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紫苑に露  作者: 花信風描
第四章 追憶
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第三十六話

___三ヶ月後、王宮

未知の感染症も王宮からの派遣によりだいぶ山場を越えた頃。王も含め皆が少し安堵していた反面、ある場所だけは荒れに荒れて手がつけられなくなっていた。

「猛龍様………座学のお時間ですが、」

「うるさいッ!!!黙れッ消え失せろ!」

「何ヶ月こうなさるおつもりですか…?このことが王様に知られたら、」

「消えろと言っているんだッ!!!なんだお前、殺されたいのか!?この俺ができないとでも!?」

猛龍は側に置いてある剣を握りしめ、ダンッと床が抜けるのではないかと思われるぐらいの音を立てて立ち上がった。その立ち姿はまるで仁王像だ。

五十代ほどで、中肉中背の官吏はヒィと小さく鳴き、あまりの恐怖に尻餅をついた。足をガタガタ震わせていたが、猛龍なら本当にやりかねないと慌てて殿から出て行ってしまった。


「もう無理だッ……!!今すぐ異動を願い入れよう…!!」

そんな様子を見た他の官吏たちは心底気の毒そうにため息をついた。




「おいおい、これで何人目なんだ?もう誰も手につけられないな……」

 

「しっかし、猛龍様は急にどうされたんだ?……まさか、また別の流行病ではないだろうな!?今度は精神がおかしくなるとか!?」


「物騒なことを言うな!!まあ、猛龍様はもともと穏やかな方ではなかったし、自我が抑えきれなくなったのだろうよ。あの蓮司?とかいうやつ他所者が何とか世話を焼いていたみたいだが、其奴も急に消えたらしいぞ」


「おいおい、断りもなくいなくなるなど前代未聞だぞ?……やはり常識のない他所者を王宮に入れるべきではないな」


「猛龍様と何かあったのか?そういえば猛龍様が狂い出したのは其奴が姿を消してからだ!!」


「阿呆か其方は!!国の時期王ともなられるお方が一医官ごときに情緒が乱れるなど他国の者が聞いたら飛んだ赤っ恥だ!!口を慎まぬかッ!!」


外野はそう好き勝手にああだこうだ言い合っている。王宮の官吏といえども、このような噂話は大好きなのだ。



そんな井戸端会議の横を涼しげな風が通り過ぎた。

さっきまで楽しそうに、下品に笑っていた官吏たちはその冷気を瞬時に感じ取り、まるで凍らされたかのように顔の表情が固まり、その主の方に向き直った。


「おっ…お早う御座います、黒蛇様」

「随分と楽しく談笑されていますね、私も混ぜていただいても?」


その声はいつも通り冷静で耳障りが良いが、その切れ長の目に光は宿っておらず、まるで汚物を見ているかのようだ。あまりにも声色と表情が対照的すぎて、見ている者は思わず混乱してしまう。


「あっもちろん!どうぞどうぞ!あ……いえ…………」


そう口走った一人の官吏は自分が何を言ってしまったのか言ってしまってから理解が追いつき、その瞬間、顔色が気味悪いぐらい青褪めて、静かに「申し訳ありません」と縮こまった。

フンッと小さく鼻を鳴らした黒蛇はその謝罪には何も答えず颯爽と通り過ぎた。



今頃猛反省会をしているであろう官吏たちを背にして黒蛇が向かった場所は、ここ三ヶ月間、新しい側仕えが入っては吐き出され、また入っては吐き出されている問題の猛龍殿だ。

黒蛇は外から見てもわかる殿の刺々しい雰囲気を見上げ、意を決したように唾を飲み、戸に手をかけた。


殿の中は想像以上に酷い状態だった。

誰も近寄れず暫く掃除をしてもらっていないせいか、廊下には小さな埃がふよふよと浮かんでいる。あろうことか、天井の隅には蜘蛛の巣のようなものまでかかっていて、とてもここに王子が住んでいるとは思いたくないほど不衛生極まりない。

猛龍が暴れた跡だろうか、精巧な造りの棚が垂直に倒れていて、そこに置いてあったであろう骨董品も跡形なく砕かれている。

猛龍にとってはただの陶器に過ぎないだろうが、風流人ある黒蛇にとってこれは三日寝込むほどの衝撃である。


「………これではお怪我をされる」

そう言って、静かに破片に触れた。

こんなことは自らも王子の身分である黒蛇がしなくても良いのだろうが、今こうして自分が猛龍のためできることをしているという事実が黒蛇を満たされた感情にした。




___そう、これだったのだ。自分が求めていたことは。

自分と兄上の世界に、他人など誰も要らない。

もともと二人で一つだったんだ。物心ついた時に既に兄上は私の世界にいて、貴族の子どもたちは王子である自分たちを畏れて一緒に遊んでくれないから、いつも一緒にいたじゃないか。


『黒蛇がいれば寂しくないっ!!』


そう言ったのは兄上なのに、いつから私を見てくださらなくなったのでしょう。

私はいつまでも、永遠に兄上の側にいたいと願っていたのに、兄上はいつからか私を遠ざけるように___


「………痛」

破片で人差し指を切ってしまったようで、黒蛇はちろちろと湧き出てくる血を呆然と眺めていた。




溢れ出てくるなら、もっと勢いよく噴き出してくれば良いのに。

中途半端な、曖昧な感情は何よりも嫌いだ。

嫌いなら嫌いと、好きなら好きとそう言ってほしい。

血とともに、地味だが小さな痛みが広がる。


黒蛇はその痛々しい指をぎゅっと握り、その拳を唇に当てた。

「……でも、この痛みも兄上のためなら、なんてことありません」

そう言って、ゆっくりとその指を舐めた。




破片の始末を終えた黒蛇はやっと猛龍の自室の前まで来た。


兄上に会うのはいつぶりだろうか?

ああそうだ。蓮司と寧々の密会をご報告して酷く怒らせてしまった日。あの日は腸が煮え返るほどの激しい感情の激流に飲み込まれたが、もう二人は兄上の世界に居ない。私が排除したから。

今は我を忘れて怒り狂っている兄上も、きっと私を見たら喜んでくれるだろう、昔のように戻れるだろう。

そう期待に胸を膨らませた。




「___兄上、弟が参りました。」


中から返事はない。

外出されているのだろうか?いや、でもこの三ヶ月間一度も殿から出られていないはず。


「………兄上、黒蛇ですが」

そうもう一度名を呼ぶと、戸を挟んでいても聞こえるぐらいわざとらしい大きな溜息が聞こえた。


「何の用だ」

久しぶりに聞く兄の声。

怒りを含んだその声を聞くだけでも、黒蛇の鼓動は十分高鳴った。


「暫くお姿を拝見しておりませんので、心配に思い参ったのです。………中に入っても?」


沈黙が続いた。

ほんの数分なのだろうが、返事を待っている者にとってはあまりにも長すぎる時間だ。


「……あ、兄上…」

本来なら待っているべきなのに、もう黒蛇の額からは脂汗が滲み出てきて、これ以上は限界だった。


「___よかろう、入れ」


そう言われた黒蛇の胸の内はひどく安心したような、そして少しの優越感に満ちた。


「兄上、失礼いたします」

部屋に入っても猛龍からの返事はない。少し寂しく感じたものの、中に入れてもらえただけで十分幸せに感じた。


想像はしていたものの、室内はその想像の遥か上をいく荒れ具合だった。

文机は真っ二つに割れ、猛龍が宝物のように大切にしていた精巧な装飾が施された高貴な剣は、まるでゴミのように放り投げられている。風流な絵が描かれている障子も、剣でビリビリに引き裂かれてしまって、その跡は痛々しいものだった。

自分の足元に目を移せば、官吏が何とか勉学に励ませようと持ってきたのだろうか、書物が投げ捨てられいる。


「あ…兄上、」

猛龍の方に視線を移すと、なんてことだろうか。

寝衣のまま、その寝衣でさえも奔放に着崩し、髪も結わぬまま、寝台の上にまるで放浪人のように寝転んでいる兄がいた。


「____」

黒蛇は言葉を失った。

そこにいるのは誰よりも気高く覇気があり、孤高の人物である兄ではない。

自分が尊敬し、まるで神様のように崇めてきた人物がかつていた場所なのに、今はどこにもいなかった。


「………どうして、」

黒蛇は静かに涙を流した。

「…………どうしてなのです?」

猛龍は黒蛇が入ってこようと無視して頭を掻いていたが、二度も問いかけられては流石に黙っておらず、大きな舌打ちをした後に「何がだ?」と心底うざったいといった様子で言葉を返した。

黒蛇は感情の激流が収まらず、ついにその場にとどまっていることができなくなって猛龍に駆け寄った。


寝台に寝転がる猛龍の体に縋りつき、大粒の涙を流した。

「兄上……!私の兄上!!目を覚ましてください!!どうしてこんなお姿に…ああ、私の偉大な兄上が…」

急に駆け寄って来て自分に縋りつく弟を、猛龍はまるで家畜のように振り払った。

「私に触るなッ!!!」


そう言われてもなお黒蛇は猛龍に縋りついた。

「あの者が……あの者がいなくなったからですか?だから兄上はこんなお姿になられたのですか!?」

”あの者”としか言っていないのに、猛龍はその言葉を聞いた途端、眉をピクリとさせた。

「どうして………なぜ、なぜ私がお傍にいるというのに………!!兄上は私を見てくださらないのですか!!あの者と私で……何がそんなに違うというのですか!?私の方が……あんな下賤の者より…誰よりもこの私の方が兄上の一番傍にいて、一番兄上のことを想っているというのになぜ急に現れて消えただけの奴が兄上はそんなに大事なのです!?」


「……………黙れ」

「見たくない……見たくなかったのです、憎いのです……憎くてたまらなかったのです…奴と兄上が一緒にいて、兄上が幸せそうに笑う姿を…この私にでさえ向けてくれなかった愛が…………奴に与えられるのが。私の兄上がどんどん崩されて……だから、やっとの思いで追い出したのに…そうすれば、全てが元通りになると…元の偉大な兄上に、私だけの兄上になると思っていたのに…………」


「……兄上、」

黒蛇は意を決したように顔を上げ、まっすぐに猛龍の目を見た。

もうこれ以上、溢れ出る気持ちを押さえつけることができない。

「兄上、私は……黒蛇は兄上のことを恋慕っています。兄としてではなく、一人の人間として貴方様に恋を………」




_____黒蛇が最後の言葉を言い終わる前に、その頬には稲妻のような激しい痛みが走った。

その痛みは成人男性一人を弾き飛ばすには十分すぎるもので、黒蛇はその場にぐしゃりと崩れ落ちた。

あまりにも一瞬の出来事に、自分が何をされたのか、どうして自分が床に倒れこんでいるのか理解が出来なかった。


「____お前なのか?」

今の一撃が他でもない兄から与えられたものだとやっと理解した黒蛇は、腫れた頬の痛みよりも、そう理解した途端にぽっかり空いてしまった心の穴の痛みにわなわなと震えだした。

兄上に打たれた、この私が、兄上と血を分け合ったこの私を兄上が殴った。………蓮司のために

兄上はやっぱり蓮司が好きなのだ、私のことなんかよりも蓮司が好きで好きでたまらないのだ

その事実を、分かっていても分かりたくなかったその事実を、兄自ら証明した、この私に。


視界が急に変わり、黒蛇は胸倉を掴まれ身体を持ち上げられた。

「_____お前なのだな。蓮司に事実を伝え、王宮から出るように仕向けたのは」

その声は聞いたことのないほど低く、どこまでも怒りに満ちていた。

もう黒蛇は心が空っぽになり、何も考えることができなくなってしまっていたが、その声の恐ろしさ、無慈悲さ。それが自分に向けられていることに対する絶望感から糸のような、か弱い涙を一筋流した。


____兄上のためなのです。次期王となられる兄上のため。次期王が私欲にまみれ、一部の人間を贔屓するようなことがあってはいけないでしょう?


ずっと用意してきた言い分も、もはやその存在さえ忘れ、黒蛇はどこを見ているのか分からないが、ただ茫然と一点を見つめたままだ。


猛龍が手を放し、その場に人形のように崩れ落ちた。

崩れ落ちた衝撃で、頭を強く打った。

その瞬間に、自分自身が風に吹かれた砂のように消えていくような感じがした。

今まで必死に隠してきた、大切にしてきた想いですら、もう何もかもがだ。

必死になって掴みたくても、全部すり抜けてどこか遠くへ行ってしまう。



猛龍は勢いよく戸を開け出て行った。

何か月ぶりだろうか、外の光を浴びて、声を張り上げた。

「おいッ!!誰かいるだろうッ!!?今すぐここにいるこの男を牢に連れていけ!!命令だ今すぐ来い!!!」

当然官吏たちは何人かいたが、誰も彼もが何か月ぶりかに急に出てきて何を言い出すのだ、とあてにしないで、ただただ何人かで固まってどうすればいいんだとたじろいでいた。

誰もすぐ来ないから、せっかちな猛龍は奇声を上げたかと思えば殿の柱を一度強く拳で打ち、また殿の中に戻っていった。そしてなんてことだろうか、まるで魂が抜けたかのような風貌になり果てた弟の黒蛇を引きずり出してくるではないか!?

官吏たちはこれはもう一大事だと大慌てで、武官を呼びに行く者、上官を呼びに行くもので猛龍殿辺り一帯はごった返してしまった。




そんな様子にでさえ腹が立った猛龍はそれら官吏たちを虫けらでも見るような目つきで睨みつけ、そのまま黒蛇を連れて行ってしまった。






____その後、王家としてあまりにも恥ずべき一大事件を聞きつけた王によって、二人は二度と顔を合わせることがなくなった。

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