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紫苑に露  作者: 花信風描
第六章 暗雲
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第五十六話

そんなに長居したわけではなかったのに、気付いた時には既に陽が四分の三ほどにまで傾いていた。

山に近づいて茜色にその姿を、そして辺り一面を変えている。


「もうそろそろ降りないと陽が落ちる前に王宮に帰れないな。望月に小言を言われるのも面倒だし、早く帰ろ………」


そう言いながら立ち上がり振り返ると、自分が今一番会いたくて、でも会いたくない人が目線の先にいた。



「「…………………」」


お互い暫く言葉を発することができなかった。

その様子はまるで、今目の前にいる人物が本物なのか疑うようだ。


「れ、怜……だよな?」


「は……はい」


しかし考えてみればここにいておかしいのは怜の方だ。ここは琥珀の庭なのだから。


「す、すみません!勝手に来ちゃって……」


すぐ踵を返そうとした怜を、琥珀は腕を掴み慌てて引き止めた。

腕を掴まれた怜は思いがけず身体をビクリとさせ、頰が急にボッと色付いたが、大事なことに対して鈍感な琥珀は全く気付いていない。


「だ、大丈夫大丈夫!ここは誰でも出入り自由だから……それに怜なら尚更だ!」


自分でも脈が上がったのが分かっているのか、怜は俯いたまま「………良いんですか?」とポツリと呟いた。




怜がちょこんと座った先は、さっきまで琥珀が座っていた場所だった。

琥珀も怜から少し離れて隣に座った。



怜は何も話したりしなかった。

ただただぼうっと目の前に広がる茜色の世界を見続けていて、軽く吹いた風が怜の細く繊細な髪を優しく撫でている。

その横顔はいつも通り綺麗だが、その目下には僅かに隈があることを琥珀は見逃さなかった。


「れ、怜……こんな場所に来るなんて、何かあったの?」


そう言うと、怜は「やっぱり私、酷い顔してますよね」と自虐的に笑った。


「………ここに来れば、珀に会えると思ったんです」


琥珀の心臓はビクリと跳ねた。


「お、俺に………?」


期待するような理由ではないことなんて分かっているのに、それでも表情を保つのに必死だった。


「………実は、暫く珀に会えなくなるんです。それをどうしても伝えておきたくて」


「え、ど…どうして?」


「父が暫く、といってもいつ戻ってくるか分かりませんが………遠くの地へ行くことになったんです。その間、医院は私が継ぐことに」


「そ、そんな急に」


「ええ、本当に急ですよね。私もまだ頭が混乱してて………昨晩は色々と考えすぎて全く寝付けなかったんです」


琥珀は怜に対して申し訳なさが募った。

怜は自分に別れを告げようと来てくれたのに、自分は何も言わないまま消えようと思っていたのだから。

なんて酷いやつなんだろう。


「…………大丈夫だよ、怜ならきっとやれる。ほら、前二人で郊外に行く途中、母子を救ったでしょ?あの時の怜、凄くかっこよかったよ?」


そう言うと、怜は少し恥ずかしそうに笑った。


「…………ありがとうございます。私ったら、珀にそう言ってもらいたくてここに来たのかもしれませんね」


「そ、そんなの、何回でも言ってあげる!!怜が自分を否定しても、俺がずっと傍で………!」

琥珀は立ち上がりそう言ったが、最後の一言を言い切ることができなかった。







______自分はもう二度と怜に会えないのだ。

その事実が、琥珀の心に重くのしかかる。


"本当に会いたいと思えばどうにだってできるのだから"

本当にそうか?会いたいと強く願えば、本当に会えるのか?

そんな確証はどこにあるんだ?今の自分と怜のまま何も変わらず会うことができるのか?


いつの間にか太陽は沈んでしまっていた。

太陽が沈んだ山際だけが最後の朱を何とか残しているが、ほとんどは紺色に染まっている。

そんな空のように、琥珀の心にも実体のない闇が広がっていく。

呼吸が荒くなり、目には涙が浮かぶ。



「………珀?」

怜が自分に顔を向けている。

だけど、暗くなっているせいでどんな表情をしているかなんて分からない。



「…………嫌だ」


「……え、珀なんて、」


怜が言葉を言い終わるより先に、琥珀は怜の細い身体を抱きしめた。

強く抱きしめすぎたのか、腕の中の怜の身体がビクリと跳ねる。

「あ、あの、す、珀………」


「….…嫌だ、離れたくない」


鼓動が、どくどくと煩い。

でも、あまりにも身体が密着しすぎて、この鼓動が自分のものなのか、怜のものなのか分からない。


「珀……大丈夫ですよ、永遠に会えなくなるわけじゃないと思いますし、」


琥珀は更に怜を強く抱きしめた。右手は怜の後頭部を包み、自らの身体に押し付けた。

熱くなった互いの身体が、更に熱を持ち始める。


「無理なんだ………俺がもう二度と怜に会えないんだ」


そう琥珀が涙声を漏らした途端、腕の中の怜の身体が動き、顔を上げた。


「な、そんな……どういうこと」

しかし、琥珀の表情を見た怜は、いつもの冗談ではないのだと分かり、そのまま言葉が止まってしまった。


「………怜、ごめん、もう今日が最後なんだ」


そう震える声で告げると、怜は俯いてしまった。

次第に涙が溢れ、怜の服を濡らす。


「………私がここに来なかったら黙って消えるつもりだったのですか?」


酷い、と怜は震える声で吐き捨てた。

怜の瞳からは更に涙が滴り落ちる。



違う、違うんだ。

会ってしまえば、こうして会ってしまえば、もう抑えられなくなると分かっていたから、だから____


「…………珀のことを大事に想っていたのは私だけだったのですか?」



「違う…….………!!!」

そう言って、琥珀の腕から離れようとする怜をもう一度抱きしめた。

そして、その震える唇を強く塞いだ。

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