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紫苑に露  作者: 花信風描
第六章 暗雲
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第六十三話

「待たせましたね、清殿」


「いえ、問題ありません」


衣を替えて部屋に入ってきた黒蛇は、さっきまでが何だったのかと思うほど落ち着き払っている。さっきのことは覚えていないのだろうか?普通人間ならばあんな恥ずべき姿を見られた後に、こんな涼しげな顔で人に会えないだろうに。


本当に、心底分からない方だ。

清氏は心の中で大きな溜息をついた。


「それで清殿、大事な話とは?」


相手がそのつもりなら、自分も合わせてあげるしかないか。


「黒蛇様は王様が青藍様に譲位をなさるおつもりなのはご存知ですね?」


一言発した瞬間、涼しげだった黒蛇の顔が一瞬でピリついた。


「………いえ、知りませんね?なんのことでしょう」


黒蛇をまた狂い出させてはいけない、清氏は間髪入れず言葉を続けた。


「いえいえ、黒蛇様はどこまでご存知なのかと思いまして。なんとか命を繋ぎ止めるのが精一杯だった青藍様が、なぜこんなにも急に回復の兆しを見せたのか、不思議にはお思いになりませんでしたか?」


「………知らない、私は何も」



「黒蛇様もよく知る者ですよ」


清氏は狼狽え始めた黒蛇を、地を這うような声で制止した。

猛龍に似て聡明さはない黒蛇だが、猛龍のこととなると頭がよく働くのだろう。切れ長の目を大きく見開き、そのすらりとした色白の身体をカタカタカタと震わせ始めた。


「そ、そんなはずはない………何を言っているんだ清殿!あの者は死んだはず………あんな惨禍の中、生き延びていられる訳ない……絶対にアンタの見間違いだっ!!!!」


黒蛇は清氏の両肩を勢いよく掴んだ。

猫のように爪を立てて、清氏が思わず顔を歪めそうになるほど強い力だ。


「………清殿は私を揶揄って遊んでいるのでしょう?ねぇ、そう言ってくださいよ」


黒蛇の眉は醜いぐらいに八の字で、唇は震えている。一体王家の威厳をどこに置いてきたというのだろうか?街の物乞いでもこんなに恥は晒さない。

黒蛇の執着心について清氏は幾分か理解していたはずだったが、まさかこれほどまでに狂気的であるとは思っていなかった。


たが、狂気的であればあるほど清氏にとっては都合がいい。


清氏はゆっくりと首を横に振った。


「こんな老ぼれが黒蛇様を揶揄うはずがないでしょう?…………これは誠の話なのです。私の部下が確かに蓮司殿が治療に当たっていたと」


「ああああああああッ…………!!!」


「黒蛇様ッ!!」


清氏が声を張り上げた時にはもう遅かった。

清氏の肩からやっと両手を離したかと思えば自らの頭を抱えてうずくまり、起き上がったかと思えば棚をひとしきり倒し、おそらく高価な掛け軸をビリビリに破き、花瓶まで庭に勢いよく放り投げた。

ずっと奇声を上げながら。


「蓮司………!!あの下賤めが………どこまで図太いのだあああああッ!………許さない、許さない、絶対に許さないッ!!!!!!」



「黒蛇様ッ!!話はまだ終わってませんよ!!」

清氏は暴れる黒蛇の腕を力尽くで掴んだ。

物が壊れていく音と、いい年した大人の怒号で、清氏の精神までもが犯されそうだったからだ。


「………あの者が憎くて仕方ないのでしょう?ならば私の話を黙って聞いてください」


こんな狂乱状態ならば、何を言ってもどうせ黒蛇は覚えていないはず。ならば多少の無礼も許されるだろう。


「………分かりましたか?」


清氏にこう言われて、まだなお暴れられる者など誰もいないだろう。

たとえ、猛龍だったとしても。



「清殿………私はどうしたら…今にも私の偉大な兄上が奪われようとしているのに………私は何もできないのか?」


清氏は小さく溜息をついた後、首を静かに振った。

「考えられる方法はあります。蓮司殿のみを追い出す方法が。」


「なんだ……?私は兄上のためなら何でもする、本当だ……!だから早く教えてく……」



「青藍様に毒を盛るのです」




清氏がそう言い放った後、あまりにも長い沈黙が流れた。

けれど、外からは春風の音や鳥の鳴き声が何も変わらず聞こえてきて、あまりにものどかすぎた。

そののどかさは、清氏が放った耳を疑うほどの方法とあまりにも違いすぎて、錯覚を起こしそうになる。


「せ、清殿……今何と」


「青藍様の薬に微量の毒を盛り、蓮司殿にその罪を着せるのです」


「ま……待てッ!!!其方、私に王子を殺せというのか!!?」


清氏は溜息をついた。

「私はただ思いついたことを口にしたまで。貴い貴方様に私が殺せと指図など、そんな……有り得ません」


「わ………私は」


「ははは、黒蛇様。この老ぼれの愚言はお忘れください。私は物語の読み過ぎで少々頭がおかしくなったのかもしれません」


清氏はすっと静かに立ち上がった。


「それでは、私は失礼いたします。ああそうだ、殿の修復はご心配なく。すぐに人を遣わせますからね」

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