第六十五話
「兄上ッ!!外に出て良いの!?」
「あぁ大丈夫だよ。琥珀、そんなに焦ると転んでしまうよ」
桜が満開を少し過ぎた頃、琥珀は青藍が快方に向かっていると噂を聞きつけて会いにきていた。
あれから半年間、琥珀は人格を入れ替えたかのように誠実な青年になり、本当に毎日講義を受け続けたのだ。そんなだから今回の面会について師は快諾してくれた。
待ち合わせた場所は、青藍の殿からそう遠くない庭園で、桜は散りかけているものの、まだその美しさは損なわれていなかった。
蝶々が庭園内を楽しそうに舞っていて、その中に佇む青藍はいくら兄弟でも息を呑むほどの儚さを纏っている。
「琥珀、もう半年もきちんと講義を受け続けているみたいだね。偉い偉い」
青藍は琥珀の頭を慈しむように撫でてくれて、琥珀は嬉しさのあまりまるで猫のように目を細めた。
頭を撫でて褒めてもらえるなんて子どもの特権なのに、青藍はそんなこと関係なく琥珀を褒めてくれるのだ。
猛龍からしたら、「青藍は甘すぎる」らしいが、「必要以上に厳しくする理由はありませんよ」が青藍の決まり文句だった。
「ねえ兄上!!もうこんなに外に出られるってことは本当に治ってきてるの!?」
そう聞く琥珀の瞳がよほど輝いていたのか、青藍は少し可笑そうに笑った。
「ああ、そうだね。自然を慈しむぐらいには元気になってきているよ」
琥珀は安堵の溜息をついた。
「ほんっとうに良かった……ほらね、兄上は自分で長くないとか言ってたけど、やっぱり兄上は凄い人なんだ!天もこんな人を簡単に見放したりはしない!」
「ははは、弟がこんなに可愛いくて、私は幸せ者だね」
青藍はふと琥珀の左手を見て、首を傾げた。
「あれ?琥珀、その……髪紐かな?どうしたの?」
「え?」
左手を少し上げて見た。
自身の薬指にはあの日から変わらず怜の髪紐が結ばれている。
どれだけ時が経っても忘れられる訳がなかった。
両手で抱えきれないほどの幸せと、心に重くのしかかる苦しみがぐちゃぐちゃになって、多分あの夜の自分は相当滑稽だっただろう。
初めて見た、怜のあんな顔や声。
言葉では表せないほど、あまりにも綺麗すぎて触れていいのだろうかと怖気付いてしまったことを覚えている。
『珀、好きです……本当に、好きです』
でも、怜は確かにそう言ってくれた。潤む瞳で、少し手を震わせながら。
だからあの夜は嘘じゃなかった、怜は自分のことを愛してくれた。
信じることが怖くても、そう信じることでしか日々の平静を保てなかった。
「………琥珀?」
「……ッ!!あ、これはさ、えっとまだ街に出てた時に仲良かった子に貰ったんだ!俺がもう会えないんだって話したらこれをくれて……」
青藍はにこりと優しく笑った。
その笑みはなぜだろう、どこか我が子の成長を喜ぶ親のような表情だ。
「じゃあ、それは琥珀にとってとても大切な物だね」
「………う、うん」
琥珀は右手で髪紐が結ばれている左手をぎゅっと握った。
「………とても、とても大切な物だよ」
自分の左手はあまりにも冷たかった。
どれだけ力強く握っても、あの時の怜から感じた温かさは再現できない。
(……もうあの手に触れられないんだ)
どう足掻いても変えられない事実が、琥珀の心を更に深く突き刺してくる。
「琥珀、どうしたんだ?そんなに黙り込んで」
「……………」
この感情をどうしたら言葉にできるのか、未熟な琥珀は知るはずもない。
「琥珀?」
青藍が話しかけているのに視界が涙でぼやけてくる。
いくら快方に向かっているといっても病人の兄の前で泣くなどしたくなんて無いのに、涙が頬を滴り落ちてきてしまう。
「こ……琥珀っ!!?」
必死に首を振った。
「ごめんごめん兄上っ!!もう会えないんだなって思ったら、少し悲しくなっちゃっただけだよ」
「………琥珀」
「ちょ、ちょっと兄上!そんな顔しないでよ!!大丈夫だから!ほら、俺はそんな深い情を持つような人間じゃない…………っ!!」
あっけらかんと笑ってみせたつもりだったが、やっぱり青藍には敵わなかった。
ああそうなのか!と同じように軽く笑ってはくれず、その瞳は影を落とした。
そして、琥珀の身体は遥かに華奢な身体に包み込まれた。
「あっ……兄上ッ!?」
「琥珀、誤魔化してまで笑わなくても大丈夫だよ」
「あ、兄上!だからそんなんじゃ、」
「大丈夫。大丈夫だから」
琥珀を包む身体や手は、少しでも体重をかけたらすぐにでも折れてしまいそうなぐらいだ。
それなのに温かく優しくて、どんな醜い感情も溶かしてくれるような気がする。
「私は君の兄だ。こんなにも頼りないが、大事な弟が今辛いことぐらいは分かる」
「琥珀、君は王宮の外で大切な人を見つけたんだね」
「…………………ッ!」
声が出ない。言葉が喉の辺りで突っかかる。
一生胸にしまっておくと決めた思いをもう一度取り出すのは怖い。けれど、いっそのこと誰かに胸の内を話してしまいたい。
その矛盾の中、琥珀は震えながら時間をかけて頷いた。
「でもね兄上……もう会えないんだ。もう俺は二度と…」
青藍は言葉を返すことなく、ただ頷いて琥珀を更にそっと抱きしめた。
「それに、怜は全部を打ち明けてくれたのに俺は………本当のことを何も伝えられなかった!身分も……名前だって!!」
「………琥珀」
「本当は話したかった………全て打ち明けて、本当の俺を知って受け入れて欲しかった!二人で全て忘れて何処かへ逃げてしまいたかったんだ!!」
はたから見なくても、もうめちゃくちゃだ。
18にもなる一国の王子が、病人の兄の胸で泣きじゃくるなど、他に類は無い。
ましてや、国を憂いての涙でも、勉学が上手く身につかないなどの真面目な理由なんかではなく、浅ましくも王宮の外に出て、身勝手に恋愛なんてものをした結果の涙だ。
琥珀自身も、なんて無様だ、と思うぐらいには自分を情けなく感じた。
けれど青藍は何も言わず、ただただ琥珀の一言一句に頷き、慰めるように、包み込むよういつまでいつまでも優しく撫でてくれた。




