第四話
少女は、変わらずその場に立っていた。
月明かりの下、細い影を引きながら、じっと私を見ていた。
私が近づくと、彼女はほんの少しだけ視線を落とした。
髪がその横顔に影を落とし、その一瞬で、私はまた奇妙な感情に囚われた。
懐かしい。
そう思った。
初めて会ったはずなのに、どこかでこの子を見たことがある。会話をしたことがある。笑い合ったことすらあったような……そんな気がした。
けれど、名前も、声も、記憶の中には何もなかった。
懐かしさの中に、違和感が混ざっていた。
思い出せそうで、思い出せない。確かに何かを忘れている気がするのに、それが何なのかに触れることができない。
まるで、夢の中で知っていた誰かを、現実で見つけたような——
馴染んでいるのに、輪郭だけがどこか歪んでいるような感覚だった。
私は彼女の目の前で立ち止まった。
「……やっと、来てくれた」
少女がそう言ったとき、その声は胸の奥で響いた。
耳に届くというより、心に触れるような、不思議な音の広がり方だった。
「ずっと、待ってたんだよ。ここで」
私はうまく言葉を返せなかった。喉がきゅっと締まるような、そんな感覚があった。
何かを思い出さなければいけない気がしていた。けれど、記憶は霧の中にあって、手が届かなかった。
「私のこと……忘れてる?」
少女の声は穏やかだった。怒っているわけでも、責めているわけでもない。ただ、確かめるように。
それなのに、私はその問いかけに、すぐには答えられなかった。
口を開こうとして、声が出なかった。
言いたいことはある気がした。でも、その言葉たちは喉の奥でばらばらに崩れて、
どこにも届かないまま消えてしまった。
「……あの……」
声を出そうとした瞬間、自分の呼吸音がやけに大きく感じられた。
胸の奥がきゅうっと縮こまる。喉が乾いて、舌が重くなった。
伝えたいのに、言葉がまるで知らない言語のように遠く、形にならない。
思考が濁っていた。
何かを思い出しそうな感覚と、知らないはずのものに触れてしまったような戸惑いが、
頭の中で、ぶつかりあっていた。
懐かしい。
でも、わからない。
この子を知っているような気がする。
けれど、それがどこからくる感情なのか、私には説明できなかった。
心のどこかがざわついていて、口元だけがじっと固まっていた。
少女は、じっと私を見ていた。
沈黙を責めることもなく、ただ待っていた。
私は、ほんの少し唇を動かして、ようやくたどり着いた一言を、ゆっくりと吐き出した。
「……ごめん」
たったそれだけだった。
けれど、それが今の私に言える、唯一の、正直な言葉だった。
少女は、やわらかく微笑んだ。
「いいよ。そうだと思ってたから」
風がそっと吹いた。少女のワンピースの裾が、空に揺れた。
私はその姿を見つめながら、なぜここに来たのかを考えていた。
彼女が「来て」と言ったから、それだけだった。
それだけなのに、私はなぜか、それが正しいことのように思えてしまった。
彼女が、手を伸ばした。
私は反射的に、その手に触れた。
指先は、ひんやりとしていた。
けれど、完全な冷たさではなかった。
冷たい水に長く手を浸したあとみたいな、内側に熱を隠しているような感触。
それは、生きている手だった。夢では感じられないはずの、たしかな温度があった。
でも、同時に、現実とは少しだけ違う質感もあった。
骨の感触も、筋肉の重みも、感じるのに。
でもどこか、指の奥まで触れることはできないような——
まるで、膜の向こうにある手を触っているような、不思議な隔たりがあった。
「ほんの少しだけ、あなたと話したかったの」
彼女がそう言ったとき、私は頷いていた。
その理由を訊ねようとしたとき、彼女は微笑んだ。
「あなたは、きっと来てくれると思ってたの。思い出せなくても、きっと」
その言葉に、私は何も返せなかった。
でもたしかに、胸の奥がぎゅっと掴まれるような感覚があった。