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紫苑に露  作者: 花信風描
第四章 追憶
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第三十九話

目を覚ますと、屋内にいることだけは分かった。

天井があるから。


いつぶりだろう?雨風しのげる場所にいるのは。

あの地獄絵図にいた時は、この鳥籠から抜け出せる日を夢に見ていたというのに。

幼い禿時代は身請けなんてものを夢に見たこともあったけれど。その夢を叶えたお姉さんもいたけれど。そんなものへの期待は大人になるにつれ自然と薄れていってしまった。そんな夢を叶えられるのは特別な存在で、私はそんなんじゃなくて、至って凡人だった。

だから、私には到底縁がない話だった。


その現実に気付いてからは、借金を完済するかその前に私が死ぬか。そのあまりにも惨めな、笑ってしまうような綱渡りの毎日をただただ繰り返した。まるで人形のように、全ての感情という感情を捨てて、目の前にいる好きでもない、興味もない人にただただ身体を犠牲にし続けた。最初は、あまりにも怖くて、気分が悪くて。客を見送った後は触れられた身体が気持ち悪くて、嘘で染められた私が気持ち悪くて、何度も吐いて、食事なんて取れなかったぐらいだけれど、人間の何とも素晴らしいというか、憎たらしい機能ともいうべきか、いつしか何も感じなくなっていた。


本来、いや本来というものなんて分からないけれど、このように身体を重ねるということは、幸せなことなのでしょう?私にとったらもはや借金を返すためという理由も忘れるほど無意味な行為だったけれど、もし私が物語で出てくるような良家の娘だったならば、相手が自分の好いた人ならば、逆に涙が出てしまうほど幸福を感じる瞬間なのでしょうか?

他の子たちが、ひそひそと「想いを寄せる相手がいてね、」と話していたことをちらりと聞いたことがあったけれど、私にはそんなことですらも無縁だった。

目の前のことに必死で、何も考えられなかったから。




だから、もうすぐ年季が明けると分かった時には、何十年かぶりに感情というものを自覚して、初めて人間になれた気がした。

初めて、私の人生に期待が生まれた。もしかしたら、私にも物語のような恋をするときが訪れるかもしれないと。




でも、今、あの時の私に教えてあげたい。


____________そんな夢物語なんてやはり私には無縁だ、と







「目が覚めましたか?」

誰かが何か話しかけてきている。

どうやら私は寝かされていたみたいで、起き上がろうとしたが身体が思うように動いてくれない。久しぶりに柔らかい布団のようなものの上で寝れているから、身体が離れたくないと訴えているのだろう。


「あぁ、大丈夫です。そのまま動かないで」

声の主はどんどんこちらに近づいてくる。その声はまだあどけなさも残っているけど低く、落ち着きのある声だ。

妓楼に来るような男からは聞いたこともない、聞き心地の良い声。

だからだろうか?全く知らない場所で、知らない人が近づいてきているというのに、道端で暮らしているいつもの私なら逃げなければと恐怖に陥るのに、そんな気は湧いてこない。


声の主が私を覗き込むようにして顔を見せた。



妓楼で何人もの男たちや美しい女性を見てきたけれど、思わず息を呑んでしまった。

妓女のような派手さはないが、整った顔立ちで、目には淀みがなく真っすぐこちらを見ている。

飾り気がなく、真面目そうで、悪い人ではなさそうだ。

今まで接したことのないタイプの人だったから、頬が少し色づくのを感じ、すぐに顔を背けてしまった。


そんな私の様子を見て嫌がったと思ったのだろう、彼は「す、すみません」と言ってすぐ顔を離し、近くの椅子に腰かけた。

まだ幼いのか、全体的に落ち着いてはいるが焦った姿が少し自信なさげに見える。


「……いきなりすみませんでした。私は蓮司といいます。」

「……蓮司、さん」


久しぶりに声を出した。自分の声とは思えないぐらいか弱いもので、いつから私はこんな弱い女になったのだろう。


「……私は、道端にいたはずなのに、」

ああ、と彼が小さくつぶやいた。

「あなたは道端で倒れていたみたいで、流行病を心配した近隣の方がここまであなたを連れてきたのです。」

「近隣の…」


私のことを糞を見るような目で見ていた村の人たちの顔が浮かんできた。

やっと追い出すことができて、さぞかし清々したでしょう。

その表情を想像したら、虚しくて、悲しくて胸が張り裂けそうだけど、そりゃそうだ、私は村の治安を乱す浮浪人でしかなかったのだから。

でも、私だって生きていかなければならなかっただけなのに、一体どうすれば良かったというの?




悲しさを紛らわせるために首を振り、辺りを一度見渡した。

なんだか前にもここにきた気がしたが、私は何年も妓楼で過ごしてきたのだから外の世界で来たことのある場所なんてあるわけがない。妓楼を出てからだって、こんな室内で過ごしてなどいないのだし。


薬草のような苦い匂いが鼻をツンと刺す。あまり嗅いでいて心地よいものではないが、ここは薬屋なのだろうか?でも、薬屋にしては机や椅子が多い気もするし、一体どこなのだろう?

目の前の彼は至って害のなさそうな人間に見えるけれど、近隣の人間がこの迷惑者の私を連れてきたということは、あまり良い場所ではないかもしれない。



「でも、良かったです。ここに連れてきてこられなかったら、あなたの命は救えませんでしたから」

「……え?」

「私は一応医者で、ここは………元は医学塾ですが医院のような場所です。あなたは吐血をしていましたが、今までもこのようなことが?」


「医学塾……医者………」




頭の奥で何かが疼いている。何か忘れかけていたことを思い出せそうな気がする。



『私は、絶対に諦めませんから…!あなたのような人たちが幸せに暮らせるように頑張りますから……だから…諦めないで、あともう少し待っていてください』



____ああ、そうだ



確かに、私は前ここに来たことがある、いや、連れてきてもらったことがある。

そうだ。明るくて、朗らかで温かい太陽のような人だった。

生まれて初めて、私のような者に温もりをくれた人がいた。そういうばその人も医者だった。



さっきまで全く身体が動かなったのに、その人を思い出した途端とっさに身体が動いた。だけど、起き上がった瞬間、腹の辺りに激痛が走り「いっ…」と声にならない呻きが漏れる。

彼は予想外の行動にギョッとした顔をして立ち上がり、私の肩を支えた。


「だ…、だめですよ動いたらッ!」

「___あの方は」

「え……あの方、とは?」


「前、かなり前かもしれないけれど…私をここまで連れてきてくれた方がいたんです。ちょうど貴方と同じぐらいの歳で、その方も医者だと言っていました」



「……そうだ、その方とても優しい人でした、朗らかな青年で。私は治療なんて受けられないと言って八つ当たりをしてしまったのに怒ることもなく、なぜかその方は辛そうな顔をして私に謝ったんです」



「蓮司さんはここの医者なんですよね?ご存知ないですか?あの時は言えなかったけれど一言お礼が言いたい…」




言いながら彼の方へ顔を上げ、思わず目を大きく開いた。


目の前に立っている彼の表情が先ほどまでの落ち着いた様子とは打って変わっていたからだ。

その澄んでいた瞳はどこかくすみ虚ろになって、悲しみよりも深い、後悔なのか苦しみに満ちた表情をしていて、一体どこを見ているのか焦点があっていない。かろうじて息はしているが、まるで魂が抜けたようだ。




「あ、あの……?」


そんな大きな声を出したわけじゃないのに、彼は大きく身体をびくつかせた。



「……す、すみません少し外に出てきます。決して動かずに安静にしていてください。あなたは手術をしたので、下手に動くと出血しますから」


そう言って、再び私の肩に触れ、ゆっくりと寝かせてくれた。

その声色や手つきは丁寧なのだが、彼の目はやはり生気が宿っていなくて心ここにあらずといった様子だ。


そのまま少しふらつきながら戸口に向かっていったが、私はそんな彼をただ目で追うことしかできなかった。








蓮司は地に足がついている実感がないままフラフラと人目につかない医学塾の裏まで歩いて行った。

さっきの彼女が言っていた人物が誰なのか。言葉を聞いて、何を思い出し、何が蓮司を責め立て始めたのか。

そんなことは言うまでもない。

その場にしゃがみ込み天を見上げ、静かに目を閉じた。


「…………秀、君が叶えたかったこと………君は頑張っていたのに、それなのに僕は…………」


その後の言葉はもう言いたくなかった。

でも、言葉にしなくても、頭の中のもう一人の自分が、


「それなのに、お前は今まで何をしていたのだ?」

「お前だけ生き残って申し訳ないと思わないのか?」

「お前より人を救っていた秀の方が生きている価値があった!」


嘲笑って、責め立ててくる。



『貧しくて治療を受けられない人を救いたい』



そんな医者としても、人間としても褒められるべき夢を抱いていた秀はもう既に冷たい土の中。さっきの彼女の恩人はもう帰らぬ人なのだ。

先刻どこにいるのか問われて、とてもではないが自分の口から事実を伝えられなかった。秀を一人で死なせておいて自分に秀の死を語る権利などない。一体どう言葉にすれば良いというのだ?




右手で髪をぐしゃりと掴んだ。

割れてしまいそうなぐらい強く歯軋りをしているみたいで、聞き苦しい音が脳内に響く。


秀じゃなくて、自分が死ぬべきだったんだ。

秀が生きていてくれた方が、人々のためになっただろうに……!


自分は秀のようにはできないのに………!!



こんなことをいつまでも考えていたって秀は帰ってこないし意味がないと分かっているのに、考えたくないのに、そう思えば思うほど、どうしても考えてしまう。

どこまでも深く根を下ろす後悔と消えてしまいたい、自分を消してしまいたいという浅はかな感情がどんどん覆いかぶさって来て、侵食してくる。

頭の中が喰われていくような感覚に陥って、蓮司は頭を抱え俯いた。もう止めてほしくて、何度も頭を叩いた。

もう秀は居ないのに、しっかりしろと叱ってくれる人はいないのに、自分一人で立っていかないといけないのに、そう思う心とは裏腹に、弱い自分がどんどん顔を出しては酷い言葉を投げかけてくる。




こんな時、自分がこんなにも情けなく前に進めない時、秀なら何を言っただろうか?

秀が今の自分を見たら、どう思うだろうか?



_______秀なら、秀なら………




「……………あ、あの!!!」

何者かに腕を掴まれた。


「あ、頭……そんなに叩いたら割れちゃいます」

「き、君は……?」

「え…さっきの………」


そう言われよく見ると、目の前に立っていたのはさっき自分が助けた女性だった。ついさっきまで話していたのに、自分の頭の中があまりにもぐちゃぐちゃになっていたせいか、一瞬で忘れてしまっていたようだ。

彼女の表情はさっきまでとは違い、随分と大人に見えた。ここに連れてこられた時や治療していたときはそれどころではなかったから全く気づかなかったのだが、彼女の肌は透き通るほど白く、その双眸は控えめながらもビー玉のように美しかった。


「あ、す、すみません………」


そう言うと、彼女はきまりが悪そうに目線を分かりやすく逸らした。


「……ごめんなさい、さっきの蓮司さんの様子がどうしても気になってしまって。それに、泣き声のようなものも聞こえましたから、もしかして私いけないことを聞いてしまいましたか?」


自分はどうやら無意識に声を出して泣いていたようだ。しかも、室内にまで聞こえるほど。



「いえ、あなたのせいでは決してありません。これは、僕の問題で………僕が」


言いながら言葉尻が揺れるのを感じ、すぐ言葉をしまおうと思った矢先、ずっと止んでいたはずの涙に先を越されてしまった。

出てきてしまってはもう二度と止められないほどの勢いで溢れてくる。



「えっ…!ど、どうされたのですか!?」



驚いた彼女はさっと自分の側までしゃがみ込み、少し躊躇した後、そっと自分の背中をさすってくれた。


その手の温もりを感じた途端、一人で抱え込んでおくことはもう限界だった。 

思考とは裏腹に感情が勝手に喋り出す。なんとも聞き苦しい、声とも思えないような声で。


「ごめんなさい……あなたの言う医者は……秀はもういないんです、僕のせいで…もうどこにもいないんです」







果たしてそれから何時辰泣いただろうか。


何も知らない病人の彼女にしゃがませて、心配させて、自分はなんて情けない人間で、なんて自分勝手な人間だろうか。

天もこの茶番に呆れたのだろう。次第に暗闇を連れてきてこの憎々しい男を闇の中へ隠し込んだ。

冷たい空気が肌をチクリと刺し出して、やっと我に返った。


それまで彼女はずっと側にいてくれた。

詳しく聞き出すわけでもなく、分かったような口を聞くわけでもなく、ただただ黙って背中を撫でてくれていた。




彼女の名はいとといった。いとはこんな弱くて情けない自分と長年連れ添ってくれた。


彼女は少しばかり前まで妓女として生きていたらしく、初めて自分にそう告げてくれた時その手は小さく震えていたが、こんな自分にとってそんなことなど心底どうでも良かった。本当に、本当にこれっぽっちも気にしたことなどなかった。


彼女は秀のことについても、自分が告白するまで何も聞いてこなかった。自分が息を詰まらせながら初めて彼女に全てを話せた時、それでも彼女は責めることなく、静かに涙を流し、優しく抱きしめてくれた。細くて体温の低い身体だったけれど、その温かな心に何度助けられてきただろうか。



「私たち二人で秀さんの夢を叶えましょう。秀さんのようにはできないかもしれないけれど、せめてもの弔いになるはずですよ」





そうして彼女と多くの人を救った。


その代償は決して小さくなく、貧しく暮らしてきたいとに贅沢な暮らしをさせてあげられなかったがそれでも彼女は文句一つ言うことなく誰にでも献身的で、自分にはもったいないぐらい本当に素敵な女性だった。






いとが亡くなってからも、幼い怜と凛を育てながらこの生活を続けた。


人を救う度、助かる命が増える度、秀と、そしていとと繋がれている気がした。こんな自分でも役に立てている気がしたのだ_______________















「父上?どうされたのですか?」


愛息子に声を掛けられハッとした。

どうやら、遠い過去に意識が飛んでいたみたいだ。


「いや、何でもない。大丈夫だ」

「……?そうですか、急ぎましょう。源さんが待っていますから」

「ああ、そうだな」



どうしてこんな昔のことを思い出していたのだろうか。

辛い記憶はやはり何年経っても褪せないのだろうか?



「………わあ、見てください父上!綺麗な花が沢山咲いてますよ!………この花の名はなんていうのでしょうか?」

指された方を見やると、辺り一面に薄紫色の花びらたちが寄り添って咲き、秋の冷たい風に静かに揺られている。



あぁ、君たちのせいか。









「………この花はね、紫苑というんだ」





秀、いと

_______これから一体僕はどうすればいいのだろうか?

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