第三十四話
やっと猛龍からの許しを得て、蓮司は一週間ぶりに外の空気を吸った。
久しぶりに吸った空気はひんやりしていて心地よく、沸々としていた苛立ちの気持ちが大分和らいだ。
蓮司は暫く日光浴をしていたが、さっきから忙しなく官吏たちが行ったり来たりを繰り返しており、大変滑稽なことに皆口に覆いをしている。あんなものは医者が治療の際にしか使わないのに、一般の官吏が身につけていることに違和感を覚えた。
「………年の暮れに向けた大掃除か?」
まだ早いような気もするが,官吏と喋らないように言われているし、それ以上追求はしなかった。
「これと…あ、あとこれも必要だ。うわぁ、結構な量になっちゃったな。」
蓮司は一度気になると、とことん知りたくなる性分で腕の中の書物はかなり重くなってきた。
「___蓮司殿」
もう戻らなければ流石に猛龍に怒られると思って戸に手をかけた瞬間、何者かに呼び止められた。
ただ、その声の主はなんとなくだが見当がついた。
「黒蛇様、ご無沙汰しております」
蓮司は非常に礼儀正しく挨拶をした。蓮司の中で黒蛇は非常に扱いづらい人物であるため、できれば当たり障りなくこの場をやり過ごしたい。
しかし、黒蛇の方を見て驚いた。
なんと黒蛇も先程の官吏と同じ覆いを口にしているではないか!?
まさか一国の王子が大掃除に参加するなどあり得ない。
「あぁ、これですか?……そういえば貴方はしなくて大丈夫なのですか?」
驚いた表情をしている蓮司に気がついたのか、黒蛇は自らの口についている覆いをひらひらさせた。
「え……と、その大丈夫とは…王宮内で何かあったのですか?先程、同じように覆いをした者たちも右往左往しておりましたが…」
蓮司はなるべく黒蛇とは会話をしないようにしようと努めていたのだが、自分だけ何も知らないような気がして我慢ができなかった。
しかし、目の前の黒蛇を見ると、あり得ないといった様子で珍しく目を見開いていた。
「本当に貴方は何も知らないのですか…?」
何をもったいぶっているのか、黒蛇はなかなか教えてくれない。
「はい、実は猛龍様がここ一週間自殿から全くお出にならないのです。私にも外へは出るなと命じられて…。今日はやっとのことで許しを得たのです。」
そう告げると黒蛇は「あぁ、そういうことですか」と妙に納得した、またお得意の皮肉めいた表情をして少し笑いながら何度も頭を上下に揺らしていた。
「兄上も随分と意地悪をなさるのですね、よほど貴方を手放したくないのでしょう。兄上には悪いですが、貴方のために本当のことを教えてあげましょう。」
蓮司は気がおかしくなりそうだった。
気持ちは前に前にと急かすのに、足に力が入らず、絡まって上手く走れない。
呼吸さえも上手くできなくなり、喉から聞くに耐えない音が出ている。怒りと一言で表して良いのかわからかい感情で頭に血が昇り、今自分が猛龍の目の前に立ったら死罪になるぐらいの言葉を良いかねない。
だけど、もしそうなったとしても蓮司はどうしても猛龍を許せない。
『貴方の母校が中心となって医者たちが尽力しているそうですが。その医者も多くが死んで、もう王宮から医官共々を派遣せねばならぬほど崩壊寸前のようです。』
黒蛇からそう聞いた時、蓮司の頭の中には真っ先に秀の顔が浮かんび、全身から血の気が引くのを感じた。焦点が定まらぬまま書庫を飛び出した。
秀のあの優しい顔が発疹に侵された姿が思い浮かぶ。想像しては消し、また浮かび上がっては消し、あまりの不安と焦りで涙が制御できない。
猛龍は蓮司の出自を知った上でなぜ自分にこのことを秘密にしたのか?そもそも王子という立場で、なぜ国の緊急事態だというのに放って置けるのか?
なぜ、なぜなんだという言葉が頭の中に響いている。なぜ猛龍がこんなことをしたのか理解が追いつかない。
___秀、お願い、お願いだから生きていてくれ。
蓮司は心の中でただひたすら願った。
猛龍の自室の戸を勢いよく開けた。
当の本人は今朝と変わらず姿勢を崩して書物を読んでいる。
「蓮司!!遅いじゃないか!書庫に行っていただけではなかったのか!?」
猛龍は蓮司を見るなり待ちくたびれたといった様子で立ち上がったが、もはや蓮司に猛龍の言葉は届いていない。
蓮司はずっと俯いたまま、猛龍の言葉には何も反応しない。
「おいッ!!聞いているのか蓮司ッ!!何をしていたのかと聞いているんだ!!」
「………なぜですか?」
蓮司がそうポツリと呟いた途端、猛龍の顔から血の気が引いた。すぐに察したのは、蓮司に対して後ろめたさがあったからだ。
「……な、何のことだ?」
「何のことか…ですか?そんなことはわざわざ私の口から言わなくても分かっておいででしょう?」
「…し、知らない、何のことか私は知らんッ!!!」
「ご存知ないのですね、では私から今の世情をお伝えいたしましょう。」
ずっと俯いたまま淡々と、しかし内に激しい憤りに満ちた蓮司の声を聞いて、猛龍は居ても立っても居られなくなった。
「………違うんだっ!蓮司、落ち着いてくれ、一度私の話を聞いてくれないか?」
もう何を言っても蓮司には聞こえていない。
「今、王宮の外では未知の病で医者を含めた多くの人間が亡くなり、死体の山が道端に出来上がっているとか。国は医官の派遣を決定したのに、それなのに…まさかこの国の王子であられる方が自らの医官を差し出さないどころか自殿に匿っているみたいです。」
「蓮司ッ!!!!私の話を聞けと言っているだろう!?其方は……まさか私の決定に意見するというのか!?」
「そのように言えば私が黙って従うとでも思ったのですかッ!!!?猛龍様ッ……貴方はご自身の立場をお忘れですか!?それに……私が元は王宮外の人間だということも……!王宮の外にはお世話になった者や、大切な友がいるのに、こんなことになって王宮の中の誰よりもこの私が助けに行くべきだと…助けに行きたがるとお考えになってはくださらなかったのですか!?そんな私になぜ事実を隠して閉じ込めるような真似をしたのですか!?今も外で友が苦しんでいたら、もしも……死んでいたらどうしてくれるのですか!?」
蓮司の顔はもう涙が汗か鼻水か何が何かもわからずぐしゃぐしゃになっている。もう自分でも誰に対して何を言っているのかも判断ができなくなってしまっている。
気が動転している蓮司は到底気づかなかったが、"友"という言葉を放った途端、猛龍の口端がピクリと動いた。
「……大切な友だと?其方、私に仕えているのに、その私より大切な友だと?私に忠誠を誓ってここにいるのではないのか!?」
そう言う猛龍の声は心なしか震えている。
しかし、今の蓮司はそれに気付けるほどの心の余裕がない。
「私が…其方のことを唯一の友だと言ったことも忘れたのか?……その私が、友を失うかもしれない場に行かせたくないと願うことはそんなに責められることか?」
「猛龍様」
蓮司は震える猛龍の声を冷淡な声で遮った。
「……貴方様が私のことを友だとおっしゃってくださり大切にしてくださったこと、本当に感謝しております。………ですが、私は猛龍様のことを対等な関係である友だとは一度たりとも思ったことなどございません」
蓮司は俯いたまま話し続けているから、その言葉を放ったときの猛龍の表情は全く分からない。
「………蓮司、それは本心…心の底からそう思っているのか?」
わからないが、そう言う猛龍の声が涙を含んだものに変わったことは少し頭の中を掠めた。
「……将来国を治める神聖な立場である猛龍様と、かつては野草を食べてきた私が最初から友になれるはずがないでしょう?」
「そんなっ….…私は…そんなこと微塵も気にしていないと言ったはずだ、」
「ですから、今私がこのように猛龍様に対して怒りをぶつけることは決してあってはなりません。ですが、死罪を覚悟で申し上げます。私を今すぐ王宮から出してください。」
猛龍は蓮司から刺さる言葉の数々に後ろにふらついた。でも、最後の言葉に対しては眉を激しく吊り上げた。
「………駄目だッ!!それだけは絶対に認めない!お前が何と言おうと私は絶対にお前を外には出さない!!」
「猛龍様ッ!!」
「お前一人が行って何になるのだ!?大勢医官が派遣されたのだからもう良いじゃないかッ!!」
猛龍も蓮司も自らの立場など意にも介さず、ただただぶつかり合った。もし、この会話を誰かが聞いていたら猛龍、蓮司どちらとも褒められたものではないだろう。
もう収拾がつかなくなり、蓮司はその場に土下座した。
「……止めろ、止めるんだ、蓮司…立つんだ。」
「どれだけ反対されようと私の意志は変わりません。王宮の外の様子を知りながら見捨てるなど絶対にしたくありません。そんなことで安全に生きながらえても一生の恥です。だったら今、猛龍様に誓った忠義に背き、命令に背き、大罪人として死んだ方が随分とましです。ですから……許可してくださらないのなら私を今この場で処刑してください。」
猛龍は立っていられなくなり、その場にぐしゃりと崩れ落ち、だめだ、駄目だと弱々しく言葉を発している。
「何故なんだ……なぜそんなに王宮の外の人間が大事なんだ……?私の何がいけなかったのか?」
その声には、いつもの覇気など何一つ残っていない。蓮司は猛龍が自分を手にかけないと分かり、すっとその場に立ち上がった。
「私は数多くいる貴方の臣下の一人に過ぎません。この世に生を受けた瞬間から何もかも違うのに、私たちの間に特別な関係などあるわけがないのです。」
そう告げた後、蓮司は勢いよく部屋から飛び出した。
戸は激しい音を立てて開いた。
蓮司にはもう自分の荷を纏めるなどという思考など微塵もない。身一つでも良いから王宮から飛び出して早く秀に会いたいだけだ。食事は取れているのか、きちんと寝れているのか、心を病んでいないか………そもそも生きていてくれるのか。
生きていてくれるかも分からないなんて状況に、蓮司の心はズタズタに引き裂かれている。
「蓮司ッ………!!行くな……私を見捨てる気か!?お前は私の者だろうッ!」
後ろから弱々しくも、でも怒りを精一杯込めた猛龍の声が聞こえてくる。
「おいッ………!お前ら、何をしている!早く蓮司を捕まえるのだ……!!決して外に出すでない……!!!」
猛龍は幻覚でも見ているのだろうか?みんなこの緊急事態に忙しなく働いていて、誰も周りになんていないのに、蓮司を捕えろと命令している。
「蓮司ッ………!一度でも王宮の外へ出てみろ!!お前はもう二度とここへは戻って来られないからな!?裏切り者のお前を私は決して許さんぞ!!」
背後から呻き声のような脅迫めいた声が聞こえてきても、もはや蓮司には何も聞こえない。声は次第に怒号へと変わり、終いには聞くに耐えない奇声にへと変わっていった。




