第五十八話
約束の夜は悪戯にもあっという間に訪れた。
あれから蓮司は色んなことを怜に教えておいたが、どれだけ聞いても怜の寂しさや不安は募るばかりだった。
「……荷物はそれだけで大丈夫なのですか?」
蓮司はハハハ、と自虐的に笑った。
「ここにあって王宮にないものなどないよ。ここにあるものは全て怜に残しておきたいんだ」
怜は小さく「……そうですか」と呟いた。
「ああ、そうだ。怜、大事なことを伝え忘れていたよ」
「…………?」
「この医院は暫く怜に託すけれど、全て私のようにする必要はないからね」
蓮司は僅かな荷物をまとめながらそう軽く伝えたが、その言葉を聞いた怜は拳を強く握りしめた。
「………父上がそう言うのは過去のせいですか?」
怜の声色の変化に気が付いたのか、蓮司は顔を上げた。
「父上が自分のことをどれだけ卑下しても………私は絶対に認めません。父上のようになりたくて私はこの道を選んだ、」
言い終わる前に、怜の身体は蓮司の身体に包まれた。
父にこんなふうに抱擁されるのは何十年ぶりだろうか、もはや記憶にもないのに、なぜかその温もりには懐かしさを覚えた。
「…………ち、父上?」
蓮司は何も言わなかった。
ただただ、多くの人の命を救ったその手で怜の小さな頭を優しく撫でてくれた。
今、父は何を思い、どんな表情をしているのだろう。
そんなこと、まだ大人になりきれていない怜には全く分からなかった。
蓮司は名残惜しそうに怜を離した。
「…………もうそろそろかな」
「………父上、」
行かないで、
そう言いたかった。
でも、言えなかった。言ったってどうにもならない。余計にお互いを苦しめるだけだ。
幼い子どものように泣きじゃくればなんとかならないか。急に王の気が変わりやしないか。頭は目の前の状況がどうにかならないか考えを巡らしているのに、身体は全く動かない。
蓮司は僅かな荷物をよいしょ、と背負って戸を開けた。
その音に気付いたのか、凛も離れから気怠そうに出てきた。
「もう行くの?王来てないし、まだいいんじゃない?」
蓮司は「王に迎えに来させるわけにはいかないだろう?」と苦笑した。
蓮司は至って冷静だった。
良くも悪くも猛龍の性格を熟知しているが故に、無駄な抵抗をする気がないのだろう。
「じゃあ、二人とも。行ってくるからね。」
「ま………待って!」
怜は反射からか、蓮司の手を掴んでしまった。
そうしてしまってから、頭の中が真っ白になってしまい、蓮司の目を見て唇を震わすことしかできなかった。
「……………大丈夫だ、怜。いつになるかは分からないが、二人を残したままにはしない。必ず帰ってくるから」
蓮司はそう言って、怜と凛、二人の頭を大きな手で優しく撫でてくれた。
触れられた瞬間、蓮司の前では絶対泣かないと決めていた怜の瞳からは大粒の涙が溢れて出てきてしまった。
凛はフイっと横を向いたが、僅かに鼻を啜る音が聞こえてきた。
怜は乱暴に涙を拭い、蓮司に向き直って微笑んだ。
「医院のことは…………任せてください」
蓮司もまた微笑んだ。
「あぁ、頼んだよ」
じゃあね、
そう言って、蓮司は今度こそ行ってしまった。
「…………お気をつけて」
怜は暗闇に吸い込まれ消えて行く父の背中を、いつまでもいつまでも見つめていた。




