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紫苑に露  作者: 花信風描
第六章 暗雲
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第五十五話

”最後の挨拶”として琥珀は今日一日を使って色んな場所にへ行った。

行きつけの酒屋、琥珀が春画を買い漁っていた本屋。


そして勿論爛さんの妓楼にも。

お菊さんの一件があってから琥珀は何となく足を運ぶことができていなかったから、本当に久しぶりに店に顔を出すことになった。


あえて店を開ける時間ではない午後に行ったが、爛さんや妓女たちは自分を温かく歓迎してくれた。

お菊さんもすっかり元気になっていて、布団で伏せていた時とは違って、顔には化粧も施し、上質な着物に身を包んでいた。その美しさは思わず目が離せないほどには別格だった。


琥珀が持参した手土産を囲んで、皆で最後に茶を飲んだ。

「ええ……!?珀様もう来てくださらないのですか!?」


「そんなの嫌です!!!」


「何を楽しみにしていけばよいのですか!!!」


琥珀がもうこの地を離れると伝えた途端、皆それまで久しぶりの茶会を楽しんでいたというのに、一気に眉を八の字にして悲しみ喚きだしてしまった。

爛さんは彼女たちのやる気が一気になくなってしまわないかと心底心配になったらしく、額を抑えてきつく目を閉じていた。


「俺も寂しいよ?でも大丈夫!!君たちのことは忘れないから」


「そんなのあんまりです珀様~~~行かないでください~~~ 」


以前と同じように彼女たちに甘い言葉をかけていた琥珀だったが、自分の中ではどうしてかそんな自分に一種の恥ずかしさや違和感を感じていることに気がついてしまった。

前は息を吐くようにスラスラとそんな言葉を並べていたのに、今はまるで過去の自分を演じているようで、あまりにも滑稽すぎた。




「珀様、もしや想い人でもできたのですか?」


その違和感は琥珀だけではなかったのか、妓女の一人がグイっと身を乗り出して琥珀にそう尋ねてきた。


「え、なんで!?」


彼女はうーん、と言いながら可愛らしく首をかしげて見せた。


「なんだか以前と雰囲気が違うように見えまして。以前も勿論見目麗しくて素敵なお方でしたが………今は何といいましょうか、大人の殿方としての雰囲気も加えて纏っていらっしゃるような………」


想い人。

確かに、いるが。いるが胸にしまっておくと決めた人だ。


黙ったままの琥珀を見て、妓女たちはわぁと騒ぎ出した。


「誰ですが!!!その羨ましい女性は!!!」


「珀様は誰のものにもなってはならないのに!!」


「じゃあ最後に私を抱いてください!!」


「ちょっと何言ってるのよアンタ!!私が先よ!!」



「う・る・さ・いッ!!!!!あんたたち、珀くんの私生活にまで口を出さないッ!!!!!」


あまりの煩さに爛さんが制止したが、それでも嘆きの声は収まることがなかった。


_____想い人。

彼女たちがガヤガヤ騒いでいても、琥珀はずっと握った手を口に当ててその言葉を反芻していた。





妓女たちを何とか落ち着かせた後、店の戸口に立ち琥珀は最後に皆に挨拶をした。

皆が琥珀を見送ってくれたが、その多くの瞳は涙に濡れていた。


琥珀は最後に皆の顔をしっかりと見た。

自分はいずれ王になる青藍の弟として真っ当に生きて、彼女たちが、そして未来の子どもたちがこのような生活を強いられないようにする世の中にしていくんだ。


身分がバレてはいけないから、彼女たちにそう宣言することはできなかったけれど、琥珀は心の中で強く誓った。


「じゃあ、行きますね」






花街から出て、琥珀はゆっくりと歩きだした。

彼女たちの前では我慢したが、実は琥珀自身も泣きそうになっていて、離れてからやっと静かに涙を流すことができた。


「いやいや、大丈夫大丈夫。同じ地にいるんだ、会おうと思えばいつだって会えるさ、無駄にメソメソするのはやめにしよう」


こういう時、自分がこのような性格でよかったと心底思う。

でも実際そうだ。本当に会いたいと思えばどうにだってできるのだから。



さてと、と琥珀は気を取り直して軽やかに歩き出した。

「次はどこに行こうかな~ここから一番近いのは……」


そう呟いてからハッとした。

ここから一番近くて、まだ行っていない場所。

それは紛れもなく怜のところだ。


普通に友として別れを告げるならいいんじゃないか?

いや、別にもう二度と会わない気なら、想いだけ伝えてもいいような気が………


頭の中にそんな甘い考えが浮かんできて、琥珀はすぐ首を振った。

「いやいやいや!意志が弱すぎないか、俺!?閉まっておくって決めたじゃないか!!駄目だ駄目!!………そうだ!!まだ行っていない場所があったな、最後にあの場所だけ綺麗にしておこう!!」






_________________


あの廃寺は高台にあるため、常人が行くにはなかなかの体力が必要なのだが、幸い若くて活発な琥珀はひょひょいと登ることができる。


この場所はもともと最後の住職から良かったら使ってくれ、と託されたもので琥珀は何か月もかけて自分好みの庭園に仕上げたのだ。

だけど、もうこの場所にも来れなくなってなんて、我が子の巣立ちを悲しむような親の気持ちになった。


着いた頃には陽は傾き始めていて、空の色は淡くなり始めていた。

けれど、庭園の花々たちは美しく咲き誇っていて、琥珀の寂しく思う気持ちを少し和らげてくれた。


「お前たち……元気でいてくれよ」

そう呟きながら、琥珀は可愛らしく咲く花をそっと撫でた。

撫でられた花はもちろん言葉を返したりはしないが、ふるふると小さく揺れている。


よいしょ、と言って立ち上がり、琥珀は景色が一望できる場所まで歩いて行った。

相変わらずこの場所から見渡す世界は綺麗で、いつも変わらないこの眺めは今の琥珀の不安定な心を包み込んでくれているような気がした。


「最後にこの場所を選んで良かった。これでしっかりとお別れができる」



けれど、時間の流れはやっぱりあって、どこも変わっていないように見えても、あの家の庭木が無くなったとか、見世先に並ぶ商品が変わったとか、目を凝らすと小さなことがちょこっとずつ変わっている。


それは琥珀自身にも言えることだった。

時間の流れに逆らえるものなどない。良くも悪くも何かしら変わっていくものだ。


「最後にここに来たのは怜と一緒にか。ああそうだ、俺が怜に酒を飲ませて……」


そう思い返すと、あの時のことを面白おかしく思うと同時に一種の後悔が生まれた。


「………あの時はまだ自分の気持ちに気付いてなかったから、ただ友人として楽しく一緒にいれたんだったな」


最後の別れもしないでおこうと思うぐらいに拗らせてしまったのは、怜を好きという感情故だ。


「初めから叶うわけないんだから自覚しなきゃ良かったのか?いや、でも、それはそれで……」



寂しすぎるな、とポツリと呟いた。


今、あの時の黒蛇の言葉の意味が分かった気がする。叶うわけがないからといってきっぱり諦められるなら、恋という言葉なんて生まれなかっただろう。

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