第八話
退院は、思っていたよりも早かった。
大きな怪我はなく、検査でも異常は見つからなかったからだと医師は言ったけれど、
私自身には、それがまるで夢だったかのような“早送りの現実”に感じられた。
母は何度も私に「怖かったんだから」と言い聞かせるように繰り返しながら、
その実、何かを確かめたいような目で私を見ていた。
私は、何も言わなかった。
少女のことも、あの夜のことも。
話してしまえば、きっと“おかしい子”になってしまう。
私の中にだけ残っている記憶が、薄く壊れてしまいそうで——
私はそれを守るように、黙っていた。
数日が経った。
昼間の空は夏らしく、白く焼けるような青だった。
空を見上げるたびに、あの夜のことを思い出してしまう。
あの足場、あの声、あの手の温度。
けれど、それは私の中にしか残っていなかった。
そんなある日。
母が、帰宅した私を玄関で呼び止めた。
「ねえ、ちょっと来て」
声のトーンがいつもと違っていた。
何かを飲み込んで、慎重に言葉を選ぼうとしているような話し方だった。
私は靴を脱ぎながら、静かに頷いた。
居間のテーブルの上に、紙が一枚、置かれていた。
母が椅子に座りながら言った。
「これ、さっきポストに入ってたの。隣のアパートの人からみたい」
私は首をかしげて、紙を手に取った。
それは手書きのメモだった。ボールペンの字で、整っていて、急いで書かれた感じではない。
──先日の夜、お嬢さんが落ちたという時間、
向かいの部屋のベランダに、もう一人の女の子が立っていたのを見ました。
お嬢さんが、手を引かれて出て行くのを見ました。
夢でも見たのかと思っていたのですが、気になって書いてしまいました。
見間違いかもしれませんが、どうかお大事に。
私の指先が、震えた。