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紫苑に露  作者: 花信風描
第七章 落花
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第七十三話

もう琥珀の心の中はめちゃくちゃだった。

悲しみなのか、はたまた怒りなのか。あらゆる方向から押し寄せて止まることはなく、琥珀を飲み込んでいく。

助けを求めて手を伸ばそうとも、握ってくれる手はなかった。唯一の救いであった青藍はもういないのだ。



「……こんなとこにあったとはな」


今まで監獄になど訪れたことなどなかった。

王家の人間が近づくべき場所ではないし、琥珀は“そういう”ものからは目を背けて、見たいものだけ見るような都合のよい生き方をしてきたからかもしれない。

それなのに、琥珀の足はまるで毎日通っている場所かのように迷いなく進んでいる。

自らを突き動かしているのが何なのか、琥珀自身も分からなかった。



『ッ………!?嘘だろ!』


『おい!何で琥珀様がこんなところにいるんだよ!!』


『お前ら!静かにっ!!近づいてきた!』


『まさか……通せ、と言うんじゃないだろうな……』



琥珀は門番の者の前に立った。

六人ほどいるが、皆面白いぐらい青白い顔になっている。


「……琥珀様。こんなところにお越しになるとは…どうされたのですか?」


はあ、琥珀はわざとらしく溜息をついた。

「分かってるくせに、なぜ聞くんだ?」


「今すぐ通せ」

琥珀は一語一句はっきりと言った。


門番たちは皆青白い顔のまま顔を見合わせ、コソコソオロオロとしている。屈強な身体つきの男がひ弱な少女のように振る舞う姿はあまりにも滑稽だった。


琥珀も思わずその様子に吹き出した。

「おいおい、お前ら如きが俺に逆らうっての?王様が何だって?知らねえよ、通せって言ってんだろうが!!」


((ヒッ!!!!))

門番たちは肩をビクつかせ怯えた。

言われている相手がもし猛龍王なら、いつものことだ、と皆もはや怯えないだろう。

しかし、今の相手は“あの”阿呆者だと言われている琥珀だ。

そんな者が、見たこともないようなおぞましい顔で、怒号をあげるものだから、驚きと怖さで震え上がるしかない。


((やはり王様の息子だ………))

この場にいる誰もがそう思った。

ここを通せば、後から猛龍に責められるかもしれない。けれど、彼らにとっては今この場の琥珀の方が余程何をしでかすか分からず恐怖を感じた。


彼らはまたちらりとお互いを見合って、唾を飲みながらコクリと頷いた。


彼らは何も言うことなく、スっと身体を背けた。

その首筋には冷や汗が垂れている。


フンと琥珀は鼻を鳴らし、門番たちには目もくれずに中に入っていった。


監獄の廊下の左右に房が並んでいる。

監獄には青藍を殺した犯人だけがいると思っていたが、意外にも中には人が多くいた。

その様子は、琥珀がよく街で見かけるような物乞いのような身なりで、明らかに身分の違う琥珀が目の前を通っているというのに、皆気付いていないのか、下を向いて下に敷かれている藁を嬲って遊んでいる。もはや、人間というより気の抜けた人形のように見える。


そんな者ばかりがいる監獄の中は、何と言うべきだろうか。異様な雰囲気と匂いが充満している。

重苦しい空気感に、琥珀の肺は潰されそうになった。

勢いで来てしまったものの、琥珀にとってこのような世界はこれまでも、これからも無関係なはずだった。

何がどうしてこうなってしまったのだろうか。

ここ数日で、琥珀の世界は一変してしまった。


『____琥珀』

そう優しく名を呼ぶ青藍の顔が浮かぶ。

琥珀にとって、青藍との想い出は普通の兄弟に比べたら少ないだろう。

けれど、琥珀にとっては生き辛い王宮の中で、青藍だけは唯一心安らぐ場所だったのだ。

青藍だけは王家の人間としてではなく、一人の弟として琥珀をみてくれた。

それが琥珀にとって、どれほど特別だったか。


「……………兄上」


苦しくなる呼吸を何とか整えた。


「兄上の仇は………必ず俺が取るから」


もう琥珀の足を動かすのは耐えられない悲しみと憎しみだけだった。

感情に身を任せしばらく進むと、随分と奥に厳重に見張りが多くついている牢を見つけた。


「……………あそこだな」

言われなくても分かる。王子を殺すなんて大逆罪を犯した者だ。

あそこまで厳重にするのは当然だろう。


見張りの者たちは、先ほどの門番と同じ顔をして琥珀を見た。

彼らも同じように、どうしようかとちらちら互いを見合っている。

そんな見飽きた様子にさえ苛立つほど琥珀にはもう感情の余裕がなかった。


「………此奴と話をする。何も言わずこの場を去れ」


彼らはうんともすんとも言わず、目を泳がせている。

「だ………大罪人です、王子様を危険にさらすわけには」



もう琥珀は我慢の限界だった。

見張りの者を完全に無視し、牢のすぐ側まで寄った。


予想外の琥珀の行動に、見張りの者たちは止めに入ろうとしたが、もうすでに遅かった。

琥珀は既に罪人の前に立っている。



「…………おい、お前。顔を上げろ」


罪人は意識が虚ろなのか、琥珀が目の前にいて、さきほどまで見張りと決して小さくない声で話していたというのに、ぐったりと項垂れている。

その身体は拷問のせいだろうか、所々鬱血痕にまみれ、至る所が血だらけだった。よくこんなになっても死なないな、と皆が思っていただろう。

琥珀は、そんな誰もが痛々しいと思うであろう姿を見ても何とも思わない。

むしろ、こうなっただけで皆の同情を買っているのが憎たらしくてしょうがなかった。

青藍は、あんなに美しかった青藍は、似合わない真っ赤な血に染められ、命まで失ったのだから。


「………………」


やはり気を失っているらしく、琥珀が命令しているというのに、目の前の男は動かない。


「お前っ…………!!お前だ!!お前を呼んでいるんだ!ふざけているのか!?俺たち王家をどれだけ侮辱したら気が済むんだ!!」

琥珀はもう耐えられなくなり、牢の中に手を伸ばし、男の胸ぐらを掴んだ。


「琥珀様っ!!!」

見張りの者も慌てて止めに入ろうとしたが、遅かった。

血だらけの男を触れば、琥珀にまで血がついていしまう。けれど、琥珀にとってはそんなことどうでもよかった。

それよりも、血管が切れてしまいそうなほどの怒りで、どうにもならないのだ。


「おいっ!!!目を開けろよ!!寝たふりすんじゃねえ!!なあ!」

琥珀は怒りに任せ、男を激しく揺さぶった。

ガンッと頭を牢の柵にぶつけてみせたところで、やっと男は意識が戻ったのか、ピクリと動いた。


琥珀はもう息も切れ切れで、男を本当に殺めてしまいそうな勢いだ。

「顔上げろよ…………俺の兄上を殺しておいて、それでも飽き足らず今度は俺を侮辱するつもりか?」


「…………せ、せいらん……さまの」


男は掠れた声でそう呟いた。


そして、ガタガタと震えながら、ゆっくりと顔を上げ、琥珀に初めて顔を見せた。







そして、お互いがお互いの顔を見た途端、世界は一瞬で真っ白になってしまった。

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