視界は、もう、眩しい星のような翼によって完全に占領されていたのだから。


 僕はただ、閉じた教科書の表紙をなでながら、自分の鼓動をやり過ごすことしかできなかった。


 砂場に描いた約束の線が、土足で踏み荒らされていく音が、静かな教室内で僕にだけ聞こえていた。

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