第四十三話
「……そうか」
凛はそれ以上何も言ってこなかったし、琥珀も言えることが何も無かった。
そのまま戸に手をかけて外に出た。
晩秋の空気は肌を刺すような冷たさで、さっきまでは全く気が付かなかったのだが、木々はどれも褐色に染まり、地面は葉が絨毯を作っていた。
その景色はこれから訪れる冬を向かい入れる準備のようで、どこか淋しさを感じさせる。
こう感じるのは、自分の今の感情故だろうか。
足を進める度聞こえる、枯れた葉が砕ける音。
自分の悩み事も、こんな風に砕けて行ってしまえばいいのに。
______ガサッ
背後からも落ち葉を踏む音が聞こえる。
誰かがいるみたいだ。
『あれ、珀ですか!?』
自分がずっと待ち焦がれていた可愛い声が聞こえてくる。
慣れない悩み事なんてするから、ついに自分は幻聴が聞こえるようになったみたいだ。
「…………珀ですよね?」
いや、幻聴ではないのか?
その途端、期待とともに心臓の高鳴りを感じた。
振り返れば怜がいるのか?
あんなにずっと焦がれていたのに、飛びつきたいぐらい会いたかったのに、いざ本当にいると分かると、なぜこんなに臆病になっているんだ?振り返りたいのに、振り返りたくないと思ってしまっている自分がいる。
そもそも、好きだと自覚してから初めて会うんだ。
どんな顔して振り返ればいい?
自分は今どんな顔をしているだろうか?
さっきまでの暗い顔のままじゃないだろうか?
本当に呆れるが、どうも最近の自分の感情は忙しない。上がったり下がったり、自分でも嫌になってしまう。さっきまで、あんなに悩んでいたのにまるでそれが嘘のように頬が熱くなる。
「すみません…人違いでし」
「ち、違わないッ!違わない、俺だ、珀だ!!」
一体何をしているんだ自分は。怜を困らせてしまった。
今まで"会えたらどうしよう"と色々考えていたのに、結局何もキメられないまま振り返ってしまった。
今の自分は街の男達から見ても全然カッコついていないだろう。
「あ……よかった、人違いをしたと思って焦りました」
振り向いた先には、会いたくて堪らなかった人がすぐそこにいた。
可憐な花のような、可愛い小鳥のような。
_________その姿を目に映した瞬間、どうしてだろうか、もう止められなかった。
心が身体を引っ張って、勝手に走り出していった。
何も言わないまま、怜のか弱い身体を抱きしめて、もうどこにも行ってしまわないように、更に力強く抱いた。
怜の身体は、少しでも力を入れたら折れてしまうそうなのに、我慢することなんてできなかった。
「は……珀?」
会っていない期間なんて、たった一週間ぐらいなのに、もう何年も離れていたように感じる。
でも、この一週間の間に、あまりにも色々なことがありすぎて、あまりにも心が辛くて、なぜだろうか。怜を見た途端、実際に目に映した途端、心から涙が溢れてきて止まらなくなってしまった。
抱きしめた怜の身体の、春の陽だまりのような温もりが、小花から微かに漂うような香りが、あまりにも優しくて柔らかくて、涙が止まってくれない。
怜の黒髪や衣を濡らしてしまっているのに、離れたくない気持ちが勝ってしまう。
会って急に友から抱きしめられたら流石の怜もびっくりするだろう、引いていしまうだろう。
そう思っている冷静な自分もいるのに、他方の自分はそれでもこのままでいたいと思い続けている。
「…………ッ!?」
自分の背中を優しく撫でる温もりを感じた。
怜が自分をさすってくれているのか?
「…………れ、怜…俺」
「………何も言わなくていいですよ」
そういう怜の声は、いつもの囀りのような可愛らしい声とは違って、慈しむような、全てを受け入れてくれるような声をしている。
もし天女がいるとしたら、こんな声をしているのだろうか。
「……………会いたかった」
「私も、珀に会いたかったですよ」
その言葉が、自分の意味とは違ったものだとしても、そうだとしても。
そう返してくれたことが、その言葉自体が何にも代えがたい幸せだった。
「まだ父は地方にいるのですが、薬が切れてしまいそうで。それを取りに私だけ一旦戻ってきたんです」
自分が落ち着きを取り戻してからも、怜は本当にどうして自分があんなに不可解な行動を起こしたのか訊かないでいてくれた。
自分でも思い出すだけで怜に申し訳ないと思うぐらいだから、訊かないでいてくれるのはありがたかった。
「………じゃあ、また行っちゃうのか?」
「えぇ、せっかく珀に会えたのに本当に残念ですが。地方の様子が思っていたより良くないんです」
「そっか………」
そう聞いた瞬間、また心にぽっかり穴が開いてしまった。
また空虚になりそうで、心なしか怖くなった。
でも、怜は人のために頑張ってるんだ、自分の我儘で止めることなんてしてはいけない。
「地方の様子はそんなに酷いのか?」
「えぇ、冬が近づいて寒くなっていますから。本来、ちょっとした風邪のようなものなんですけど、普段の健康状態が良くないので重症化しやすいんです。合併症を引き起こしてしまったり」
「……そうなのか」
また兄と話したあの日のことを思い出した。
「_____なあ、怜。俺も一緒について行って良いか?」
それは、意図しないで出た言葉だった。




