第二話
その夜、窓を開けたのは、ただ暑かったからだった。
エアコンのリモコンは手の届く場所にあった。でも、ボタンを押す気にはなれなかった。
部屋に漂う空気はどこか重たく、呼吸をするたびに、胸の奥がじわりと熱を持つような感覚があった。
冷たい風に逃げ込むより、むしろ、生ぬるくても“外”の空気に触れたくなった。そんな夜だった。
私はベッドから身体を起こして、カーテンをそっと押しのけた。
窓を開けると、わずかに湿った風が、頬に触れた。
ぬるいけれど、閉ざされた部屋の中に流れ込むその風は、妙に心地よかった。
六階のベランダから見える景色は、変わり映えしない。
向かいのアパートの窓はほとんどが暗く、いくつかの部屋にだけ、まだ明かりが灯っていた。
薄いカーテン越しに、テレビの明滅が見える。笑い声は聞こえなかったけれど、人の気配はあった。
空には、雲の切れ間から月が覗いていた。
満月に少し足りない。けれど、白く澄んだ光が、ベランダの柵やプランターの影を長く伸ばしていた。
私は、ベランダの手すりに両腕をのせた。
誰かに会いたいとか、何かをしたいとか、そういう感情はなかった。ただ、夜に少しだけすくわれたかった。
風の音と、自分の鼓動だけが、やけに静かに響いていた。
「……ねえ」
その声が聞こえたとき、私は一瞬、自分の思考の中から聞こえたのかと思った。
静かな部屋の中。テレビも音楽も何も流れていない。
私は誰とも話していない。スマホの通知音すら鳴っていなかった。
だからこそ、その声だけが、はっきりと異物だった。
空気の振動と共に、耳の奥でささやかれたような——
風に紛れて、でも確かに“意味”を持った音。
私は反射的に後ろを振り返った。
部屋には誰もいない。
薄暗いままの照明と、整えていないベッドがあるだけだった。
「……こっち、見て」
今度は、明確だった。
その声は、少女のものだった。
高すぎず、幼すぎず。透明なガラスをひとつ挟んだような、少しだけ遠くから聞こえる声。
なのに、言葉は不思議と輪郭がはっきりしていて、胸の奥にそっと沈んでくるようだった。
私はゆっくりと、ベランダの外を見た。
そして、目を疑った。
そこに、少女が立っていた。
六階と六階のあいだ、空中に浮かぶように。
向かいのアパートの屋上と、私のベランダを結ぶ何もない空間に、まるで見えない橋の上にでもいるかのように。
少女の髪は、肩にかかるくらいの長さだった。風になびいて、月の光を柔らかく反射していた。
白いワンピースを着ていた。レースの裾が軽く揺れて、膝下がすっと細く伸びていた。素足だった。
その服は、どこかで見たことがあるような古いデザインだった。
でも、古臭くはなかった。不思議と、似合っていた。
まるで、彼女がそのまま“夜”から生まれてきたような、そんな自然さだった。
彼女は、私を見ていた。真っ直ぐに。
顔立ちはよく見えなかった。月明かりが届かない場所に、ちょうど顔のあたりだけが影になっていたから。
でも、その目線だけははっきりと感じた。
他の誰でもない、“私”を見ていると、確信できるほどに。