第四十五話
その人はまだ年若い女性に見えるが、何というか獣のようで、髪は顔に覆いかぶさり、その息は荒く、いつまで経っても地面に這いつくばっている。
人間だと分かり琥珀はとりあえずその場から逃げる必要はなくなったのだが、その彼女の様子がおかしいものだから、怖くてなかなか近づけない。
それなのに、怜は怖がる様子なんて全く感じさせることもなく、彼女の側にしゃがんだ。
「ちょ、怜……大丈夫な、」
「どうされました?」
怜は何も臆することなく彼女に話しかけた。
「……けてくれ」
「………何と?」
「……私の、子が死んじまいそうなんだ。あんた、医者だろ?」
女は掠れ掠れの声で何か喋っているようだ。琥珀は怖くて側を離れているから、何を怜に伝えているかまでは分からない。
「……怜、彼女は何て?」
怜は未だ這いつくばったままでいる女性に肩を貸して立ち上がらせた。
「………この方の子が危篤みたいです」
怜の顔はさっきまでの柔らかさは一切無くなっていた。
そして、そう言う口元は少し震えていた。
女性が言うままに山道を進んだ。
いや、山道というか、山の中の草木をかき分けて進んでいると言った方が正しいだろう。
怜は何の疑いもなしに従っているが、正直琥珀はこんな人気のない場所から急に出てきて子が危ないから一緒に来てくれなんて、本当のことなのだろうかと少し警戒しながら後を追っていた。
それに、大変失礼な話だが、とても女性に子がいるとは思えない。
何かの罠で、怜の身が危険にさらされたら自分が守らなければ。
そう意気込んだ琥珀は、二人にバレないように通りざまにあった枝を軽く折った。
だが、琥珀の意気込みを鼻で笑うかのように山の中から急に小屋に近いような、でも確かに人の生活感がある家が現れた。
「……俺の考えすぎだったか」
安心したような、だけどどこか格好つけて恥ずかしいような気持ちになって、琥珀は手に持っていた枝をポトンと落とした。
中には本当に子どもがいて、琥珀はてっきり一人二人ぐらいだと思っていたのだが、なんとそこには一番大きい子でもせいぜい10歳足らずの幼子が五人もいて、皆むしろの上で寝かされていた。
なんという地獄絵図だろうか。
皆顔が茹蛸のように赤く、痛みがあるのか頭を抱えていたり、体をさすっている。
琥珀は子ども達をよく見てぎょっとした。全員少しでも触れたらすぐに折れてしまいそうなほど細いではないか。もはや骨に皮が着いているだけといった方が適切なぐらいで、普段本来必要な量の食事を取れていないことが痛いほど伝わってきて、きまりが悪くなって琥珀は目を瞑った。
「母ちゃん、体中が痛いよぉ………」
「母ちゃん辛い…」
「寒い、寒いよ母ちゃん。助けて」
子ども達は母が帰ってきたことに気付き、その瞬間皆泣きじゃくりながら訴え始めた。
母親はすぐさま怜から手を離し、またぐしゃりと床に倒れ込んだが、何とか我が子の元に這いつくばってその肉の付いていない手で子の頭を撫でた。
「大丈夫だ、母ちゃんが医者を呼んできたからな。もうすぐ楽になるからな」
これが誠の外の世界なのか?
今まで自分が見てきた華やかで楽しい外の世界はほんの一部分で、これが現実なのか。
琥珀は初めて目の当たりにした惨状に目眩がした。
「………お母さん、この子たちはいつからこんな状態に?」
手は泣きじゃくる子どもたちの頭を撫でながら、母親は顔だけ怜の方を向いた。
「最初は一郎だけだったんだ。3日前やけに寒がり出して、急に高熱が出た。それから立て続けに皆同じように……」
「………そうですか」
怜は子どもたちの側にしゃがみ込んだ。
琥珀も、子どもたちのあまりに悲痛な表情に耐えられなくなり怜の隣に座った。
「怜、この子達はどうしてこんなことに……」
そう怜に問いかけても返事はない。
「……なあ、怜」
怜の方を見た瞬間、琥珀は思わず大きく目を見開いた。
怜の身体はまるで目の前の寒気で震える子ども達と同じように震えているではないか!
なんとかその手は子どもの額に触れ、熱の高さを確かめているようだが、その顔色を見るにとても冷静さはない。
いつかもこんなことがあった気がする。
そうだ。妓楼でお菊さんが倒れた時。
あの時の怜と同じだ。
あの時の怜も呼吸が荒くて、身体は微かに震えていた。
結局、怜は近くにいた父親を呼びに行ったんだった。
______まさか、怜は
琥珀は意を決して怜の腕を掴んだ。
怜は「えっ!?」と小さく声を上げたが、抵抗する様子はない。
琥珀はそのまま怜を連れ家を出た。
「す、珀!?いきなりどうしたのです!?」
「いや、ごめん……ちょっと外の空気吸いたくなっちゃって」
怜を無理やり連れ出したはいいものの、医者でもなくただの友人である自分の立場から核心をついてしまっては、いくら穏やかな怜でもその自尊心を傷つけてしまうと思って、琥珀はそうはぐらかすしかなかった。
だが、自覚がある怜は琥珀のそんな下手くそな嘘に気付いたみたいで、少し微笑んだ。
だけど、その笑みはいつもの可愛らしいものではなく、自虐的なものだ。
「…………珀も呆れちゃいましたよね」
「え、何て?」
「私は父のような医者を目指しておきながら、一人では怖くて診られないんです。父が私の歳だった時はもう立派な医者だったというのに、私は妓楼の時も今も……一人で救わなければと思った途端に必死に入れたはずの知識も信じられなくなってしまう。」
「何で?怜、必死に勉強してるじゃないか!なんでそんなに自信が無いんだよ?」
「二年前、初めて私は一人で巡察に出ました。その時は必死に勉強してきた自負もあって、疑うことなく治療に当たったんです………だけど」
その後は何となく察しがついた。
「ごめん、嫌なことを聞いた。大丈夫、思い出さなくていい」
「珀が謝ることじゃありませんよ……最終的に医院からそう離れた場所ではなかったので、命は助かりましたが、それから私は何をするにも臆病な人間になりました」
琥珀は前に例のことを臆病だと揶揄ったことを思い出した。
もしこのことを知っていたら、口が裂けでも怜を臆病だなんて言わないだろう。
「………でも」
怜は自分で自分の頬を強く叩いた。
あまりの強さに、初雪のように白い怜の頬は手形に赤くなってしまった。
「あいにく今は父の元から半刻も離れています。それに、私も子どもではありませんから、いつまでも甘えてはいられませんよね………怖くても、いつかは立ち向かわないと」
怜は琥珀の目をまっすぐ見て、手を取りぎゅっと握った。
「それに、今は珀もいてくれます」
自分の手を握る怜の手はいくら言葉では強く見せていてもやはり少し震えている。
語尾も少し気を抜けば涙声になりそうだ。
今までどれだけ怖くて、不安でそして自らを情けないと思ってきたのだろうか?
そんなこと、ただの友である琥珀は到底計りきれないが、それに立ち向かおうとしている怜を見て、その握られた手を強く握り返す以外無かった。
「そうだ、大丈夫。怜ならできる」
"大丈夫"
なんて無責任で、勝手な言葉だろうか。
もっと怜に寄り添える言葉はないのか?
何か他にできることはないのか?
なのに、怜の震えは収まり、さっきまで氷のように冷たかった手は温かさを取り戻している。
「……ありがとう、珀」




