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紫苑に露  作者: 花信風描
第六章 暗雲
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第五十七話

空一面が闇に包まれている。

今夜は月も星も雲に隠されて、二人を見ているものは何もなかった。


どれほど時間が経った後なのだろうか、琥珀は怜から顔をそっと離し、怜の身体も離した。


肩で息を整え、頭の中は"やってしまった"という思いでいっぱいだった。さすがに誤魔化しようがない。いくら鈍感で純粋無垢な怜でも、この行為の意味することくらい分かるだろう。


「…………怜、ごめん」

琥珀はとてもじゃないが、怜の顔を見れず、俯いたままそう声を捻り出した。


しかし、怜の反応は一向にない。泣きも、怒りもしていない。

それどころか、呼吸の音さえも聞こえない。


さすがに怖くなって顔を上げ、「……怜?」と名を呼んだ。


「み、見ないでっ!!!」


琥珀が怜の顔を見ようとした瞬間、今度は怜が琥珀の頬に両手で触れ、口を塞いだ。

勢いに任せた怜からの初めての口付けに、琥珀は頭が真っ白になり、体は石のように固まってしまった。


けれど、怜の口付けはまるで幼い子どものような拙さで、琥珀は愛しさのあまり思わず胸が苦しくなるのを感じた。

息が苦しくなったのか、怜は少しだけ琥珀から口を離した。


その頰は真っ赤に熟れ、息は上がってしまっている。

瞳まで潤んでいて、その姿は今までにないぐらい琥珀の欲を掻き立てた。


「れ、怜……今、したことの意味分かって、」

そう言うと、怜は眉間にシワを寄せて、潤んだ瞳のまま琥珀を見た。


「珀にはっ……私がそんなふしだらな人間に見えるのですか………、」


凍りついていた琥珀の心に、小さく炎がついた。

鼓動が今までにないぐらい高鳴り、思わずゴクリと唾を飲み込む。





「………いいの?」


怜は最初その言葉の意味が分からなかったらしく、キョトンとした顔を見せた。

けれど琥珀の熱を帯びた瞳を見て、さすがに意味が分かってきたのか、みるみる顔が赤くなっていった。

終いには恥ずかしさのあまり、もう目を合わせていられないといった様子で逸らした。



そして、コクンと小さく頷いた。









「………珀はいつ帰ってくるのですか?」


今がもう何時なのか分からなかった。

けれど、鈴虫の鳴き声が聞こえ、いつの間にか朧月が顔を出し、涼しい風の吹く綺麗な夜だった。

二人で向かい合いながら寝ていても、その月明かりは眩しく感じられた。


琥珀は怜の頭を慈しむように撫で、その額に優しく口付けをした。

「…………ごめんね、怜。それは分からないんだ」

こんなに愛しているのに、本当のことが言えないのはあまりにも残酷すぎた。



「……そうですよね、ごめんなさい」


怜はそう言うなり、琥珀の胸に顔を埋めた。

その仕草を愛しいと思うと同時に、心の中には申し訳なさが募り、琥珀は怜を包み込むように抱きしめた。


腕の中の怜は多分泣いていた。琥珀に気付かれないように顔を埋めたのだろう。

そんな怜を見て、琥珀はこの想いを伝えるべきだったのか、余計に辛くさせるだけだったのか、少しの後悔が生まれた。


「でも、珀」

怜がゆっくりと顔を出した。

その瞳はまだ潤んでいる。


「例えもうこれが最後だとしても、私は珀と出逢えて良かったと心から思ってます」


「………どうして?」


「この世のどこかに、私を想ってくれる人がいるというだけで、不安で怖くても……寂しくても生きていける気がするんです。珀と出逢えていなかったら、多分私は一生この幸せを知ることができなかった」


琥珀の胸は張り裂けそうだった。

どうして自分は王家の人間に生まれてしまったのだろう。もし、怜と同じこの街に生まれていれば、一生隣にいられたのに。



この夜が永遠に続けばいいのに、朝なんて来ないでくれ、こんなに願ったことはない。

琥珀は自分でも気付かないうちに涙を流していたみたいで、怜は親指でそれを拭ってくれた。


「今後、珀がどんな道を歩んでも、私も珀を大事に想っていること、忘れないでくださいね」


「………やだ、怜、そんな言い方しないで」

琥珀から今日が最後だと言っておいて矛盾していると思ったが、耐えられず言葉尻が震えた。


怜も涙を流しているが、その表情は柔らかい。


「心から愛してます、珀」

触れるだけの口付けを交わした。



「俺も、ずっと………愛してるから」

その口付けは互いの涙の味がした気がする。





___________




翌朝、目を覚ますともう怜はいなかった。

昨夜は淡く甘い夢だったのか分からなくなってくる。けれど、身体から漂う怜の香りは、昨夜の記憶を呼び起こす。




「………………?」


左手の指に違和感を覚えて見てみると、一本の髪紐が蝶々結びされている。

薄紫色の、至ってなんてことない髪紐だ。




けれど、琥珀はその慎ましく結ばれた跡を見て、泣き崩れた。


怜が、せめてもの想いで自分の指に結んでいる姿が痛いほど浮かんだからだ。

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