第三十七話
自室の窓際で立派な庭を眺めながら寧々は大きな溜息をついた。
それが何に対して、誰に対しての溜息なのか寧々自身もよく分からない。
蓮司に別れを告げたあの日。
あの日はもう覚悟を決めたと、父の言う通り自分は清氏一族の人間として、我が一族の繁栄のために感情を捨てると決心したのに、なぜ心というのはこんなにも思い通りにいかないのだろうか。
蓮司のことなんて、淡い恋心なんて忘れ去りたいのに、消えるどころか日に日に増していってさえいるぐらいだ。
あの瞳に映りたいと願う気持ちを抑えられない。自分に向けられるあの優しい顔を見たいと願ってしまう。今もこの同じ空の下に焦がれる蓮司はいるというのに、どうして会えないのか?
蓮司はいつか他の女性と結ばれるのだろうか。そんなこと、私が知ったことではないのに、関係なんてないのに、そんなことを考え出すと、初めて知る汚い自分が顔を出してきて、夜も眠れなくなる。
どうして、こんなに好きなのに、私は蓮司と恋仲になれないのだろうか?
こんな気持ちのまま、自分で自分に嘘をついたまま、どうやって他の人に恋心を抱けばいいいうのだろう?他に想い人がいたまま、例え相手が自分を愛してくれたとしても、その好意に対して生まれるのは罪悪感だけだ。そんなの、自分の人生は永遠に拷問を受け続けているようなものじゃないか。
「………なんで消えてくれないのよ、私の馬鹿…なんでこんな意志が弱いのよ」
侍女が心配して秘密に出してくれた菓子をバリッとやけくそに噛んだ。
その後も必要以上に大きな咀嚼音を立てて、苛立ちを菓子にぶつけた。なんて情けなく、子どものような仕草だろうと内心自分で自分を笑ってしまったが、相変わらず自分は謹慎を解かれていないし、こうする以外心の平穏を保てない。
「寧々、はしたない真似は止めなさい。」
そんな風に音を立てているものだから戸が叩かれていることに全く気付かなかったのだろう。
声を掛けられ振り向くと、そこには父が立っていた。
「お父様ッ……!も、申し訳ございません」
慌てて菓子をしまい、急いで父に向き直り立ち上がったが、衣に散らばった菓子のカスまでは気が回らず、振り返った瞬間に床に散らばった。
ああ、やってしまったと思ったが、後悔先に立たず。もうどうにでもなれとそのまま父に一礼した。
「……お父様、どうされたのですか?本日は夜遅くなると聞いておりましたが」
父はいつも凛としていて、そのまとう雰囲気は歳に似合わぬほど落ち着いているのだが、今日は何だか疲れが顔に出ていた。
「王宮で何かあったのですか?あまり顔色がよろしくないように見えますが…」
言ってしまってから後悔した。そんなことを聞いたところで父が自分のような年端もいかぬ女子に腹を割って話すはずが無いのに。
ところが、今日の父は本当にどうしてしまったのだろうか、座布団にドスンと座り込み、大きな溜息をついた。
「最近、猛龍様の気性が荒くて仕様がない。王様も何とか言ってくだされば良いのだが、王様も猛龍様に随分とお怒りで顔も見たくないとおっしゃられている。だからといって、我々官吏に抑えられるわけないのに」
「……はあ。」
何も返す言葉が見つからなかった。そんな猛龍の様子より、寧々はこんなにあっけらかんに内情を話す父の方がおかしくなってしまったのではないかと心配したからだ。まあ、本人には恐ろしくてとてもそんなことは言わないが。
「しかし、猛龍様は急にどうされたのですか?そんなに穏やかな方ではないのかな?と私も思っていましたが、王族という立場でそんなに荒れ狂うなど、王宮で何かあったのですか?」
今日の父ならこの調子で色々と話すだろうと踏んだ寧々は、このまま上手く蓮司のことを聞き出せるのではないかと、慣れない口調で少しずつ、少しずつ詰めていった。
「そうか、お前は何も知らなかったな。実はな______」
上手く策に乗ってくれたと寧々は内心おおいに歓喜した。
しかし、歓喜したのも束の間、その心は一気に叩き落された。
「……お、お父様……ど、どうしてそんな戯言を」
辛うじて喉から出た声は哀れなほど震えて、続きが出てこない。
「お前には私がこんな不謹慎な嘘をつく人間に見えるのか?」
「……………………嘘です、嘘に決まっています。蓮司が、あの蓮司が死んだなんて」
寧々は必死で首を振った。涙で視界がぼやけて、目の前の父の顔が見えない。父の前でこんなに乱れては、未練が残っていたということがバレてしまうのに、そんなことに考えなど全く及ばなかった。
衣をきつく掴んだ拳には大粒の涙が垂れ、そのあまりの熱さに火傷してしまいそうになる。
「蓮司だけではない。実際、街に派遣された多くの医官が亡くなった。……皮肉にも、その犠牲のおかげで流行病の山場は乗り越えられたようだが」
なんで蓮司が?どうして?猛龍様の専属なんでしょ?そんな蓮司がどうして王宮の外に行かなければならなかったの?
彼は優秀なんでしょ?なのに、なんでそんな彼が死ななければならなかったの?
どうして、どうして______
「猛龍様は決して言わないが、ご様子がおかしくなったのは蓮司が制止を振り切って王宮から出て行ったからだろう。………おそらく激しい口論にでもなったのか、今は蓮司の名を出すのはご法度だと皆が心得ている。離宮に飛ばされた黒蛇様はその御法度に触れてしまったのだろうな。」
____父の言葉が何も入ってこない。猛龍様?黒蛇様?他の医官?そんなことどうだっていい。
蓮司が死んだということ、ただそれが真実ではなく嘘であること。
それだけでいい、その言葉だけ聞かせてくれればいい
まるで壊れたように、気が狂ったように泣く娘を前にしても、清氏の顔色は何一つ変わらない。訝し気に思うようなそぶりもなく、ただただ事実を伝えたにすぎないといった様子で、娘を慰めることもなく、淡々と続けた。清氏にとったら、寧々の蓮司への恋心は最初から無かったものとして捉えているのだろう。
「すまない、あまりにも疲れていて、関係のないお前にこんな長話をしてしまった。」
そう言って立ち上がり、そのまま戸に手をかけた。
そのまま出て行こうとしたが、ああそうだと立ち止まり振り返った。
「____寧々、本日からお前の謹慎を解くことにする。ただし、清家の人間だということ、猛龍様の妃候補だということをしっかりと自覚し、幼稚な行動は慎むように。」
そう言い残して静かに出て行った。
見送りの挨拶も忘れたまま、寧々は嗚咽を繰り返した。
本当に死んだの?ねえ、本当なの?
あの日、生まれて初めて触れた身体、私の頭を撫でてくれた意外と大きい手、優しさで溢れたあの瞳ももうこの世にどこにも無いというの?
もうどこにも、この空の下、どこを探しても二度と会えないというの?
会えないだけの、昨日までの方が幾分とましだった。
蓮司がどこかにいると思っていた昨日までの方が、ずっと幸せだった。
いつか、もしかしたら、そんな淡い期待を生きる糧にできたから。
なのに、死んでしまったら_____
「………………何も残らない」




