第五十六話
そんなに長居したわけではなかったのに、気付いた時には既に陽が四分の三ほどにまで傾いていた。
山に近づいて茜色にその姿を、そして辺り一面を変えている。
「もうそろそろ降りないと陽が落ちる前に王宮に帰れないな。望月に小言を言われるのも面倒だし、早く帰ろ………」
そう言いながら立ち上がり振り返ると、自分が今一番会いたくて、でも会いたくない人が目線の先にいた。
「「…………………」」
お互い暫く言葉を発することができなかった。
その様子はまるで、今目の前にいる人物が本物なのか疑うようだ。
「れ、怜……だよな?」
「は……はい」
しかし考えてみればここにいておかしいのは怜の方だ。ここは琥珀の庭なのだから。
「す、すみません!勝手に来ちゃって……」
すぐ踵を返そうとした怜を、琥珀は腕を掴み慌てて引き止めた。
腕を掴まれた怜は思いがけず身体をビクリとさせ、頰が急にボッと色付いたが、大事なことに対して鈍感な琥珀は全く気付いていない。
「だ、大丈夫大丈夫!ここは誰でも出入り自由だから……それに怜なら尚更だ!」
自分でも脈が上がったのが分かっているのか、怜は俯いたまま「………良いんですか?」とポツリと呟いた。
怜がちょこんと座った先は、さっきまで琥珀が座っていた場所だった。
琥珀も怜から少し離れて隣に座った。
怜は何も話したりしなかった。
ただただぼうっと目の前に広がる茜色の世界を見続けていて、軽く吹いた風が怜の細く繊細な髪を優しく撫でている。
その横顔はいつも通り綺麗だが、その目下には僅かに隈があることを琥珀は見逃さなかった。
「れ、怜……こんな場所に来るなんて、何かあったの?」
そう言うと、怜は「やっぱり私、酷い顔してますよね」と自虐的に笑った。
「………ここに来れば、珀に会えると思ったんです」
琥珀の心臓はビクリと跳ねた。
「お、俺に………?」
期待するような理由ではないことなんて分かっているのに、それでも表情を保つのに必死だった。
「………実は、暫く珀に会えなくなるんです。それをどうしても伝えておきたくて」
「え、ど…どうして?」
「父が暫く、といってもいつ戻ってくるか分かりませんが………遠くの地へ行くことになったんです。その間、医院は私が継ぐことに」
「そ、そんな急に」
「ええ、本当に急ですよね。私もまだ頭が混乱してて………昨晩は色々と考えすぎて全く寝付けなかったんです」
琥珀は怜に対して申し訳なさが募った。
怜は自分に別れを告げようと来てくれたのに、自分は何も言わないまま消えようと思っていたのだから。
なんて酷いやつなんだろう。
「…………大丈夫だよ、怜ならきっとやれる。ほら、前二人で郊外に行く途中、母子を救ったでしょ?あの時の怜、凄くかっこよかったよ?」
そう言うと、怜は少し恥ずかしそうに笑った。
「…………ありがとうございます。私ったら、珀にそう言ってもらいたくてここに来たのかもしれませんね」
「そ、そんなの、何回でも言ってあげる!!怜が自分を否定しても、俺がずっと傍で………!」
琥珀は立ち上がりそう言ったが、最後の一言を言い切ることができなかった。
______自分はもう二度と怜に会えないのだ。
その事実が、琥珀の心に重くのしかかる。
"本当に会いたいと思えばどうにだってできるのだから"
本当にそうか?会いたいと強く願えば、本当に会えるのか?
そんな確証はどこにあるんだ?今の自分と怜のまま何も変わらず会うことができるのか?
いつの間にか太陽は沈んでしまっていた。
太陽が沈んだ山際だけが最後の朱を何とか残しているが、ほとんどは紺色に染まっている。
そんな空のように、琥珀の心にも実体のない闇が広がっていく。
呼吸が荒くなり、目には涙が浮かぶ。
「………珀?」
怜が自分に顔を向けている。
だけど、暗くなっているせいでどんな表情をしているかなんて分からない。
「…………嫌だ」
「……え、珀なんて、」
怜が言葉を言い終わるより先に、琥珀は怜の細い身体を抱きしめた。
強く抱きしめすぎたのか、腕の中の怜の身体がビクリと跳ねる。
「あ、あの、す、珀………」
「….…嫌だ、離れたくない」
鼓動が、どくどくと煩い。
でも、あまりにも身体が密着しすぎて、この鼓動が自分のものなのか、怜のものなのか分からない。
「珀……大丈夫ですよ、永遠に会えなくなるわけじゃないと思いますし、」
琥珀は更に怜を強く抱きしめた。右手は怜の後頭部を包み、自らの身体に押し付けた。
熱くなった互いの身体が、更に熱を持ち始める。
「無理なんだ………俺がもう二度と怜に会えないんだ」
そう琥珀が涙声を漏らした途端、腕の中の怜の身体が動き、顔を上げた。
「な、そんな……どういうこと」
しかし、琥珀の表情を見た怜は、いつもの冗談ではないのだと分かり、そのまま言葉が止まってしまった。
「………怜、ごめん、もう今日が最後なんだ」
そう震える声で告げると、怜は俯いてしまった。
次第に涙が溢れ、怜の服を濡らす。
「………私がここに来なかったら黙って消えるつもりだったのですか?」
酷い、と怜は震える声で吐き捨てた。
怜の瞳からは更に涙が滴り落ちる。
違う、違うんだ。
会ってしまえば、こうして会ってしまえば、もう抑えられなくなると分かっていたから、だから____
「…………珀のことを大事に想っていたのは私だけだったのですか?」
「違う…….………!!!」
そう言って、琥珀の腕から離れようとする怜をもう一度抱きしめた。
そして、その震える唇を強く塞いだ。




