第六十四話
黒蛇の離れから出て暫く歩くと、いつから控えていたのだろうか、伴氏がするりと後ろをついてきていた。
彼はいつもどこからともなく現れていつの間にか後ろにいるため、長い付き合いである清氏はもはや驚かないが、普通の人間ならば悲鳴を上げて逃げるだろう。
「清様、黒蛇様は何と」
「黒蛇様は私が思っていた以上に王様に対して執着しているご様子だ。流石に二つ返事はしなかったが、時期に連絡を寄越すだろう」
「では、計画通り進めます」
「あぁ、よろしく頼む」
そう言い終わってすぐ、後ろを向くといつの間にか伴氏は背後から消えていた。
「………彼奴は誠に人間か?」
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「凛、帰ったよ。どこにいるの?」
怜が医院を任されてから気付けば半年以上経っていて、ようやく怜は蓮司のいない治療に耐えられるようになってきた。
初めのうちは、今思い返してももう二度と経験したくないと願うぐらいには大変な日々だった。
半年経った今でも、街の皆から「なぜ蓮司さんじゃないんだ!?」「本当に大丈夫なんだろうな…?」と心無い言葉を浴びせられることも少なくない。
けれど、そう言いたくもなるだろう。優秀で心優しい医者が急にいなくなったと思ったら、代わりがこんな若造なのだから。
「凛?いないの?………仕事に出かけたのかな」
怜は背負っていた重い荷物を文机に下ろした。
あまりの重量に、すっかり年季が入った文机はミシシと悲痛な音を立てる。
"蓮司さんはどこに行ったんだ!?"
"本当に大丈夫なのか?"
そんなこと、誰よりも怜自身が聞きたいぐらいだ。
「…………父上、まだ帰らないのですか」
椅子に腰掛け、天井に向かってポツリと呟いた。
実際のところ、猛龍が言っていたことは本当で、怜と凛はこの半年間、食に困ることは無かった。
この家には二人だけで、しかも昔から食に恵まれていなかったせいで二人ともかなり少食なのに、食料はいつも余るぐらいだった。
"余る"なんてことは生まれて初めてで、その幸せは勿論あった。そりゃあ、人間だから豊かさに嬉しさは感じた。
けれど、それよりも早く蓮司を返してほしかった。
腹は満たされても、心はいつも空っぽだったからだ。
決して口には出さなかったが、それは凛も同じだろう。真夜中怜が少し目を覚ました時、凛は一人で泣いていた。
ガンッと背後で戸が勢いよく開かれた。
「あ、兄さん帰ってたんだ」
振り返ると、凛が帰ってきていた。
「この戸、どうにかならないの?もうガタガタ。王に頼んだら直してくれるんじゃない?」
確かに、もう母屋の戸は取り付け部がほぼ外れているぐらいで、もうすぐで雨風すら防げなくなるだろう。
「ダメだよ、父上に迷惑はかけたくないでしょ」
ハッと凛は嘲笑した。
「こっちは父親を人質に取られてるんだし、こんぐらい当然だろ」
「人質って……凛、まさかとは思うけど父さんが王宮にいるってこと誰にも話してないよね?」
「話すわけないじゃん。言ったところで誰が信じるっての?そもそも俺ら庶民は王族の存在すら現実味がないってのに」
「………そうだよね。ごめんね、疑うつもりはなかったんだけど」
「それより、」
凛は文机にドスンと座ってきた。
荷物を置いただけで危ない机なのに、怜はヒヤっとしたがなんとか大丈夫だった。
「兄さんの方が大丈夫?なんて名前だったっけ……ああそうだ珀だ珀。アイツと友人なんだろ?うっかり話しちゃってない?」
久しぶりにその名を聞いて、怜の鼓動はドクリと跳ねた。
「え、す………珀!?な、なんで珀のこと知ってるの!?」
「あれ、言ってなかった?たまたま話す時があったんだよ、そん時にアイツは自分が兄さんの友人だって言ったんだ」
久しぶりに頰が熱くなってくる。凛の前だから止めたいのに、身体がいうことを聞かない。
「そ、そうなんだ………ってか話す訳ないでしょ!?な、何言ってるの!」
「え、なんか動揺してない?怪しいんだけど」
凛に顔を覗き込まれる。鼓動が更に速くなって凛にも聞こえてしまいそうだ。
「あ、怪しくない怪しくないっ!……そもそも、もう半年珀には会ってないし、遠くに行っちゃって、もう会えないし!!」
「え、アイツどっか行ったの?兄さんの唯一の友人だったのに」
なーんだ残念、と言って凛はぴょんと机から降り、戸を蹴って外へ出ていった。
凛が母屋から出て行ったことをきちんと確認してから、怜は「はあああ……」と安堵の溜息をついた。
今まで一度も思い出さなかった訳じゃない。
けれど、他の人の口からその名を聞くと、どうしても動揺してしまう。
それどころか、家でゆっくり過ごせる時はいつも”あの夜“を思い出して蹲るぐらいなのに。
(…………あの夜)
今となってはなぜ自分が”あんなこと“をできたのか、自分の中にあんな欲があったという事実に驚きが隠せず、思い出すだけで恥ずかしくなってくる。
医者の端くれだから勿論知識としては知っていたけど、自分とは無関係だと思っていたし、あんなことをできるぐらい自分が誰かに想いを抱くなんて考えもしなかった。
珀にもう二度と会えなくなると知って、奥底に眠っていた気持ちが抑えられなくなったのだろうか?
あの夜は何も考えられなかった。考えなしに、ただ感情の赴くまま珀に想いを伝えていたような気がする。
『……怜、愛してる、本当に愛してる』
初めて見た、珀のあんな顔や声。
瞳の奥の熱が、欲のこもった灼けそうなぐらいの熱が怖くもあり、嬉しくもあって。
自分に触れる手は熱くて、でも優しくて、少し震えていたような気がする。
きっと珀は初心な自分と違って、あんな夜を多く過ごしてきたのだろう。自分のことを愛してくれたことは一瞬の気の迷いやひまつぶしかもしれない。
今となって、男を抱いてしまったと後悔しているかもしれない。
けれど、それでも良かった。たとえ今珀の隣に誰がいようと、あの瞬間は自分の人だったのだから。
「…………もう一度どこかで会えたらいいな」
あの夜の感覚も、香りもまだ記憶に深く刻まれている。
怜は火照る自らの身体を自分の腕で抱きしめた。




