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紫苑に露  作者: 花信風描
第六章 暗雲
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第五十四話

その日もほとんど寝ていないであろう蓮司は朝早くから出て行った。

結局怜はあれから目を閉じるものの全く眠ることができず、蓮司が出て行くときもどう顔を向けていいか分からなくて、初めて寝たふりをして見送りをしなかった。


頭の中にはずっと靄がかかったままで、だけどこの靄を上手く言葉に表せなかった。

昨晩はあまりにも多くのことがありすぎて、知りすぎて、どこからどう理解していけばよいのか分からなかったが、分かることは一つだけ、父が王宮に行くこと。

いったいいつまで父に会えなくなるのだろうか?父はちゃんと帰ってきてくれるのだろうか?あんな暴力的は王の元に行って大丈夫なのだろうか?

考えれば考えるほど怜の心を埋め尽くすのは不安だけだった。

王命が下った以上、蓮司が拒否することは絶対に不可能であると分かっているのに、すぐにでも父と遥か遠くに逃げて、今まで通り二人で人の役に立ちたかった。


「でも、父上は……」

今までのは本当に罪滅ぼしだったのか?


そう思いかけて止めた。

父がどんなに自虐しようと、怜は絶対に認めたくなかった。

視界が涙でぼやけてくる。

もう今は凛もどこかへ出かけて行ったから誰も自分のことなんて見ていないのに、怜は手で顔を覆った。


明後日の夜には王が父を連れて行ってしまう。

これから自分はどうしていけばいいのだろう。


あまりにも急に現れた不安の波に、ただただ飲み込まれるしかなかった。





___________________


琥珀は、今朝もすっと目を覚ました。

「…………もう朝か」


昨日は何十年ぶりに講義に出た。最後に出たのはいつだったかなんてもはや記憶になく、文机に座ったのも、勉学のために筆を持つのもまるで生まれて初めてのような感覚だった。


もともと目覚めは良い方で、琥珀はぱっと状態を起こし、身支度をおおよそ整えた。

だが、初日から張り切り過ぎたのだろう。肩に鈍い痛みが走る。


「…………痛い」



今日も昨日のような一日になるだろう。一日座り続け、師と書物だけを見続ける一日。

「あ~めんどくさいッ」

起きたのにまた布団に潜り込みダンゴムシのように丸まった。


実のところ、この男はあまりにも要領が良すぎて、講義の内容のおおよそを初日で掴んでしまったのだ。

勉学以外の武術や芸術でも何にでも言えることなのだが、あまりにも器用すぎておおよそすぐできてしまう。できないゆえに人は継続して励むわけだが、琥珀はそんな人間だから継続ができないのだ。


「サボっちゃおうかな」

ポツリと、あまりにも軽くそう呟いた。

たが、呟いてすぐ布団の中で勢いよく首を振った。


いくら器用にこなしたからといって、今日講義にでなかったら、三日坊主どころではない。ただの気まぐれな子どもだ。それこそ、王宮中から嘲笑の対象になるだろう。


「………怜に会いたいな」

ダンゴムシになった琥珀は布団の中でポツリと呟いた。

最後にあったのは一昨日で、まだ中一日しか開いていないというのに、すっかり琥珀は中毒のようなものになってしまったみたいだ。


「あ~ダメダメ!この気持ちは閉まっておくって決めただろ俺は!?また怜に会ったら今度こそ我慢ができなくなるって…………」


しかし、ふとあれ?と琥珀は首を傾げた。

「あれ、俺…こうして講義に出始めたってことは二度と怜に会わない気なのか?………別れも告げずに!?」


別にテキトーに講義に出ると、真面目に生きると言ったわけではないにせよ、そこまで深く考えていなった。

真面目になるということは、当然王宮の決まり事を守らないといけない。

…………ということは、当然御法度中の御法度である王宮脱走はできなくなる。今まで会っていた人は二度と会えなくなる。


「いや、さすがに何も言わずに急に消えたら怖すぎるだろ!?しかも……あんなことがあった後で、」


『あんなこと』と自分で言っておいて、琥珀は『あんなこと』を思い出してしまい、一人でに顔を赤らめた。

まだ一週間も経っていないからだろうか?あの時の怜の体温や唇の感触がどうしても忘れられない。

実のところ、昨日の講義中も何度も思い返しては頬が焼けるように熱くなっていたのだ。

でも、熱くなるたびに何事もなかったような平静とした怜の顔が浮かんだ。

自分とは対照的なあの様子。


布団の中にもう一度顔を埋めた。

「……………いや、怜にとったら黙って消えてくれてありがとう、ぐらいかな」

自分で言っておいて、その言葉が自らの心を奥深くまで刺してくる。



「琥珀様ッ!!!琥珀様!!!!!」

ゴンゴンと、戸が何回も強く叩かれる。

気分が沈んだ時にこうもうるさくされると、心底うざったくなる。


「…………何?」

布団の中から低く声を出した。


言うなり、望月はすぐに部屋の中へ入ってきた。

「琥珀様!!!大変です、師が………昨日の衝撃と、何十年かぶりに琥珀様の講義をして、知恵熱を出したみたいで ………!!」


寝台の上のダンゴムシがピクリと動いた。

「…………熱?師が?」


「ええ………」


「………と、いうことは当然講義はできないな?」


「ええ、そうですが?代わりにいくつか宿題のようなものは預かっておりますが。え、琥珀様?今何をお考えで?」


琥珀はバッと被っていた布団を剥いだ。

「望月ッ!!!今日だけは見逃してくれ!!あ、もちろんこのことは内密に頼む!!」


琥珀はスルリと望月の脇をすり抜け、突風のように殿から出て行った。

悪巧みをする時の琥珀の素早さと言ったら、それはもう早い。一般的な官吏よりも小太りの望月に到底琥珀を捕まえられるはずがない。

捕まえようとしたものの、その腕が掴んだものは琥珀が去った後の空気だけだった。


「こ、琥珀様~~~~~~!!!!!」







ひょひょいと王宮から出た琥珀は、頭の後ろで手を組んで陽気に歩いた。

「なんだが久しぶりな気がするなあ。いつぶだ?………あ、一昨日か」


でも、と琥珀は空を見上げた。


今日は何とか見逃してもらえるだろうけど、もうこうやって外に出てこれることは無いだろう。

昨日、あんなに多くの官吏たちに敢えて見せつけておいて、おそらく父や母、兄のもとにも話は広まっているだろうから。


あんなこと言わなければ良かったか?一生大馬鹿者として笑われておけば良かったか?


だけど、そう思うと脳裏に兄の顔が浮かんだ。いつもはただただ柔和な兄の、真剣な眼差し。

あんな顔をさせておいて、のうのうと遊びながら生きていけるほど琥珀の面の皮は厚くない。



「………良かったんだ、これで」


地面に転がっていた小石を足で蹴った。

蹴られた小石は勢いよく転がっていき、水路にポチャンと軽い音を立てて落ちて行く。


琥珀は大きく天に腕を伸ばした。

昨日の講義のせいで凝り固まった身体には以外にも効果的で、思わず声が漏れる。


「よし、今日は最後の日だ。皆に挨拶でもして回ろう!」


こんな時、商人だと偽っておいて良かったと心から思った。遠い地に行くといっても怪しまれることはないから。

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