第一話
「幽霊って、いると思う?」
大学の友人にそう尋ねられたのは、夕方のカフェだった。
テーブルには飲みかけのアイスコーヒーと、話の流れで頼んだケーキが並んでいる。店内は静かで、遠くで流れるピアノのBGMだけが空気を揺らしていた。
誰が言い出したのか、はっきりとは覚えていない。そういう話題にありがちな、唐突さだった。
心霊特集の番組の話だったかもしれないし、大学の古い建物での噂話だったかもしれない。あるいは、ただの思いつき。
私はすぐには答えなかった。
窓の外では、風に揺れる街路樹がゆっくりと影を落としていた。学生たちが通り過ぎていく。にぎやかで、現実的で、何もかもが「今ここにある」顔をしていた。
でも私の心だけは、ほんの一瞬、別の場所にいた。
あの夜のことが、頭の奥でふっと顔を出したのだ。
あの、風の強かった夜。窓の外から声が聞こえたこと。
見てはいけないものを見て、立ってはいけない場所に立ったこと。
そして、誰にも信じてもらえなかったこと。
「私はね……」
かろうじて口を開いて、言いかけて、やめた。
言葉にしようとすると、なぜかその記憶が遠のいていく気がするのだ。まるで、声にした瞬間にそれが“ただの話”になってしまうような、そんな怖さがあった。
誰にも話してこなかった。話したところで信じてもらえないとも思っていたし、何より、自分の中のあの夜を壊したくなかった。
でも、それでも。
たまに、こうしてふいに聞かれると、話してみたくなることがある。
「……ううん、ごめん。何でもない」
私は笑ってそう言って、アイスコーヒーのストローをくるりと回した。氷が小さく音を立てた。
でも、心の奥底では、ずっと誰かに言いたかった。
あれは幻覚なんかじゃなかった。
たしかに、私はあの夜、誰かに会ったのだ。
名前も知らない、でもどこか懐かしい声で呼んでくれた、あの子に——
今でも、夜になるとときどき思い出すことがある。
窓の外の闇の中に、あの子の気配を感じることがある。
すべてが夢だったとしても、私は忘れたくない。
だから、今だけ。ほんの少しだけ、その話をしてもいいだろうか。
「昔、こんなことがあったんだ」
物語のように始めてしまうけれど、これは私にとって、たしかにあった現実だ。