第九話
しかし、小石を投げた主を見て琥珀ははっとした。
目の前には息を上げ、焦り怒った表情の怜がいたからだ。
「珀こそ何しているんですか!!それには毒があるんですよッ!?」
そう言われ、琥珀は手に持っているキノコをおそるおそる見た。
「…………毒?」
言われてみれば色鮮やかなソレは、顔などついていないはずなのにニヤニヤしながら琥珀をバカにしているように見える。
「石を投げたのは謝ります。ですが珀さん、なんでもかんでも口にするのは危険過ぎます!もう少し自分の身体を大事にしてくださいッ!!」
怜はようやく落ち着きを取り戻し、はーっとため息をついたかと思えば望月のようにブツブツと小言を言い始めた。
しかし、口にしていればおそらく琥珀はこの世とオサラバしていただろうから、「………はい。」と静かに聞くしかなかった。
ひとしきり言い終わってようやく気が済んだ怜は我に返り、あれ?と言った。
「珀さん、そういえば何でこんな所にいるのですか?この山は人が寄りつかないことで知られているのに」
琥珀は毒キノコに当たりそうになっていたことに頭が一杯になっていたが、ようやくこの山に来た理由を思い出した。怜に会いに来たこと、あの男からこの場所を教えてもらったことを話した。
「…李久もこんなところに珀を連れてくるなんて…。何を考えてるんだか。申し訳ないです……。」
怜は再びはぁ…と溜息をついた。しかし、今度の溜息は琥珀に向けたものではなかった。
あの男は李久というらしい。琥珀とてなぜ李久が琥珀をこの場所によこしたのかは分からない。
「まあ、でも俺は怜に会えたわけだし、汚れることだって気にした事ないから、全然問題ないよ」
そうは言ったものの、他人から見れば今の琥珀は相当汚れていて、まるで野良犬のようだ。
怜は眉を八の字にしたまま肩にかけていた荷物から手拭いを取り出して、さっき琥珀がキノコを洗った湧水で濡らした。
「すみません…失礼します。」
あまりにも綺麗な顔が近づいてきたため、琥珀は思わず唾をのみ、少し後ずさってしまった。頬が熱くなり、心臓が跳ねるのを感じた。あらゆる美人を手玉にとってきた琥珀でさえこうなるのだ。常人であれば立っていられないだろう。
怜は左手で琥珀の頬にそっと触れ、右手で土や泥で汚れた琥珀の顔を拭った。
触れられた手は白く、指は触れたら折れてしまいそうなほど繊細だった。
手拭いの冷たさにビクついた琥珀だったが、対照に怜の手はあたたかく、その手つきはまるで幼い頃母親にしてもらったような優しさだった。
目の前にある怜の瞳はどこまでも黒く、淀みなど一切ない澄んだ瞳で、一度目を合わせたら離すことなどできないくらい引き込まれてしまう。
琥珀があまりにも長い時間見つめるため、怜は不思議に思い、やっと自分と琥珀の距離の近さに気付いた。パッと赤面し、「すみませんッ………!」と兎が跳ねるように後ずさった。いくら男同士とはいえ、こんなにも近いとさすがに照れくさくなってしまう。
「すみません…さすがに不躾でした…。」
そう言う怜は耳まで真っ赤にし、モジモジして頭を下げている。
どうやら怜は昨日の件と言い、無意識にこのような事をしてしまうケがあるみたいだ。
そんなところも何だか可笑しく思えてきて、琥珀はププッとあっけらかんに笑った。
「大丈夫大丈夫ッ!!ありがとう心配してくれて!怜のおかげで綺麗になったし、ほら!」
琥珀は自分の顔を指してそう言った。励ましではなく本当に琥珀の顔はすっかり綺麗になっていた。
怜はあまり気持ちの切り替えが上手い方ではないらしく、まだ恥ずかしげにしているが、呑気な琥珀につられてにこりと笑ってくれた。
そんな様子の怜にホッとした琥珀は、怜に会うまでずっと気になっていたことを思い出した。
「…それにしても怜、君こそ何でこんな山にいるんだ?今日は医学塾も休んでるって聞いたし。…まさかサボりとかっ!?」
琥珀はどうしても自分と怜を同じ属性の人間にしたいらしく、期待を込めて怜に詰め寄った。
しかし、琥珀の淡い期待は呆気なく消え失せた。
「いえ、今日は父の知り合いの薬屋で働く日なんです。私はまだ医学の勉強中なので薬師の指示通りの薬草を摘んでくるだけですが…」
よく見ると、怜は丸い籠を背負っており、その中には薬草と思われるものがたくさん入っていた。独特な香りを放っている。
しかし、琥珀は頭に?が浮かんだ。
「勉強してるのに…更に働いてるのか?え、あいつ…李久もそうなのか?」
琥珀はうっかり李久のことを"あいつ"と呼んでしまった。琥珀は李久よりも年下なうえに、怜の大事な学友だというのに、琥珀は思わずしまった、と思った。
だが怜は意外とそんな細かいことは気にしないのか、そもそも気付いていないのか、何も反応なく話し続けた。
「彼を含め私以外は勉強に専念していますよ。ですが私の家は貧しくて、日々の暮らしで精一杯なのです。だから、あのような場で勉強したければ自分で工面していく他ないです。」
もう用は済んだので下りましょう、と言って怜が進み出したため、琥珀は何も言わず後をついて行った。
何も言えなかったのは、同じ歳で、同じ国に住んでいるというのに、かたや自分で働いてまで勉強したいと言う怜、かたや完璧なまでに恵まれた環境にも関わらず反抗してサボる自分がいることに対して、罪悪感に苛まれたからだ。
自分がどんなに恵まれているのかなど当然理解しており、その上で今に至っているわけではあるが、いざ目の当たりにして平気でいられるほど面の皮は厚くない。
怜はよくここへ来ているらしく、草木の茂みが控えめな道をよく知っているみたいだ。琥珀はあんなに汚れるほどの獣道をかき分けてきたのに、怜の後ろについて行った帰り道は傷一つなく平和に下ることができた。