第四十話
「う〜ん」
珍しく琥珀は考え込んでいた。
桃源郷のように美しい自殿の庭にポツンと胡座をかき腕を組んでいるから、側から見たら悟りでも開いている途中かのように見えるだろう。
だが、この若き王子の頭の中は悟りとは遥かに縁遠い煩悩に溢れていた。
「俺は一体どうしてしまったんだ?この俺が酒を飲みたいと思わないし、街に出て女の子を探す気にもなれないなんて!」
この国一番の遊び人がどうしてしまったことやら、あれから琥珀は一度も街に出て遊んでいないのだ。
『あ、そうだ。私、父の手伝いで地方に行くので暫く珀に会えなくなります』
怜にそう言われてしまってから、無自覚だが琥珀は抜け殻状態になっていた。
前までは毎日朝早くから王宮を出て酒を飲み歩き、言い寄ってくる女の子を品定めし、夜になったら妓楼で宴会をしていたというのに、朝早くは起きるもののどうも王宮の外に出る気になれず、こうして庭をフラフラ散歩しては、自分が昼間に王宮にいるなんて可笑しな病にでもなってしまったのではないかと自問自答しているのだ。
胡座を解き、だらしなく大の字になった。庭の草木はフサフサで、寝転んでも身体が痛くならないのが琥珀なりのこだわりなのだが、初めて役に立った気がする。
「怜に会いたいなあ……あの可愛い笑顔が見たい」
今日は綺麗な秋晴れで、琥珀はそんな無垢な青空にそう呟いた。雲ひとつない空はどんな話も聞いてくれるような気がしたのだ。
だがしかし、暫く経ってから自分が何を言い放ったのかを反芻し、驚いて飛び起きた。
「なっ………俺、今なんて!?」
顔が赤くなるのを感じて、更に体温が上がり始める。
無自覚で放った言葉は本心そのものだ。
「いやいやいやいや、間違いないだろう!?可愛いだろ怜は!爛さんだって店で働いてくれって言ってたぐらいだし!!別におかしなことじゃない……!!」
誰も何も言っていないのだから、そう慌てて弁解しても当然誰も聞いていない。
華やかな庭に釣られて遊びにきた小鳥の囀りしか聞こえてこない。
琥珀はもう一度胡座をかいて考えた。
「しっかし、怜と出会ってからだな。俺がこう…ちょっとおかしくなったのは。」
思い返せば、怜と会うようになってから琥珀は初めて経験する感情が多くなったような気がする。
例に初めて酒を飲ませた時と妓楼に連れて行った時。あの時の怜のなんというか、甘ったるくて色っぽい表情を見た時の感情、そしてその顔を自分以外の人に見せられた時の感情。
これらは一体何なのだろうか?
「ああっ!もう!!!」
考えれば考えるほど、更なる問いかけが琥珀の肩を叩いてくる。琥珀は普段あまり頭を使わないから、ちょっとでも使うとすぐ沸騰してしまって嫌になる。
「ダメだッ!!俺には分からない!!もう降参だ!」
「______それで私の元にいらっしゃった、ということですか」
本殿から遠く離れた離宮。
松の木が多く生い茂り、池では鯉たちが静かに泳いでいて、岩には苔が生えている。
瓦の屋根で、琥珀たちの居住である王宮とは違って素朴、質素さを表した殿を見ると、自然と心が落ち着くようだ。
猛龍の実の弟である黒蛇は特別良い品なのだろうか、深い香りを漂わせる茶を湯呑みに慣れた手つきで注いでいる。
「そうなんだよ…もう分っかんなくってさ、風流心がある叔父上ならこういうことに詳しいと思って!!」
黒蛇はふふ、と小さく笑って茶托を琥珀の前に差し出した。
「……確かに、王様や青藍様よりは、幾分か私の方が詳しいかもしれませんね」
「でしょ!?父上は恐ろしくて近づきたくないし、兄上にはこんな可笑しなことで時間を取らせたくないんだよ!」
「……やはり、親子ですね」
「ん?叔父上、なんか言った?」
黒蛇が何か言ったように聞こえたが、茶菓子を用意する音のせいでいまいちハッキリ聞こえなかった。
「いえ?何も。ですが、今日こうして私の元に来たことは王様には伝えてはいけませんよ?」
「ええ?良いじゃん別に……」
「ダメですよ、また王様に怒られたいのですか?」
黒蛇は甘い菓子を琥珀の前に差し出しながら、戒めるようにもう一度告げた。
琥珀には理由が分からないが、実の兄弟である琥珀の父・猛龍と黒蛇はたいそう仲が悪いみたいだ。
祭典などで顔を合わせることはあっても、二人が仲睦まじく喋っているところを見たことがない。
琥珀がまだ猛龍と親子らしく会っていた幼い頃から、離宮にいる黒蛇には会いに行くなと何度言われていたことだろうか。
幼い頃は父の言いつけを守り、黒蛇のことは怖い叔父だと思っていたが、父とウマが合わなくなりお互いを遠ざけるようになってからは、王宮内で居場所がなくなってしまったためよく黒蛇の元を訪ねるようになった。
黒蛇は自らも絵画や書、詩、説話などが好きだからだろうか、自由奔放に暮らす琥珀のことを阿呆扱いしないで迎え入れてくれた。それに、他の者が聞いたらくだらないと一蹴するような琥珀のたわいもない話も面白がって、笑って聞いてくれるのだ。
だから琥珀は父よりも、黒蛇のことが大好きなのだ。
「ですが、嬉しいことですね。あんなに小さかった王子がこんな恋情を抱く日が来るなんて……私もすっかり歳を取りました」
滅多に食べられない甘い茶菓子に夢中で、黒蛇の言葉を聞き流していたが、耳馴染みのない単語に眉をピクリとさせた。
「…………レンジョウ?叔父上、レンジョウって何?」
思いがけない問いかけだったのか、黒蛇は珍しく目を大きく見開いて、琥珀の方を見た。
「………成熟しているのか、初心なのか分からない方ですね」
黒蛇はそう言って、可愛らしい子どもでも見ているかのようにクスクスと笑った。
「ちょっと!!そういうのいいから!!早く教えて、どういう意味なの!?」
はいはい、失礼いたしました、と言ってはいるが、まだ少し笑っている。
よいしょ、と言って、黒蛇はやっとゆっくり琥珀の前に腰かけた。
「王子、貴方はその子のことを好いているのでしょう?」
「も、もちろん好きだよ?………大切な友達、」
「違いますよ、私が言っているのはそういうことではありません」
黒蛇にしっかりと目を見られた。
彼は父である猛龍とは対照的で、その切れ長のまるで刀のような鋭い目からは氷のような冷たさが感じられる。
もう長年の付き合いだから、実際の黒蛇がそんな冷徹な人間ではないことも分かっているが、彼と初めて顔を合わせる者は思わず背筋を凍らせるだろう。
「ど、どういうこと………?」
「王子、貴方も薄々気付いているのではないのですか?だから今私の所にいらっしゃるのですよね」
顔から身体まで、全身が急に熱くなるのを感じた。心臓の鼓動が早くなり、血の巡りが異様に良くなりだした気がする。
なんでこんなに焦っているんだ?いや、そもそも叔父上は一体何を言っているんだ?
____いや、叔父上の言う通り自分は誰かにこう言ってほしかったのでは?
この感情を、怜に対する経験したことのないこの感情を、自分で結論付けるのがあまりにも恐ろしすぎて。
「い…………いや、お、叔父上ッ!何言ってるのさ!聞いてた俺の話!?相手、男だよ?確かに、その辺にいる女の子よりも可愛くて綺麗で…………控えめに言っても天から舞い降りたような子だけどさ!!ありえないって……もう、叔父上ったら。俺真剣に聞いているんだけど!!」
いや、やっぱりありえない!!
駄目だ駄目だ!何を考えているんだ俺は!!
なのに、黒蛇は慌てふためく甥を前にしても、落ち着き払っている。
それどころか、ふふふと何だか楽しそうに笑っているではないか。
「王子、この世の物事にありえないことなどありませんよ?人を好きになるのに、いわゆる常識というものが罷り通るなら、私たちはどれだけ楽でしょうか」
そう言う黒蛇の瞳は、さっきの氷柱のようなものとは打って変わって、色を含んでいるように感じられた。
その漆黒はいつも心の底で何を考えているか分からないミステリアスさがあるのだが、今はそれさえも妖しさがあって、ずいぶんと艶めかしい。
「いや、それにしたって!!第一、友にそんな…………恋をするなんて、怜が知ったら」
引かれるかもしれない、友達でもいられなくなるかもしれない。
そう考えただけで、実際に怜にそう言われたわけでもないのに、心がどうしても痛んで、自分で自分が恥ずかしくなる。ただの想像なのに、目は勝手に涙を溜める。
その表情を見られたくなくて琥珀はすぐ俯いたが、勘の鋭い黒蛇にはとっくにバレているだろう。
「……………確かに、友人から恋仲になるなど夢のまた夢のようなものかもしれないですね。こんなこと言いたくもないですが、二度と顔を合わせられなくなるかもしれません…………私のように」
最後の言葉は琥珀には聞こえなかった。
黒蛇は琥珀が気付かないぐらい小さな溜息をついて、ゆっくりと立ち上がり南側の障子を開けた。
なんて良い眺めだろうか、障子を開けた先の縁側からは静かで趣のある庭が一望できる。
黒蛇は縁側に座り足を外に投げ出した。王族らしからぬ仕草ではあるものの、ここはあくまで離宮。
あいにくお節介に小言を言ってくるような官吏は少ないのだ。
「_______おいで、琥珀王子」
初めて黒蛇にしっかりと名を呼ばれた気がする。
血のつながった者に、自分の恋心を知られて、年頃の琥珀は恥ずかしくてしょうがないのだが、自分の名を呼ぶ黒蛇の声は、どうしてだろうか?琥珀よりも繊細で、指一本でも触れれば今にも消えてしまいそうで、琥珀の恋心に共感はできなくても理解はしてくれているのかもしれないと感じた。
俯いていた顔をあげ、黒蛇の隣に座った。
「不思議ですよね。………叶うはずもないと誰よりも自分自身が分かっているというのに。傷つくたび、こんな想いは捨ててしまおうと何度も思うのに。………馬鹿馬鹿しくも、ずっと恋い慕っていたいという想いが抑えられないのですから」
黒蛇は、そうため息交じりに呟いた。そう呟く声色、目線は儚く、まるで遠い過去を回顧しているように見える。
一体誰を思い浮かべれば、そんな悲しいような、どこかやりきれなくて悔しそうな表情になるのだろうか?いくら叔父が風流人であったとしても、実際にそんな恋をしたことがなければ流石に無理があるだろう。
『叔父上も、そんな恋心を抱いたことがあるの?』
琥珀はそう喉元まで出かかったが、いくら親族とはいえ年長者の過去を根掘り葉掘り聞くのは気が引けた。
「…………俺はまだ、そこまでの気持ちは分からないけど」
そう子どものように呟くと、黒蛇はさっきまでとは打って変わってあっけらかんに笑い出した。
「ちょっと、叔父上!笑わないでよッ!!」
そう言っても、なおクスクス笑い続けている。
「確かに………!やっと最近恋心を自覚したのですもの、貴方にはまだ分からないですよね」
「なッ!!なんかちょっと俺のこと馬鹿にしてるよね!?」
「いえいえ。王子様を馬鹿にするなど、そんなことはしておりませんよ。年寄りが言ったことは忘れてください」
「やっぱ馬鹿にしてる!!!!」
「長居しすぎたな、こりゃあ望月に何か言われるぞ………。どう言い訳しようかな」
もうすぐ冬が訪れるからか、まだ夕時だというのに空はすっかり色を変え、辺りは闇に包まれ出した。
「…………しっかし」
黒蛇に言われたことを思い出し、濃紺の空を見上げた。
何もないと思っていたけれど、せっかちな月につられて星がいくつか点々としている。
「…………俺、怜のこと好きだったんだ。好きって、こういう気持ちなんだ」
今まで模範のような王子だったわけではないのに、散々王宮の外で遊んできたというのに、琥珀は初めてこの言葉を口にした気がする。
男なら誰でも浮足立ってしまうような絶世の美女や、気立ての良い女の子など、きっとこの世の男の誰よりも多くの女性と関わりを持ってきたのに、失礼な話だが彼女たちに対して愛おしいと、自分だけの人にしたいと思ったことなど一度もないのだ。街で皆が楽しそうに読んでいた恋物語を試しに読んでみたこともあるが、その心情がどうも理解できず自分には一生縁のない話だと大好きな春本ばかり読んでいたというのに。
ましてや怜は男だ、一体今までと何が違ったというのだろうか?数多の女性たちになくて、怜にあるものとはいったい何なのだろうか?
「…………あ~また分からない!俺はいつ、怜の何を好きになったんだ?顔か?あのちょっと抜けているところか!?頭が良いところか!?」
色々挙げてみてもどうにもしっくりしない。心にあるのは、怜を愛おしく思っていること、他の誰かとに取られてほしくないという想いばかりで、琥珀の問いはどうにも解決できそうにない。
そんな自分に呆れて大きな溜息をついた。でも、その溜息は、何というか、少しの幸せも含まれている甘いものだ。
「今度怜に会ったらどんな顔をすればいいんだ………?こんなのを自覚しちゃったら、まともに顔も見れそうにない!」
その日の帰り道は、冷たい空気が肌を刺してくるというのに、なんだか頬は火照っていて、身体まで温かい。心はふわふわ浮かれていて、足取りも跳ねるように軽く感じた。
まともに顔も見れないと言っておきながら、琥珀はすぐにでも怜に会いたくて仕方ない。久しぶりに会ったら何を話そうか?どんな可愛い笑顔を見せてくれるだろうか?そう想像するだけで、この世の全てが明るく見えたのだ。
かなり夜も更けたのに、青藍はまだ眠りについていなかった。
「青藍様……、もうお休みになってはいかがですか?これ以上は御身体に障ります」
「まだ考えることがあるのだ。大丈夫、最近は少し調子も良いから」
「………そうですか、ですがあまり無理はなさらず」
心配する官吏に青藍はニコリと笑いかけた。
「ええ、いつも心配をかけて申し訳ない。でも、本当に大丈夫だから」
猛龍からとんでもないことを聞かされてから青藍の頭の中はいつも曇がかっていた。
自分の病が完治するようなものではないことぐらい、自分が一番分かっているというのに、どうしたら王としての政務が務まるほど回復するだろうか?そんな医者がいるなんてにわかに信じがたい。神でもなければそんなことは不可能だ。
それに、そもそもの話だが、なぜ猛龍はその医官のことを知っているのだろう?
完治できるのが本当ならば、青藍だって喜んで治療を受ける。
ただ、この世の王である猛龍に、琥珀のことを真っ向否定している猛龍に、自分のために禁忌を犯させるなど絶対にしたくはない。
バレない秘密なんてあるはずがない。
知られたときに、大臣たちからどんな非難が向けられるだろうか?
王は絶対的な権力を持っているように見えるが、実際は常に綱渡りをしているような日々の連続だ。
常に大臣たちから監視されていて、いつ尾を見せるか狙われているのだ。
危険なことはすべきではない。
「……………仕様がない。」
青藍は先ほどの官吏をもう一度呼んだ。
すぐ側に控えていたらしく、すぐに出てきてくれた。
「いかがしましたか?………あ!!もうお休みになられますか!?」
官吏は期待した表情を見せた。
その姿がなんだか可愛らしく見えて、青藍はまた柔らかく笑った。
「分かったよ、もう休むから。でも、一つお願いがあるんだ」
もう休むと聞いて、官吏はすぐさま準備をしようとしたが、続きの言葉があると分かって、ぴたりと動きを止めた。
「なんでしょうか?」
青藍は微笑んだまま続けた。
「明日、夜が明けたら琥珀をここに呼んでほしいんだ」
翌日の朝。
自身の寝台の上で琥珀は目を覚ました。
どんなに寝台の敷布をぐちゃぐちゃにして外に出て行こうと、夜眠るときには綺麗に整えられているから、いつもフカフカの布団の上で眠れるのだ。
そんなだからいつも目覚めはよく、今日も目をパチリを開けたあと、ぴょんと立ち上がった。
すぐ小窓を開けて、陽の光を自室の中に取り入れた。
ぐっと身体を伸ばした。挙げた腕を勢いよく降ろすと、思わず声が漏れてしまう。
「今日も良い天気だな、秋晴れってやつか」
結局昨日は浮足立っていたものだから、自殿に着いたのはかなり遅かっただろう。
想像した通り、また望月が仁王立ちで待っていて、だけど今回もまたあまり怖くなかったものだから、琥珀は素通りして自室に入っていったのだ。後ろでぶつぶつと小言を言っていたような気がするが、昨晩の琥珀は気持ちが高揚していて、その耳には何も入ってこなかった。
そんな幸せな気持ちのまま眠りについたから、目覚めた朝も気分がたいそう良かった。
ただ、残念なことは今日も今日とて怜に会えないこと。
「せっかく今日は良い日なのに、まだ会えないなんて………!いつになったら会えるんだ?そういえば、怜は”暫く”って言っていたけど、それってどれくらいだ?」
実のところ、最後に会ってからまだ一週間ぐらいしか経っていないのだが、恋心を自覚した琥珀にとっては、その一週間はあまりにも長すぎて、何月も待たされているような感覚になってしまっている。
「………試しに怜の家にでも行ってみるか?………いや、迷惑か?まだ居なかったら余計会いたくなるだけか?」
一度怜の家を訪れただけだが、使わないだけで頭がよく切れる琥珀は怜の家までの道のりをしっかり覚えていた。
「いや、行ってみるだけいいだろ!?」
そう言って、街に出る用の衣服を隠し場所から取り出し、身支度をしようとした瞬間、小言おじさんの声が戸口から聞こえてきた。
せっかく決意をして、もしかしたら会えるかもしれないと心を跳ねさせていたのに、その声を聞いた途端、一気に興ざめした。
「…………………なんだ?」
「琥珀様、お目覚めでしょうか?身支度に参りました」
「いい、要らない!!」
「いえ、今日はきちんと正装をしただきますからね」
望月の声が異様に真面目だ。
いつも本人にとったらふざけているつもりはないのだろうが、琥珀からすると、芸者のように話し方に癖があって面白いないつもと思っているのだ。
嫌な予感がする。
「…………従う気はないけど、なんで?」
いつもならこう言うと、「いや、意地でも従ってもらいますからね!!」と言い返してくるのだが、今日はやけにノリが悪い。
腹でも下したのだろうか?
「________青藍様が貴方様をお呼びだからです。」




