表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あの子と私  作者: N
4/14

第四話

少女は、変わらずその場に立っていた。


 月明かりの下、細い影を引きながら、じっと私を見ていた。


 私が近づくと、彼女はほんの少しだけ視線を落とした。

 髪がその横顔に影を落とし、その一瞬で、私はまた奇妙な感情に囚われた。


 


 懐かしい。


 そう思った。

 初めて会ったはずなのに、どこかでこの子を見たことがある。会話をしたことがある。笑い合ったことすらあったような……そんな気がした。


 けれど、名前も、声も、記憶の中には何もなかった。


 懐かしさの中に、違和感が混ざっていた。

 思い出せそうで、思い出せない。確かに何かを忘れている気がするのに、それが何なのかに触れることができない。


 まるで、夢の中で知っていた誰かを、現実で見つけたような——

 馴染んでいるのに、輪郭だけがどこか歪んでいるような感覚だった。


 


 私は彼女の目の前で立ち止まった。


 「……やっと、来てくれた」


 少女がそう言ったとき、その声は胸の奥で響いた。

 耳に届くというより、心に触れるような、不思議な音の広がり方だった。


 「ずっと、待ってたんだよ。ここで」


 私はうまく言葉を返せなかった。喉がきゅっと締まるような、そんな感覚があった。


 何かを思い出さなければいけない気がしていた。けれど、記憶は霧の中にあって、手が届かなかった。


  「私のこと……忘れてる?」


 少女の声は穏やかだった。怒っているわけでも、責めているわけでもない。ただ、確かめるように。

 それなのに、私はその問いかけに、すぐには答えられなかった。


 口を開こうとして、声が出なかった。


 言いたいことはある気がした。でも、その言葉たちは喉の奥でばらばらに崩れて、

 どこにも届かないまま消えてしまった。


 「……あの……」


 声を出そうとした瞬間、自分の呼吸音がやけに大きく感じられた。

 胸の奥がきゅうっと縮こまる。喉が乾いて、舌が重くなった。

 伝えたいのに、言葉がまるで知らない言語のように遠く、形にならない。


 思考が濁っていた。

 何かを思い出しそうな感覚と、知らないはずのものに触れてしまったような戸惑いが、

 頭の中で、ぶつかりあっていた。


 懐かしい。

 でも、わからない。


 この子を知っているような気がする。

 けれど、それがどこからくる感情なのか、私には説明できなかった。


 心のどこかがざわついていて、口元だけがじっと固まっていた。


 少女は、じっと私を見ていた。

 沈黙を責めることもなく、ただ待っていた。


 私は、ほんの少し唇を動かして、ようやくたどり着いた一言を、ゆっくりと吐き出した。


 「……ごめん」


 たったそれだけだった。

 けれど、それが今の私に言える、唯一の、正直な言葉だった。


 少女は、やわらかく微笑んだ。


 「いいよ。そうだと思ってたから」


 風がそっと吹いた。少女のワンピースの裾が、空に揺れた。


 私はその姿を見つめながら、なぜここに来たのかを考えていた。

 彼女が「来て」と言ったから、それだけだった。

 それだけなのに、私はなぜか、それが正しいことのように思えてしまった。


 彼女が、手を伸ばした。


 私は反射的に、その手に触れた。


 


 指先は、ひんやりとしていた。

 けれど、完全な冷たさではなかった。

 冷たい水に長く手を浸したあとみたいな、内側に熱を隠しているような感触。

 それは、生きている手だった。夢では感じられないはずの、たしかな温度があった。


 でも、同時に、現実とは少しだけ違う質感もあった。


 骨の感触も、筋肉の重みも、感じるのに。

 でもどこか、指の奥まで触れることはできないような——

 まるで、膜の向こうにある手を触っているような、不思議な隔たりがあった。


 


 「ほんの少しだけ、あなたと話したかったの」


 彼女がそう言ったとき、私は頷いていた。


 その理由を訊ねようとしたとき、彼女は微笑んだ。


 「あなたは、きっと来てくれると思ってたの。思い出せなくても、きっと」


 その言葉に、私は何も返せなかった。


 でもたしかに、胸の奥がぎゅっと掴まれるような感覚があった。


 


 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ