第七十六話
「…………違う違う違う、私ではない。私がやったのではない、皆も蓮司だと言っているではないか」
雨が降り、じとりとした重苦しい空気が漂う離宮。
一人の男が正気を失っているのか、部屋の隅で丸まり、ぶつぶつぶつぶつと何回も同じ言葉を繰り返している。
「青藍を殺めたのは蓮司だ……私は何も知らない。知らない知らない知らない」
その様子はあまりにも狂気的で、通りすがりの者が見たらまるで妖怪のようであろう。
「_____黒蛇様」
戸の向こうから誰かの声が聞こえ、黒蛇はガバッと状態を起こした。
「………誰だ、誰だ誰だ誰だ!!?私を捕まえにきたのか!?違う、私ではない!私ではないのだ!!」
黒蛇は気が触れたかのように叫び出したかと思えば、側にあった座布団で頭を隠し、害虫のように部屋中を這いつくばって逃げ回った。
何か叫んではいるが、もはや言葉ではない。
「黒蛇様」
戸を開け現れたのは、いつも通り澄ました顔をした清氏と、もはや清氏の影と化している伴氏であった。
清氏は逃げ回る黒蛇の片足を掴み制止させた。
急に動きを止められた黒蛇はまるで踏まれた蛙のような鳴き声でべちゃんと床に叩きつけられた。
「………貴方という方は、少しの自尊心もないのですか?こんな姿を他人に見られ、恥を感じないのですか」
聞き覚えのある声に反応し、黒蛇は急に起き上がり、まるで神仏にすがるような視線を清氏に向け、清氏の衣の裾を狂ったように引っ張った。
「清殿………!!やっと来てくれた………其方を待っていたのだ!」
「ほう、私を。なぜでしょう?」
不気味な笑顔を向けている黒蛇に対し、清氏は至って冷静に言葉を続けた。
こんな様子の人間に怯えないのはこの国を探しても清氏ぐらいだろう。
「私の頭の中から声が聞こえてきてしょうがないのだ!!青藍は………私が殺したと!!」
「それで?」
「其方なら分かるだろう!?私はやってない!!やったのは蓮司だよな!?」
「何のことでしょう?青藍様の死はまだ調査中らしく、私は何も分かりませんが」
「…………は?清殿、何を言って、」
わなわな震え出す黒蛇に対して、清氏は淡々としている。
「黒蛇様、そんなことをおっしゃるなど青藍様の死に何か関係があるのですか?」
「なっ………!!いや違う!私ではない!!そうだ、其方だ!これは其方が提案してきたことで、毒も其方が準備した!!お前だ!お前が青藍を殺したのだ!!」
黒蛇はやっと清氏の裾から手を離したかと思えば、手を天に掲げ馬鹿笑いし始めた。その様子の不気味さと耳にツンとくる甲高い声。
清氏は顔色一つ変えないが、伴氏は気持ち悪さと怒りで爆発しそうだった。
一歩前に出ようとした伴氏を制止し、清氏は前に出た。
そして、パァンッと鋭い音で黒蛇の頰を平手打ちした。
伴氏も、そして打たれた黒蛇さえも、自分が何をされたのか理解できなかった。
あまりの強さに姿勢を崩した黒蛇は、しばらく呆然とした後、キッと目つきを変えた。
「おまえッ!!おまえおまえおまえ!!いま、このわたしをぶったな!?たかがきぞくにすぎないおまえが、おうぞくであるこのこくじゃさまをなぐったのか!!?」
まるで酒に酔っているかのように顔を真っ赤にして、呂律も回っておらず、怖さは全くない。
「おまえもれんじといっしょにしけいだしけっ……」
清氏は黒蛇の言葉には一瞥もくれず、ガッと胸ぐらを掴んだ。
「私は貴方に確認しましたよね?”私は何も指示していません。貴方がやると言ったのです“と。貴方、それで自分がやると言ったんだ!と豪語しましたよね?」
清氏は胸ぐらを更に強く掴んだ。
「貴方が忘れていても、私は忘れていません。私が話した冗談を、まさか貴方がやると言うなんて思いもしませんでしたから」
「じょ……うだん?」
黒蛇の顔は希望の光を失って蒼白になった。
恐怖からなのか、怒りからなのか分からないが、ガタガタ震えている。
「………じゃ、じゃあ」
「何です?」
胸ぐらを掴まれて、少し冷静になったのか、黒蛇は息切れしながらも口を開いた。
「あのっ毒は………死ぬようなものじゃなかったはずだ……それなのになぜ青藍は死んだ?やっぱり毒で弱った青藍に、蓮司が手を下したんだよな?な?………そうだろう?」
清氏はうーん、とわざとらしく考えるふりをした。
「青藍様に外傷はなし、更に検出された毒物も一種類のみと聞いております。それゆえ、蓮司が何か手を下した可能性は低いかと」
黒蛇の震えが一層激しくなる。
「………じゃあ、其方が劇薬を、」
「いいえ、それもあり得ませんね」
清氏は、自らの顔を黒蛇に近づけた。
「黒蛇様、よく思い出してみてください。貴方、本当にあの毒を使いました?」
「………え?」
「………どうも違うのですよ、検出された毒と用意した毒が。もしや貴方、恨みが強いあまり別の毒を用いました?」
「は………そんな、わけ、な……」
「本当に?」
清氏は黒蛇の瞳を覗き込んだ。
清氏の視線はまるで脳まで支配されるような気分になり、ついには目がまわるような感覚に襲われる。
黒蛇は記憶を辿りたくても、上手く辿れず、清氏の言葉ばかりが思考をめぐる。
(別の毒………?私が使ったのか?兄上を奪う者たちがあまりにも憎かったから?)
もはや黒蛇には、正常な思考回路など残っていなかった。
「………しれない」
「何です?」
「使った………?のかもしれない」




